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「家族はできたけど、僕は上島さんも亡くしちゃってるから」後輩芸人に誕生日を祝われるタイプではないが…有吉弘行(50)が“絶望”の中で出会った仲間

文春オンライン / 2024年12月31日 17時0分

「家族はできたけど、僕は上島さんも亡くしちゃってるから」後輩芸人に誕生日を祝われるタイプではないが…有吉弘行(50)が“絶望”の中で出会った仲間

有吉弘行 ©時事通信社

「『AKB共和国』から始まって『紅白歌合戦』やで。すごいよな!  有吉の40から50の駆け上がり方は」

 今年11月21日に放送された『淳×ジュニア×有吉 40歳-50歳~10年観察~』(TBS、以下同)で、千原ジュニアは、有吉弘行の浮き沈みの激しい芸能生活を端的に表現した。

 この番組は、田村淳とジュニア、有吉という3人の40歳から50歳までの10年に密着し彼らを“観察”したもの。冒頭の発言は、その中で40歳の有吉が「初めてMCやらせてもらったのが、その(=AKB共和国)前身の番組だったんで」と言ったことを受けたものだ。

再ブレイク後も消えない有吉の「諦め」

 もはや説明不要だろうが、有吉はデビュー翌年の1996年、猿岩石として『進め!電波少年』(日本テレビ)に出演。ヒッチハイク旅で一大ブームを生んだ。彼らが歌う「白い雲のように」も大ヒットし、アイドル的人気となるも程なく仕事が激減。いわゆる「一発屋」の代名詞のような存在となった。

 2004年には猿岩石も解散。だが、この前後から『内村プロデュース』(テレビ朝日)などで存在感を発揮し始め、2007年には『アメトーーク!』で品川祐に「おしゃべりクソ野郎」と言い放った、世にいう「おしゃクソ事変」が勃発。それをきっかけに「あだ名芸」で再ブレイクを果たした。そして、その翌年頃からAKBを始めとするアイドル番組を仕切ることが多くなっていった。ちなみに彼のMCとしての出世作『マツコ&有吉の怒り新党』(テレビ朝日)が始まったのは2011年だ。

 40歳(2014年)の有吉はこうも言っていた。

「俺、もうどっかで諦めたんだと思う。ある意味ちょっと諦めてるんですよね。なんか最近は虚しくなってきて(スタッフに)『どんなやつやりたいですか?』って聞かれて『何か楽しいやつやりたいですね』っつって『じゃあ、たとえば?』『いやぁ、何か昔やってた「内P」とか楽しかったなあ』とか、『淳さんとやってた「(クイズ☆)タレント名鑑」楽しかったから、あんな……』とか言うんですけど、まぁやれないじゃないですか」

「(スタッフに言うと)『ハハ』って鼻で笑われちゃう。『できないでしょ。わかってるでしょ』って。(そうすると)言うのが恥ずかしくなっちゃうんですよ。結局自分に自信がないと言うか。いまなんかMCの仕事とかボチボチやらせてもらって1~2年で。お前ごときが何を言うんだって思いがやっぱ強くて。それでも情熱がないわけじゃない。たぶん、恥ずかしいんだと思います。(略)猿岩石の思いをまだ引きずっている」

 当時は情報系番組全盛でお笑い番組がいま以上に作りづらかった。そうしたこともあっての「諦め」だったのだろう。また、有吉は「もう食えなくなることはないんじゃないか?」と言われても、こう答えている。

「やっぱり1回ああいう経験してると、自分だけはって思うんですよね。逆の意味で自分だけは選ばれた人間だって思うんですよ。自分だけは消えるって思うんですよね。僕がたぶん、自分を客観的に見てたら『大丈夫ですよ』って言うと思うんですよ。そう思うとそんなことないだろうなと思うんですけど、それでもやっぱ僕は『誰かに嫌われて仕事なくなって』とか『飽きられるんだろうな』って思うんですよね」

亡くなった上島竜兵への強い思い

 有吉の心のなかには常に絶望と諦観がある。それでも、彼の「情熱」は消えなかったに違いない。有吉はこの翌年、『内P』の精神を受け継いだような番組である『有吉の壁』(日本テレビ)を立ち上げる。そして、数回の特番を経て2020年4月から、まさかのゴールデンタイムでのレギュラー化を果たしたのだ。同じ2020年、『タレント名鑑』のエッセンスも感じさせる『有吉クイズ』(テレビ朝日)も生まれ、翌年にはレギュラー化した。2022年には全曜日でゴールデン・プライムタイムの冠番組を持つ快挙(しかもNHKと民放キー局すべて)を達成した。

 そしてこの年、『NHK紅白歌合戦』に“初出場”。純烈×ダチョウ倶楽部のコラボに有吉も参加し、「白い雲のように」を歌った。その年の5月、不遇の時代を支えてくれていた恩人であり、「親友なような感じもするし尊敬する先輩だとも思ってる」(『アメトーーク!』2021年8月19日)と語っていた上島竜兵が亡くなっていた。その弔いの意もある歌唱だったのだろう。歌い終えた有吉は「上島も喜んでおります」と微笑んだ。

『10年観察』でとりわけ印象的だったのは、他の2人が誕生日に毎年のように後輩芸人たちを集めてホームパーティを開いていたのに対し、有吉だけはいつも特別なことをせずにすごしていたことだ。この番組でも、そんな自らの10年間のVTRを見て「家族はできたけど、仲間が少ないなって。僕は上島さんも亡くしちゃってるから……」とつぶやき、上島への思いの強さをにじませていた。

 翌2023年、ついに有吉は司会者として『紅白歌合戦』に出演した。

 有吉は『紅白』を数日後に控えた日に『有吉クイズ』でゲームセンターを訪れ、メダルゲームに興じながら、こんなふうに語っていた。

「この番組でウナギ獲ってるのと『紅白』の司会が終わった時の達成感って変わんないんですよね。小さいウナギしか獲れなかったなあ(※1)ってのと『紅白』の大事な場面で嚙んじゃったなっていう後悔の仕方、たぶん一緒だと思うんですよね。欲が無いわけじゃないんですけど欲深くはないのかもしれないですね。あんまり大きな差異がないというかねえ。緊張感も変わらないですよ。レスリー(・キー)さんのカレンダー(※2)そろそろ迫ってきたなっていうのと『紅白』が迫ってきたなという緊張感は」「『紅白』の司会大変だなぁ、うまくできるかなぁっていう緊張感よりは、打ち上げあるのかな、打ち上げで挨拶しなきゃいけないのかなっていう、そっちの苦手感、苦手のほうが先に立っちゃうんですよねぇ」

 果たして、『紅白』で有吉はいつも以上に緊張していたように見えた。

 番組後半、有吉は当時っぽい衣装を着て、藤井フミヤとともに再び「白い雲のように」を歌った。

 歌い終わり、一旦ステージから捌けて戻ってくると、まさかの着替えに失敗。「緊張で焦っちゃって裸足で来ちゃった」「記憶が飛んじゃって」と、慌てて裸足で登場したのだ。

「フミヤさんと歌い終わって緊張の糸が切れたというか真っ白になっちゃって、はぁーって勝手に着替えちゃってた」(『NHK紅白歌合戦お正月スペシャル』2024年1月2日)と振り返っていた。

“恩人”ウッチャンナンチャンとの深い関係性

 そんな昨年の『紅白』のハイライトの一つは、日本のテレビ放送70年を記念した特別企画「テレビが届けた名曲たち」。その中で、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!!』(日本テレビ)で誕生したユニット・ポケットビスケッツとブラックビスケッツが登場したのだ。

「僕にとっては特別な思いがある先輩方で。苦しい時お世話になってたというのもありますし。ヒッチハイクから帰ってきてホテルに缶詰め状態になってた時があったんですよ。その時にわざわざ来てくださったのがあの方々で」「『まだまだ大変なことがあるだろうけど一生懸命がんばってね』言っていただいて、それをずっと胸に留めていて」(同)と語っているように、有吉にとってウッチャンナンチャンは“恩人”だ。

 彼がくすぶり始めた頃も、南原清隆司会の『リングの魂』(テレビ朝日)の柔道企画「J-1」で活躍の場を与えていたし(このときの有吉を見て、ナンシー関がその「ふてぶてしさ」をいち早く見抜き評していたのも有名な話だ)、前述のように内村光良司会の『内村プロデュース』では、猿岩石を主役にした企画や名物キャラとなった「猫男爵」などで重用していた。

「今回も僕のためってわけじゃないけど、少しは『有吉がやるなら』って思いで出てくださったんで、本当に感謝しかなかったですし、(舞台)袖で危なかったですね。なに中盤で泣いてんだろうと思われちゃうからグッと堪えてね」(同)

 有吉にとって数少ない“仲間”のような存在なのだろう。今年9月には「内村光良還暦祭り」として『内村プロデュース』が一夜限りの復活を果たした。当然、有吉もそれに参加。「有吉とかバナナマンよりもレッド(吉田)さんが前はいいんですか?」と有田哲平がツッコんだように、“序列”も当時のまま。後列から体を張って笑いを取っていた。同じく「還暦祭り」といえば、横浜アリーナでおこなわれたライブ「男・出川哲朗 還暦祭り」(2024年1月14日)にも、めったにライブに出ることはない有吉が出演。ダチョウ倶楽部を始めとする太田プロの先輩たちとパンイチ姿で熱湯風呂などで体を張りつつ、オチとして「白い雲のように」を歌い、「やめろー」「曲を大事にしろー!」などと内村にツッコまれていた。

 ちなみに有吉が50歳になって初めておこなった仕事は、有吉を「お師匠様」と慕う平成ノブシコブシ・吉村崇が福岡でやっている番組『福岡上陸!ノブコブ吉村のぱくTube』(RKB)へのゲスト出演。体を張りまくっていた。

 確かに毎年誕生日にホームパーティをするような仲間は少ないかもしれない。けれど、その人のためなら体を張れるというような深い関係性を築いているのだ。

 ただし一方で、体を張る=芸人として偉いというような風潮にも有吉は与していない。仕事がない中で過酷な長期ロケに行ったときのことを、いま思えば「人生の中でいい時間だった」と振り返りつつ、こう続けている。

「その時期にしかできない仕事がやっぱりあるんですよ、みんな。いまやってる仕事っていうのは、いましかできない仕事だから大事にやんなきゃいけない。逆に俺なんかがそういう仕事やってないと、『有吉は体張ってないな』とかよく言うんだけど、それ、いまやる仕事を一生懸命やるだけの話なんで」(『有吉弘行のサンデーナイトドリーマー』2024年9月1日)

 そして今年も有吉は『紅白歌合戦』の司会を務める。1度きりではないかと思っていたから驚いたが、「いま」求められていることをまっとうしなければならないという考えがあるからだと思うと合点がいく。

「誰かに譲りたくないなと思っちゃうんです」

 前出の『有吉クイズ』のメダルゲームで高く積み上げられたメダルタワーを見ながら有吉は言った。

「それがね本当、人生と一緒でね。いつまでも芸能界居座ってんな、みたいな。お前これだけ(メダルが)あるんだからいいじゃないかと思うじゃないですか。誰かに譲ってあげろよと思うんだけどね、やっぱり欲深いんですよ。あれ(タワー)落とすまでは帰らないぞと思っちゃうんですよね」

 有吉はそんな自分を「惨め」だと自嘲するが、それが“絶望”を抱えた者の生き方だ。

◆◆◆

※1 2023年6月27日放送の『有吉クイズ』で、美味しいうな重をイチから作りたいという企画で、有吉自ら川の激流に入り天然ウナギを捕ろうと体を張って奮闘した。

※2 フェティッシュあふれる様々な扮装をする有吉をレスリー・キーが撮影し、カレンダーを作る企画が毎年おこなわれていた。

(戸部田 誠)

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