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「ホームには電車の形をした売店が...」湘南の玄関口「藤沢」には何がある?

文春オンライン / 2024年12月30日 6時10分

「ホームには電車の形をした売店が...」湘南の玄関口「藤沢」には何がある?

「湘南」という名の特急列車がある。その名の通り湘南地域、小田原や平塚から東京駅・新宿駅までを結んでいる特急列車だ。運転本数は下り12本・上り10本。なんだか洒落込んだ名前の特急で、湘南方面への観光にはうってつけ……と言いたいところだが、あんがい馴染みのない人も多いのではないかと思う。

 というのも、この特急「湘南」、下りは夕方以降、上りは朝だけに走っているというほぼ完全なる通勤専用特急なのだ。天下の横浜駅すらも通過するという特殊なスタイルを持ち、湘南地域を首都圏のベッドタウンとしている人たちの都心への通勤を支えている。

 そんな変わり種の特急が走る湘南地域。その中心的なターミナルは、藤沢駅だ。藤沢駅の1日の利用客は約10万人。JR東日本の駅の中では30位にランクインし、ほかの湘南地域のどの駅よりも多い。JRの東海道線に加え、小田急江ノ島線や江ノ電も乗り入れて、つまりは湘南のシンボルたる江の島方面にも線路が続く。いわば、湘南きっての交通の要衝といっていい。

 となれば、きっと湘南らしい海ムードが漂う駅なんでしょう……などと思いながら、藤沢駅にやってきた。

湘南のターミナルらしい賑わいぶり

 東海道線の藤沢駅のホームには、オレンジとグリーンに塗られたド派手な電車のようなものが置かれている。いったい何だと近づいて見れば、小さな売店だ。

 このオレンジとグリーンの組み合わせは、「湘南色」と呼ばれている。1950年に登場した80系電車から採用されたもので、何でもみかんの実と葉っぱをイメージしたものなのだとか。以後、湘南地域を走る電車はおしなべてこのカラーリング。いまでは全面塗装の電車はなくなったが、東海道線は湘南色の帯を巻いている。湘南色の売店がホームの上にあるあたりからして、藤沢駅は湘南の中心ターミナルだということがよくわかる。

 そして、駅の周囲もまた、湘南のターミナルらしい賑わいぶりだ。

 あいにく海とはちょっと離れているので潮の香りなどは漂ってこないけれど、活気がみなぎっている。どちらにもペデストリアンデッキが広がり、駅前広場を取り囲む商業ビルと直結している。南口なんて、ODAKYU 湘南 GATEという小田急百貨店を核とした商業ビルが正面にあって、その中には江ノ電の乗り場がある。ビルの壁面に掲げられた「江ノ電」の看板は味わい深く、ああ湘南、といった心持ちにしてくれる。

 そうした駅前の商業ビルの周りも飲食店がひしめくような商業ゾーン。人通りも多く、北口はヤマダデンキとビックカメラが向かい合うという家電大戦争。その奥には、柳通り・銀座通りという名の商店街が東西に走っていて、おなじみのチェーン店から歴史のありそうな個人店までもが軒を並べる。南北共に負けず劣らずの活気に満ちた町である。さすが、湘南のターミナルだ。

旧東海道が藤沢のルーツ

 こうして藤沢駅の南北を見比べてみると、南口の方が駅前の商業ビルの雰囲気がいくらか古めかしく感じられる。ペデストリアンデッキの開放感や設えも、どことなく北口の方が真新しい。ということは、南側が藤沢にとって古くからの中心ということなのだろうか。海に近いのもこっちだし、江ノ電ののりばもあるし。

 そう思って調べてみたら、まったくの間違いであった。藤沢は、北口側が古くからの中心だ。そのルーツは、旧東海道。江戸時代以来の宿場町にある。

 藤沢駅と旧東海道の藤沢宿は、直線距離で約1km離れている。北口のデッキを降りて、少し歩くと国道467号へ。この道をまっすぐ北に進んで藤沢橋交差点のあたりから先が、かつて宿場町だった一帯だ。いまでは天下の国道、道幅も広くなっていて、旧宿場町の面影はほとんど消え失せている。けれど、それでも老舗の商店がいくつか見えるあたり、雰囲気ばかりはどことなく、といったところだろうか。

 神社仏閣も目立ち、宿場の名残もほんのり香るこの一帯は、藤沢本町という。この町名もまた、藤沢のルーツここにあり。藤沢は、この旧宿場町から駅に向かって南へと拡大して形作られたのだ。銀座通りの商店街は、古い藤沢と新しい藤沢のちょうど中間にあって、賑わいの中心になったのだろう。

 銀座通りの商店街と旧宿場町の間は、おおよそ住宅地だ。細い路地が入り組んで張り巡らされ、合間合間には見上げるばかりの巨大なマンションも。こうしたマンションに住んでいる人が、特急「湘南」に乗って東京都心へと通うのだろうか。

巨大マンション群の中に、まるで時代に取り残されたかのような場所が…

 そんな巨大なマンションの中に、まるで時代に取り残されたかのような場所があった。およそマンション群にはふさわしくない、古びたスナックが小さな一角にひしめく。見上げればマンション、目の前にはやっているのかいないのかもわからないバラック建ての小さなスナック。町の歴史が凝縮されたかのようなコントラストである。

 かつて、この一角は“辰巳”、藤沢新地などと呼ばれた宿場町時代からの遊郭街だった。近代以降も続けて栄え、昭和初期に発行された『全国遊廓案内』には、「江ノ島鎌倉への歸途には必らず藤沢へ寄つて、此處の遊郭を素見して行く者が多い」とあるくらい。戦後は進駐軍の特殊慰安施設となり、その後はスナック街などに転じて命脈を保った。そうした賑わいと、すぐ南側を通る銀座通りの商店街の賑わいは、必ずしも無関係だったわけではなかろう。

 そんな古き藤沢の名残も、2000年代以降急速に姿を消してマンション群へと変わっていった。小さな店がひしめく一帯は権利関係も複雑で、まとまった土地を確保してマンションに生まれ変わらせるにはさぞかし苦労もあったろう。ちなみに、この一角には2005年に世間を賑わせた耐震偽装事件の対象マンションのひとつがあった。直接関係があるわけではなかろうが、歴史的な何かが因縁となったのか、などといいたくなってしまうエピソードである。

駅周辺は「湘南の海のイメージ」とはほど遠い

 藤沢駅が開業したのは、1887年のことだ。次いで1902年に江ノ電が開業し、小田急が乗り入れたのは1929年のことだ。当初、駅周辺の市街地は旧宿場町に近い北口側を中心に発展。南口の都市化は戦後になってからだ。現在の江ノ電ののりばがあるビル(ODAKYU 湘南 GATE)は1974年にできた。前後して、1965年にはフジサワ名店ビル、1973年にはOPA、1976年には志津百貨店と、南口一帯は大型商業施設の巣になった。駅の南北にペデストリアンデッキが整備されたのもこの時期のことだ。

 オレンジとグリーンの湘南電車も颯爽と走り、市街地化が急速に進展。湘南地域がベッドタウンとして首都圏に飲み込まれていったのも、ちょうどこの頃である。 

 いま、藤沢の町を歩いても、湘南らしさ、もっといえば湘南の海のイメージとはほど遠い。むしろ海どころか東京や横浜といった大都市の延長線上にあるような雰囲気が勝っている。1970年代以降、この町が名実ともに首都圏の一部になったことが影響しているのだろう。もちろん悪いことばかりではなくて、だからこそ藤沢という駅が湘南を代表するターミナルになり得たのである。

宿場町の時代から、江ノ島に通じる玄関口だった

 そうした中で北口の商店街の向こうのスナック街に迷い込めば、古き藤沢にタイムスリップしたような、そうした気分に浸ることができる。10年以上前に藤沢にやってきたときには、いまよりももっとスナック街の範囲が広かったような記憶がある。それが少なくなったのは、マンション群の侵食がますます進んでいるからだろう。そう遠くない将来、スナック街は完全に消えてしまうに違いない。 

 などと、ちょっと感傷に浸りながら藤沢の町を歩く。旧東海道が境川を渡る弁天橋。橋のたもとには、藤沢宿の高札場があったことを示す碑が建つ。境川の東側には遊行寺。鎌倉時代創建の時宗総本山で、呑海上人が遊行後の住まいとしたのがはじまりだという。 

 そんな歴史のある遊行寺から境川を渡った旧東海道。そこには、南に向かうと江の島弁財天へ、なる旨が刻まれた古い石造りの道標がある。藤沢は、いまに限らず宿場町の時代から、江の島に通じる玄関口という役割を持っていた。弁天橋を渡って南方面に延々と進んでいけば、江の島に着く。ならば、昔の人に倣って徒歩で……とはさすがにいかないまでも、電車を乗り継いで江の島まで足を延ばしてみることにしよう。せっかく、藤沢までやってきたのだから。

写真=鼠入昌史

〈 初日の出定番スポット「江の島」へ向かう“知られざる移動手段” まるでジェットコースターのような“乗り物”の正体 〉へ続く

(鼠入 昌史)

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