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強く美しい物語に立ち会うよろこびを――上橋菜穂子『香君』を読んで湧き上がる想い

文春オンライン / 2024年12月27日 6時0分

強く美しい物語に立ち会うよろこびを――上橋菜穂子『香君』を読んで湧き上がる想い

「青い光のような青香草の香り」――物語の第一章、最後の一文に触れたとき、胸を衝かれた。本作の主人公はアイシャ、たぐいまれな嗅覚を持ち、香りから様々な情報を読み取る能力を持つ。特に植物が発する香りは、アイシャには率直な声として聞こえる。その体感を他の人とは分かち合えない以上、アイシャは生涯を孤独に生きるよう宿命づけられている。だが彼女は、自分と弟を殺害しようとしている王位簒奪者ヂュークチが無味無臭の毒を盛られているとき、それを察知し、命を救った。たとえ敵でも気づいた以上は見殺しに出来なかったのだ。彼女は生まれながら備わる能力に恐れを抱きながらも、他者と関わる道を選ぶ。そう生まれついたことに意味はあるのか。力はどこからもたらされたのか。そして今、なんのためにここにいるのか――根源への旅は、けれど暗闇ではない。そう、彼女を導く香りは、ときに美しい光も帯びているから。体感を分かち合うことは出来ずとも、澄んだ心を持つひとたちと同じ願いを見つめることはできる。だから、どんな逆境に追い込まれようと、彼女は香りの声に耳を澄ませる。「香君」だからこそ切り開ける、光射す方へ歩き出すために。

 本作は、上橋菜穂子さんの『鹿の王 水底の橋』以来、三年ぶりの新たな物語だ。読者はどんなに待ち望んでいたことだろう。そして今、強く美しい物語に立ち会えた喜びに、広い碧空を見上げるような心地でいることだろう。

 上橋さんは「守り人」シリーズ、『獣の奏者』など、重厚な物語世界を生み出してこられた世界屈指のファンタジー作家だ。言語学者であったトールキンが圧倒的な教養をもとに『ホビットの冒険』や『指輪物語』を書いたように、文化人類学者でもある上橋さんの物語世界は常に、細部まで緻密に構築されながらも、土と大気の匂いがする。ページをめくれば広大な大陸や海があり、人々の暮らしが息づいている。急峻な山や渓谷、大河や沃野など、それぞれの土地に根差す民は、風土に応じた文化や信仰を生み出し、国家を築き、歴史を刻んでいる。その根底には、古代からのたゆまぬ時の流れがあり、神話が世界の成り立ちをひそやかに伝える。さらに登場人物たちは、辺境に住まう少数民族から、国家の統治者まで、性別も貴賤も多岐に渡る。各々が己の視座から世界を見渡し、心を動かし、意志を持って躍動していくことで、壮大なスケールの物語があざやかに織り上げられていくのだ。

香りで万象を知る活神〈香君〉

 上橋さんのファンタジーは、決して現実社会を語るための器や方便ではない。それでも、人間の普遍的な感情と社会への洞察に優れた創作物が、時に、まるで予見するように現実と符合することがあるように、上橋さんが紡ぐ物語は、私たちが生きる社会の有りようも克明に映し出す。たとえば、未知の病である「黒狼熱(ミツツアル)」の蔓延と医療を描いた『鹿の王』が刊行されたのは二〇一四年九月のこと。新型コロナウイルス感染症の最初の感染者が報告されたのは、五年後の二〇一九年十二月のことだった。それからわずか数ヶ月のあいだに世界的流行となったとき、私はホッサルの苦悩を思い出していた。この物語には医療従事者の闘いと葛藤、そして福音のような希望が込められていたことを想い、終わりの見えない夜の底で、心を支えられた。

 そして今作は人と植物(特に主食である穀物)の関わりが主軸となっている。巨大なアグリビジネスによって爆発的に増える人口を支えてきた弊害、今後の食糧危機の時代に一歩ずつ近づいている現在を脳裏から振り払うことはできない。上橋さんもおそらくそうした世界を見渡した上で、しかし、そのまま映すのではなく、そこに潜む美しさを――国境も人種も越えて英知を結集させていこうとする意志や、平和を希求する心、自然や他者と共存する生き方など――たしかにある美しいものを信じながら、物語の種を育まれていかれたのだと感じる。

 舞台となるウマール帝国は、かつて神郷からもたらされたオアレ稲という植物をもとに版図を拡大してきた。オアレ稲は非常に強く、どんな気候の土地でも収穫できる奇跡の穀物。だが帝国から配布される種籾と肥料を使わなければ発芽しないとされている。さらにオアレ稲を植えると土壌が変質してしまい、他の穀物を育てることが一切出来なくなってしまう。奇跡の稲は、民を飢餓から救い、富をもたらす代わりに、帝国への絶対的隷属を課す軛なのだ。この強い穀物を軸とする帝国支配の精神的支柱となっているのが、活神「香君」の存在だ。初代香君は、オアレ稲を抱いて神郷から降り立ち、香りで万象を識る能力を持っていたという。

 香君の力がどれほど強大か、ここで、植物の知性を紹介しながら振り返ろう。植物は定住する生き物だからこそ、テリトリーを守る能力に長けている。土地に張り巡らせた根から、化学物質を放出して、土壌にいる微生物や細菌などと信号を交換し、周囲の性質を変化させていく。攻撃を受けたときには、敵が誰かを識別し、揮発性化合物を放出して、敵の敵を援軍として呼び寄せる。もちろん受粉や種子散布を手伝ってくれる愛しき友人も呼び寄せる。植物は情報の集合体である「香り」という「言葉」を用いて、世界に積極的に語りかけているのだ。香君はたぐいまれな嗅覚で、これら植物の「言葉」のみならず、大気・気候・人間の気配や感情など、世界を形成する多くの情報を読み取ることが出来る。初代香君は神格化され、転生を続ける活神として信仰を集める一方、永遠に富める帝国の象徴であり、支配体制を維持する装置として機能してきたのだ。

アイシャとオリエ、ふたりの人生が交わるとき

 初めて香君宮を参詣する者は、広大な庭園の中、何度も枝分かれする参道を、自ら選ばなくてはならない。けれどアイシャは青香草の香りに導かれ、喜びを胸に、迷いなく真の道を辿った。――「あの道は本当に〈静かな道〉だった。いま思い返しても心に透明な光が広がる。それほどに美しく、静かな道だった」。……初代の香君が生み出したその道を、迷いなく辿れた者は、これまでひとりもいなかった。アイシャこそ、初代以来はじめて出現した、真の能力を持つ者だった。ひるがえって、もうひとりの主人公ともいうべき、当代の香君であるオリエの生き様に光があたる。アイシャとオリエ、〈神ではない〉不完全なふたりの香君の生が交わるところから、物語は求心力を増していく。

 オリエは人の域を超える嗅覚はないのに、「今回の香君を輩出する栄誉」を与えられた藩王国に生まれたことで、十三歳の時に転生者だと指名を受けた。少女はその日を境に人であることを捨てさせられた。活神としての振る舞いを強制され、国家の道具であることを百も承知で飾りものの香君を演じてきた。不安を心に押し込め、懸命な学習と研究によって責務を果たし、豊饒の象徴として微笑み続けた。彼女の背後には同じように十三歳で指名を受けて、死ぬまで香君宮から出られなかった歴代の女たちがいる。彼女たちが宿命を恨んで逃げ出すには、香君に寄せられる民の祈りはあまりに純粋すぎたのだろう。そうしてオリエもまた、民の祈りに応え、飢餓のない泰平をもたらしたいという「香君の心」により、初代の遺志を継いでいる。

 対してアイシャは「香君の能力」を宿しながらも、心には迷いと疑念、そして哀しみを抱えていた。かつてアイシャの祖父はオアレ稲を「喜びと悲嘆の稲」と呼び、拒絶した。そのせいで民を飢餓に陥らせ、王位を追われた。自裁する祖父を残して、父は身重の妻と幼いアイシャを連れて流浪の身となり、民を救えなかったことを償いきれぬ罪として負っていた。辛い旅は、弟の出産と引き換えに母の命までも奪った。アイシャは「香君の能力」により、祖父がオアレ稲に抱いた恐怖心を深く理解している。けれど娘の立場からは、父の痛みも母への思慕も、故郷を捨てた寂しさも、決して忘れることは出来ない。どうしてこんなことになったのか、能力と心のはざまで引き裂かれながら、香りの声を聞き続けていた。

ついに明かされる、香君の真実

 香君の「心」と「能力」。それぞれを有するふたりが出会ったとき、時は満ちた。神話に閉じ込められていた初代の香君もついに幻影から解き放たれる。そこに見えるのは、迷い悩み、もがきながらも、人々を救おうとした異郷の女性。さらに人災が引き起こしたオアレ稲の災禍が、伝承の奥にある神郷オアレマヅラへの通い路を開く。

 アイシャとオリエを中心に、オアレ稲の災禍に立ち向かうために多くの力が連携していく。オリエを支え続けて来たマシュウ。神郷を探し求めた求道者ユーマ。ひそかに他の穀物とオアレ稲の共存を模索してきたユギノ山荘のタクたち。昆虫の生態を研究しているアリキ師。各地の様子をつぶさに観察するミジマら香使たち……。災禍を打ち破るのは、人域を越えた神の力ではない。人々が蓄えてきた知識や経験、それぞれの特性を発揮するネットワークの力だ。そして連携の力は、横に広がるだけではない。かつて初代の香君が肥料に〈絶対の下限〉を定めた意味や伝承の真実など、後世の幸せを切ないほどに願う心と英知が遥かな過去からももたらされる。こうして人々が紡ぎ続けた力は、堅牢な帝国中枢をも動かす、清新な再生の風となるのだ。

 ユーマは語る。「多分、彼の地では何かが終わりつつあり、それ故に、こちらとの通い路が開くたびに、女児をこちらに送りだしたのではないかと思うのです。――命脈を繋ぐために」。――美しき永遠の園を彷彿とさせる神郷にも変化の刻は訪れた。この世のすべてのものはいつか滅びの時を迎えるのだろう。だが、命はしなやかに変容する。初代の香君は子供を残すことなく亡くなったが、今、神郷の血脈を継ぎながら、この地の命と交わって芽吹いた、アイシャと弟ミルチャ、そしてマシュウがいる。新たな命たちは、逞しく根差し、力強さを増していくだろう。

 神郷からもたらされた香君の能力は、母から娘へと色濃く受け継がれる。「香君」でありながら、人として歩いていくアイシャに、どんな未来が待つかは分からない。アイシャが娘を持たなければ、そのたぐいまれな能力は途絶えるのだろう。けれど彼女が光を失うことはない。「香君」とは、生きとし生けるものたちが精一杯に生きようとする声を聞き取る者のこと。そして彼女が受け止めた声は、人々に手渡され、豊かな英知と愛情によって、未来へと繋いでいけるものだから。

 ノルウェーの永久凍土の地下には、最大四五〇万種の種子を保存可能とされる「地球最後の日のための貯蔵庫」がある。人類が災厄に陥るなど不慮の事態に備えて、恒久的にあらゆる植物の遺伝子情報を保護するために。上橋さんが描くファンタジーは、現在を生きる私たちひとりひとりの胸の内も照らし出す。あなたの正道はどこにあるのかと――青い光のような青香草の香りで導いている。


撮影:深野未季

(長田 育恵/文春文庫)

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