23歳の頃に「悪魔の囁きが、喉を締めつけ…」坂本冬美(57)の“封印してしまいたい黒歴史”とは〈36回目の出場〉
文春オンライン / 2024年12月31日 17時0分
坂本冬美 ©文藝春秋
坂本冬美がNHK『紅白歌合戦』への36回目の出場を迎える。これにより坂本は、歴代の紅組歌手の出場回数でいえば島倉千代子の35回を抜き、今年47回目の出場を決めた石川さゆり、過去39回の和田アキ子に次ぐ単独3位となる。
34年ぶりに「能登はいらんかいね」を披露
今回の紅白で坂本は「能登はいらんかいね」をご当地である能登・輪島から生中継で歌う。言うまでもなく、今年元日の能登半島地震、さらに9月の豪雨とあいついで災害に見舞われた能登の人たちにエールを送ろうという趣旨である。
坂本が「能登はいらんかいね」を紅白で披露するのは、リリースされた1990年以来じつに34年ぶり2度目となる。男が故郷の能登に思いを馳せるさまを歌った同曲の詞は「藤田まさと記念・新作歌謡詩コンクール」の1988年度の入賞作で、演歌界のヒットメーカーで坂本の師である作曲家の猪俣公章が曲をつけた。
作詞者の岸元克己にはこれ以外に目立った作品はないようだが、この歌では日本海から吹きつける寒風を「シベリア返し」と表現するなど、見事に能登の情景を描いている。地元の名物も随所に織り込まれており、たとえば、2番と3番の間奏では和太鼓が威勢のいい掛け声とともに打ち鳴らされるが、これは歌詞の終わりに出てくる輪島の伝統芸能・御陣乗太鼓(ごじんじょだいこ)だ。編曲した京建輔によれば、レコーディングでは現地から本物の打ち手をスタジオに呼んで演奏してもらったという(「京建輔 Fan Site 第7回インタビュー 坂本冬美『あばれ太鼓』『能登はいらんかいね』『火の国の女』」)。
本人曰く「難曲中の難曲」
御陣乗太鼓は、戦国時代、輪島に攻め入った越後の上杉謙信の軍を、村人たちが一計を案じ、鬼面をかぶり海藻を髪にして太鼓を打ち鳴らして追い払ったという伝説に由来する。坂本もこの曲のリリース時、御陣乗太鼓の奉納打ちが披露される輪島の名舟祭を訪れ、ステージ上で熱唱した。今年元日の地震により打ち手たちは散り散りとなるも、夏には規模を縮小しつつ名舟祭を開くなど伝統を絶やすまいと奮闘していると伝えられる。今夜の紅白にも地元の御陣乗太鼓保存会が出演し、勇壮なその響きが彼女の歌に彩りを添えることになる。
曲中に登場する名物にはこのほか、2番の歌詞「いさざ土産に」のいさざがある。これはシロウオの北陸地方での異名で、能登では春先に産卵のため川を遡上してくるのを捕るいさざ漁が風物詩となっている。
じつは坂本にとって「能登はいらんかいね」は自分の持ち歌のなかでも一番苦手な曲であり、なかでも鬼門がこの「いさざ土産に」の箇所だという。本人いわく、猪俣先生の曲はもともと音程の上がり下がりが激しいが、《この曲は特にその傾向が強くて。上がったと思うと急に下がり、またすぐに上がるという繰り返し。若いころ、低い声がうまく出せなかったわたしにとっては、難曲中の難曲でした》(『坂本冬美のモゴモゴモゴ』光文社、2022年)。34年前に紅白で歌ったときも惨憺たるものであったらしい。
前回の歌唱は“封印してしまいたい黒歴史”
〈《1番をなんとか乗り切って、さあ2番。「来るぞ、来るぞ、いさざが来るぞぉ」。悪魔の囁きが、喉を締めつけます。そして――。/なんと表現していいものやら。出てきた声は、牛がもがき苦しむような声とでもいいましょうか。本番前に何度も何度も練習して、そのあげくにこれですから、もう腹が立つのを通り越して、笑っちゃいます。/あんなに練習したのに、あんな歌しか歌えないなんて……あなたは馬鹿なの!? ホント、自分で自分が嫌になります》(同上)〉
坂本はこのときのことを《わたしの中では、永久に封印してしまいたい黒歴史です》とまで言っている(同上)。ただし、封印したいのは歌のほうではなく、テレビに映った自分そのものであった。それというのも、当時流行っていた太眉のメイクが一重まぶたの彼女にはちっとも似合っていなかったからだ。用意された衣装も白い着物にたくさんの花を羽根のように背負うというもので、それだけならまだしも、おかっぱのカツラをかぶらされ、坂本は恥ずかしくて顔から火が出そうだったという。しかし、このとき紅白出場3回目、デビューからもまだ4年目とあって、さすがに断ることはできなかったらしい。
梅干しメーカー勤務から猪俣公章の内弟子へ
熊野古道の入口の「口熊野」と呼ばれる和歌山県上富田(かみとんだ)町に生まれ育った坂本は、母方の祖父の影響で幼い頃から歌が好きだった。小学5年生のときには、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」を聴いて歌手を志すようになる。それからというもの一人で歌の練習に励み、高校卒業後に地元の梅干しメーカーに入社してからも、昼休みには地元のカラオケ同好会の人が倉庫に備えた立派な機器で歌わせてもらい、定時で退社するとさらに家で歌っていたという。
坂本が歌手になる糸口をつかんだNHKの『勝ち抜き歌謡天国』に応募してくれたのも、その同好会の主宰者だという。同番組は、テープ審査と予選を通過して各地方での大会に進出した5人の出場者が、それぞれペアを組んだ作曲家からレッスンを受け、その成果を競い合うというものだった。
坂本は同番組の最終回(1986年3月放送)に出演、そこでペアを組んだのが猪俣公章だった。ほかの作曲家が30分かけて教えるなか、猪俣はたった5分だけ、それでも教え方は的確で彼女は見事優勝する。これをきっかけに猪俣の内弟子となり、単身上京した。このとき19歳になったばかりだった。それからデビューするまで、師の身の回りの世話や家事全般、飼い犬の散歩、さらには運転手まで務めながら下積み生活を送る。
同世代が遊んでいても…「10年後に、笑ってやるっ」
下積み自体はつらくはなかったが、歌のレッスンが少ないのが不安だったという。そんな日々にあって、猪俣を六本木の行きつけのブラジル料理店まで送ったときには、車を停めると「この歌を練習しとけ」とテープを渡され、師が店から出てくるまで、道行く人に不審がられつつも運転席で声を張り上げて歌っていた。
時あたかもバブルに入る前後であり、六本木はいま以上ににぎわっていたことだろう。だが、坂本は、《楽しげに遊んでいる同世代の人を見ても、彼らを羨ましいと思ったことは一度もありません。「10年後に、私は絶対、笑ってやるっ」。そんな意気込みだけはしっかり持っていましたから》と当時を振り返っている(『週刊現代』2011年3月26日号)。
デビューは思った以上に早く、内弟子になって1年も経たない1987年3月のことだった。レコード各社は彼女が『勝ち抜き歌謡天国』に出演したときから狙っており、争奪戦の末、東芝EMIが獲得していた。
「これは流行らないと思います」「バカやろう!」
猪俣は愛弟子のデビュー曲の候補として8曲も東芝側に提出したという。そのなかから選ばれたのが「あばれ太鼓」であった。しかし、石川さゆりのような女歌を歌いたいと思っていた坂本には、完全な男歌であるこの曲が古くさく感じられた。デビュー曲は一生ついてまわるものだと考えると我慢できず、つい猪俣に「これは流行らないと思います」と言ってしまう。だが、「バカやろう! 新人が流行るとか、流行らないとか言うのは100年早い!」と一喝されて終わりであった(『坂本冬美のモゴモゴモゴ』)。
ナベプロ創業者・渡辺晋は「男歌がいい」と即答
とはいえ、猪俣も内心は男歌で行っていいものか迷いがあったらしい。ちょうど前年の秋頃、芸能界で世話になってきた渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)の創業社長・渡辺晋が来宅したので、坂本のテープを聴かせると、「(彼女には)男歌と女歌どちらがいいと思いますか」と思い切って訊いてみた。すると渡辺は「男歌がいい」と即答。男歌で成功したのは畠山みどりや水前寺清子のあとあまりいないからそろそろ時期だというのが、その理由であった。その上で「この子の声には張りとツヤがある。面白いと思うよ」「着流しや袴姿は避けて、振り袖で歌わせたほうがいいね。女っぽい着物で男歌」とも助言してくれたという(猪俣公章『酒と演歌と男と女』講談社、1993年)。
このとき渡辺はがんで闘病中で、結局、坂本のデビューを見ないまま翌1987年1月に亡くなった。しかし、さすがは多くのスターを送り出してきただけにその目は確かであった。「あばれ太鼓」は彼女自ら各地を飛び回り、レコード店などで歌うなどしてアピールしたかいもあり、80万枚を売り上げるヒットとなる。このあと「あばれ太鼓」に無法松の一代記の語りを入れたバージョンを出したのち、実質的な2作目となる「祝い酒」を1988年にリリース、同年暮れに初出場した紅白でも披露した。
憧れの石川さゆりに背中を押され…
紅白初出場を知らされたのは、地方に向かう新幹線の車中だった。師の猪俣には両親とあわせて電話で伝え、帰京後、改めて自宅へ赴き報告する。このとき、「本番で泣くな。泣いたら歌にならなくなるからな」と語気強く言われたのを彼女は肝に銘じた。
本番の直前には、憧れの石川さゆりが背中をポンと押しながら「さあ、行ってらっしゃい」と囁いてくれたので、坂本はパニック寸前に陥ってしまう。おかげでどうやって歌ったのか記憶が定かでないという。師の教えどおり最後まで泣かずに歌いきったものの、袖に戻った途端号泣し、次の出番を待っていた桂銀淑(ケイ・ウンスク)までもらい泣きさせてしまった。石川には番組終わりの出場者全員による「蛍の光」の合唱でも隣でそっと手をつないでもらい、坂本のなかでいい思い出となっている。
ジャンルにとらわれず、ロックやポップスもカバー
坂本は演歌の王道を歩む一方で、ジャンルにとらわれない活動にも若手時代から積極的だった。紅白に初出場した1988年には、レコード会社が同じ東芝EMIだったロックバンド・RCサクセションのアルバム『COVERS』にコーラスとして参加している(ただし、このアルバムは原子力発電の問題などをとりあげた収録曲が東芝側に拒否され、別のレコード会社から発売された)。RCの忌野清志郎とはその後も、細野晴臣も加えた異色のユニット「HIS」を組んでアルバム『日本の人』(1991年)をリリースするなど関係が続いた。
1988年10月に初めて開催した新宿コマ劇場での単独コンサートでも、持ち歌がまだ2曲しかなかったので、演歌界の先輩たちの曲ばかりでなく、松任谷由実やサザンオールスターズなどロック・ポップスのカバーも披露した。これが《直立不動で歌う従来の演歌と違い、走り回ったり飛び跳ねたりで、まるでロックのライブを見せられているかのようだ》(『サンデー毎日』1988年12月4日号)と評判をとる。ちなみにサザンは10代のころからファンで、内弟子時代もカラオケで桑田佳祐の歌真似をして声を嗄らしては猪俣に叱られていた。
恩師が亡くなった年に…坂本の心残りとは
坂本が念願の女歌を猪俣からもらったのは、「能登はいらんかいね」の翌年、1991年にリリースした「火の国の女」で、この年の紅白でも披露した。ただし、曲自体はすでに2年前に「火の蛍」という仮タイトルで出来ており、彼女を喜ばせたが、猪俣の「まだ早い!」の鶴の一声でストップがかかったという。坂本が後年語ったところによれば、師は《1年目2年目3年目は男唄を歌い、4年目でしっとりとした男唄、5年目で満を持して、女唄……というプランを考えてくださっていた》ようだ(『週刊大衆』2018年1月8・15日号)。
猪俣はその2年後、1993年6月に亡くなる。同年の紅白で坂本は、自身も出演したNHKの大河ドラマ『炎(ほむら)立つ』のイメージソングとして堀内孝雄が作曲し、阿久悠が別名の「多夢星人」で詞を提供した「恋は火の舞 剣(つるぎ)の舞」を歌った。
この曲を4月にリリースしたとき、すでに猪俣は入退院を繰り返していた。あるとき坂本が病床を見舞うと、師は伍代夏子につくった「恋ざんげ」をテープで聴かせ、「どうだ、いい曲だろう?」と胸を反らしたという。《でも……、きっとあのとき先生は「それなのに、なんでお前の曲は俺じゃないんだ」という言葉が喉まで出かかっていたはずです》と彼女は師が亡くなったあとに慮った(『坂本冬美のモゴモゴモゴ』)。NHK側の意向もあってやむをえなかったのだろうが、この年の紅白で先生の曲を歌えなかったのが心残りだとも語っている(『週刊ポスト』2014年12月26日号)。
しかし、1980年代に入ってしばらくヒットに恵まれなかった猪俣にとって、そのころ運命的に出会い、自身のすべてを注いで育てた坂本が才能を開花させたことは、何よりの喜びだったはずである。彼女が紅白に初出場したときも、《自宅のTVの前でヨシヨシっていいながら涙ぐんでいた》という(同上)。
お蔵入り寸前まで追い込まれた「夜桜お七」
猪俣の葬儀では、作曲家の三木たかしが自らも泣きながら「冬美、先生のそばにいてやれ」と気遣ってくれた。三木は猪俣から頼まれたかのように、翌1994年、彼女のために「夜桜お七」を手がける。ロックを思わせるテンポのいい曲調に加え、気鋭の歌人・林あまりが1ヵ月かけて書き上げたという詞も、ティッシュというフレーズが出てくるなど演歌としては斬新なものとなった。坂本も曲を聴くや、その熱いメロディに「早く歌いたい!」と心が震えたという。新人時代よりクロスオーバーな活動をしてきたことを思えば、これほど彼女にふさわしい曲もないだろう。
だが、同曲を出すことにレコード会社や事務所の関係者は「坂本冬美をつぶす気か⁉︎」と猛反対し、お蔵入り寸前にまで追い込まれた。それを三木が「30万枚売れなければ、頭を丸めて責任を取ります」と宣言して押し切ったという。彼の覚悟は吉と出て、「夜桜お七」は30万枚をはるかに超えて大ヒットし、坂本の代表曲の一つとなった。紅白でも発売年に歌って以来、これまでに9回披露している。
〈 「坂本冬美重体」の見出し、死亡説が流れたことも…出場36回目・坂本冬美(57)が紅白から一時“消えた”のはなぜだったのか? 〉へ続く
(近藤 正高)
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