高峰秀子でもない、原節子でもない…名優・山﨑努が“永遠に忘れられない”ただ一人の女性とは?
文春オンライン / 2025年1月4日 6時0分
少年時代の山﨑努さん
黒澤明監督の『天国と地獄』で誘拐犯を演じ一躍脚光を浴び、『影武者』『お葬式』『マルサの女』『おくりびと』など、数々の名作で圧倒的な存在感を放ってきた名優・山﨑努。そのキャリアは60年以上に及び、舞台「リア王」での徹底的な役作りを記録した『 俳優のノート 』に代表されるように、独自の演技哲学を体現し続けている。
その山﨑が俳優人生で初めて綴った自伝『 「俳優」の肩ごしに 』が文庫化された。この度の文庫化を記念して、本書から2つのエピソードを全文公開する。第1回は初めて淡い恋心を抱いた小学生時代を記した「女先生」である。(全2回の第1回/ 続きを読む )
◆◆◆
小学校(当時は国民学校と言っていた。嫌な呼称だ)一年の担任はウネモト先生。はたち前後の女性。目が大きくて色白の肌がつやつやしたびっくりするような美女だった。女優でいえば、──高峰秀子、原節子、賀来千香子、いやどれも少しずつ違うがそんな雰囲気。静かな声で話す大人しい人だが、気に入った生徒数人を引き連れて写真館に行き記念写真を撮ったりする大胆さもあった。僕もそのペットの一人に加えてもらっていた。
進級して二年生のとき、そのマドンナ先生が突然わが家に引っ越してきて仰天。
なぜ担任だった女先生が同居することになったのか。父が徴兵されていなくなり、母が心細かったのか、あるいは経済的な理由か。よくわからない。
父が出征したのは僕が小学一年のときだったと思う。国民服に戦闘帽白手袋の父、傍らに打ち沈んだ母、祖父、その前で日の丸の小旗を持ってうれしそうに笑っているツトムくんの写真がある。彼は事態をまったく理解していなかったようだ。
過去の自分はもう自分ではない。別人格である。そんな感じ。二人でちょっと話してみたい気がする。「君、ごきげんだね。どうして?」「おとうちゃんが兵たいさんになったから。オセキハンおいしかった。オセキハンにゴマシオすきなんだ」「優しくてきれいな先生と一緒に住むようになってよかったね」「うん、うれしい」「どんなふうに?」「……」。
女先生は二階の座敷で寝起きする。食事は残念ながら別々。台所は共有。薪ストーブ、七輪、流し、コークス、練炭、糠漬の壺、冷蔵庫はない。
濃いむらさきのつやつやしたナスの漬けものが旨い。牛、豚肉は臭くて食べられない。火鉢で焼いて醬油をつけたカキモチが大好物。薪を燃やすのが得意で、ストーブの係はよく受けもった。新聞紙を裂いて丸め、細く割った木片で囲い、太い木を載せマッチで点火。火箸で調節する。あるときその焼け火箸が靴下に挟まってしまい、右太ももの裏をやけどした。やけどの跡は五円玉の大きさで今も残っている。ツトム少年と僕を繫ぐ数少ない証拠である。
門からまっすぐ伸びている路地を先生が歩いて行く後ろ姿。これは今の僕にとっても格別貴重な情景だ。
やや薄暗い画面。だからたぶん夕暮れどき。夕飯の買い物に行くのだろうか。背すじの伸びた正しい姿勢、自然体。歩調はいくぶん早いが急ぎ足というほどでもない。スカートが揺れている。
ホームスパン風の厚手の生地の、ベージュ色のスカートが、左右に、リズミカルに揺れている。これが異性を意識した最初の体験(だと思う)。もちろん七歳のツトムくんがあのときめざめたわけではない。数年後の別のツトムが記憶の画像をリピートし感じたことである(はずだ)。
記憶とは本当にやっかいなもので、思い出すたびに新しいものがつけ加わる。変質もする。美化されるものもあれば汚されるものもある。
ウネモト先生。今もご存命でこの一文を読んで下さることを願っているが、さて、どんな反応をされるだろうか。おそらくスカートの件りは「あらあら」と苦笑で受け流して下さるだろうと想像している。ご不快であったら、どうかお許し頂きたい。
このお方、この女性がいわゆる初恋の人だったのだ。これは今回のこの回想作文で得た発見である。こうして綴っていると、大きなこと、どうでもいいようなこと、様々なことがずるずると引き出されてくる。先生の姓だけでなくお名前も思い出した。しかも漢字で。従って当然これも何年か後に加えたものだ。
B29が飛来するようになって先生は郷里に帰ることになる。高空をゆっくり移動する爆撃機は川のなかのメダカのような半透明のきれいな生き物に見えた。
〈 「あのねえ、役者っていうのは…」「おまえみたいな…」…俳優を志した若き日の山﨑努が、叔母から言われた“強烈すぎる一言” 〉へ続く
(山﨑 努/文春文庫)
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