「坂本冬美重体」の見出し、死亡説が流れたことも…出場36回目・坂本冬美(57)が紅白から一時“消えた”のはなぜだったのか?
文春オンライン / 2024年12月31日 17時0分
坂本冬美さん ©文藝春秋
〈 23歳の頃に「悪魔の囁きが、喉を締めつけ…」坂本冬美(57)の“封印してしまいたい黒歴史”とは〈36回目の出場〉 〉から続く
NHK『紅白歌合戦』へ36回目の出場を決めた坂本冬美(57)。今年は、能登復興への思いを込めて「能登はいらんかいね」(1990年)を34年ぶりに紅白のステージで披露する。かつて「難曲中の難曲」と語っていた同曲をどのようにパフォーマンスするのか、注目だ。
坂本冬美と紅白、その歴史を振り返る。(全2回の2本目/ はじめから読む )
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デビュー10年目、心身ともに疲弊して…
坂本冬美はデビュー10年目を迎えた1996年、「夜桜お七」で初めて紅白でトリをとった。しかし、翌春には30歳を迎えようとしていたこのころ、彼女は心身ともに疲弊していた。それまではプレッシャーやストレスは、若さもあってステージで発散できていたのが、しだいに自分に対してどんどん厳しくなり、小さなミスも見過ごせなくなっていたという。目の前の仕事をこなすだけで、自分の引き出しを増やせないことに焦りも感じていた。のちに当時を顧みて次のように語っている。
〈《年齢的なものも大きかった。女性の30代って、精神的にも肉体的にも変化がありますよね。20代と違い、小さなつまずきで身体と心のバランスを失い、知らず知らず自分をコントロールできなくなってしまって、それでも頑張らなくてはいけない立場に押しつぶされそうでした》(『婦人公論』2003年4月22日号)〉
そこへ来て立て続けに試練に見舞われる。紅白でトリを務めたのは、虫垂炎の手術明けであった。そのステージで1コーラスを歌ったあと、紅組のほうを見ると、親友の伍代夏子と藤あや子が涙ぐんでおり、坂本も涙がこみあげてきたものの、どうにかこらえて歌いきった。そんな彼女に、打ち上げで大ベテランの都はるみは「大丈夫よ、トリなんて順番だと思えば」と言ってくれたという。これについて《せめて歌う前に聞きたかったです(笑い)》と坂本はのちに笑い話のように明かしたが(『週刊ポスト』2014年12月26日号)、このとき彼女の身体はいよいよ悲鳴を上げていた。
年明けの春には今度は膵炎で入院。それに追い打ちをかけるように、同じ年の秋、父親を事故で突然失う。そのショックから精神的に不安定になった母のことが心配で、坂本自身も心をすり減らしていった。あとから考えれば、このとき休めばよかったのかもしれないが、この時点でスケジュールは2年先まで決まっており、とても休める状態ではなかった。そこで周囲のスタッフには、2002年にデビュー15周年を迎えたら一区切りつけたいと申し出て、ファンにはわからないよう徐々に仕事を絞っていった。
その間、何とか歌い続けてはいたものの、体力は落ち、自信もなくなるばかりであった。もともといつも緊張しながら出演していたテレビの生放送も、本番の1週間前からカウントダウンしては冷や汗が出て、そのうちテレビに出ること自体が恐怖となる。ついには、このまま引退してもいいとまで思い詰めた。
スポーツ新聞に「坂本冬美重体」の見出し、死亡説まで…
2001年12月にようやく翌春からの休養を宣言し、紅白ではこの年リリースした「凛として」を歌った。いつもは緊張し通しの紅白も、この年だけは自分を客観的に見られるほど冷静でいられ、堂々と歌えたらしい。1番が終わると、紅白で歌うのもおしまいかもと感じ、この光景を心に焼きつけるつもりで間奏のあいだ、ゆっくりと視線を動かしたという。歌い終わっても涙はなかった。
〈《歌い終え、深々とお辞儀をしたときに、わたしの心によぎったのは、“ごめんなさい”と“ありがとうございました”という2つの言葉だけ……。/控室に戻ってからも、“これでいいんだ”という思いと、“こうするしかないんだ”という気持ちが交錯し、いつまでもぐるぐると渦巻いていました》(『坂本冬美のモゴモゴモゴ』光文社、2022年)〉
年が明けて2002年4月から無期限の休養に入った。当初は休養の理由を公にせず、復帰の時期も明言しなかったが、そのためにあらぬ憶測を呼んでしまう。ハワイでしばらくすごしているあいだに日本では自分の重病説が取り沙汰され、和歌山の実家にもマスコミが張りつき、帰国後も戻るに戻れなかった。重病説は収まるどころか広がる一方で、夏に藤あや子が公演していた名古屋へ遊びに行ったときには、スポーツ紙が「坂本冬美重体」とデカデカと見出しに掲げていて驚愕する。挙げ句の果てには死亡説まで出る始末であった。
大ベテラン歌手・二葉百合子に稽古をつけてもらうように
実際には体調は回復に向かっていた。膵炎も精神的なものが大きかったらしく、休養に入って数ヵ月後に受けた血液検査の結果は、主治医が不思議がるほど良くなっていた。歌手を辞めるつもりでいたのも、大ベテランの歌手で浪曲師の二葉百合子がテレビで歌う姿を見て感銘を受けたのを機に心変わりし、自分から頼み込んで稽古をつけてもらうようになる。
稽古に通い始めた当初、二葉からカウンセリングを受けるように自分の悩みを打ち明けると、「あなたも歌の壁にぶつかったのね。それはとても素晴らしいことで、あなたが成長している証なのよ」との言葉をかけてもらった(『週刊現代』2011年3月26日号)。いざ稽古に入るときは、しばらく歌っていなかったので声が出ないのではないかと怖かったという。
復帰への希望が見えた“きっかけ”
しかし、二葉が聞かせるとおりに浪曲の節を歌うという特訓を週1回のペースで続けるうち、閉じていた喉がゆっくりと開いていく感覚があった。しばらくして、もしかしたらと思い、車を運転中に試しに「夜桜お七」のCDをかけて歌ってみたら、納得がいく声が出るようになっていたという(『週刊文春』2020年11月19日号)。
こうして希望が見え、2002年中には事務所やレコード会社に自ら連絡し、翌春の復帰にこぎつけた。その年の紅白は実家で視聴し、《みんな楽しそうに歌っている。初めて、紅白ってお祭りなんだと思えたんです》という(『週刊ポスト』2014年12月26日号)。
復帰した2003年の紅白ではデビュー曲「あばれ太鼓」を歌い、初心に返って再出発する決意を印象づける。翌2004年の紅白では、ファンだった韓流スターのイ・ビョンホンがゲスト出演し、彼が通る動線のところで待ち伏せして握手してもらったとか。これも歌手に復帰したからこその役得だが、本人いわく《この年は心ここにあらずで、うまく歌えなかったな(苦笑)》(『週刊大衆』2018年1月8・15日号)。
先述のとおり坂本は生放送で緊張するたちで、紅白でも歌詞を間違えることがたびたびあった。その原因について《私、すごく自分に甘いんですよ。完璧主義者でもないですし。でも変に自分を追い詰めるところもあって、年々ちゃんとした歌を届けなきゃ、っていう思いがプレッシャーになってるのかもしれない》と彼女は省みている(『週刊文春』2016年3月10日号)。
しかし、復帰後は以前のように疲弊することなく、新たなヒットも続々と生まれた。2009年にはフォークデュオ、ビリー・バンバンの「また君に恋してる」を焼酎のCMでカバーし、シングル「アジアの海賊」にカップリングで収録するとともに、携帯電話の着うたとして配信を始めると人気に火がつき、大ヒットとなった。
「私の歌手人生はこの歌にたどり着くためにやってきたものだったんだな」
2018年、「夜桜お七」で初めて紅組のトップバッターを務めた平成最後の紅白では、ラストを特別出演したサザンオールスターズが飾った。坂本はこのときのリハーサルで、中学時代から憧れ続けてきた桑田佳祐と念願かなって対面した。
これをきっかけにデビュー以来心に秘めてきた思いが爆発し、翌春には桑田に自分に曲を書いてほしいと手紙を書く。数ヵ月経っても返事が来ないのであきらめかけたていたところ、先方からスタジオに来てくださいと連絡が入る。てっきり、直接断られるのかと思いきや、桑田はおもむろに「こういうものを書いてみたんですが」と新曲の詞を出してきて、坂本を感激させる。彼は続けてスタジオに入るよう促すと、すでに曲もできており、デモテープを聴かせてくれた。それから、桑田直々にギターの弾き語りによる微に入り細をうがつような歌唱指導を受けたという。
この曲こそ、話題を呼んだ「ブッダのように私は死んだ」であった。レコーディング自体はその年の11月には終えていたものの、情報解禁までは1年待たねばならなかった。そのあいだ、坂本はみんなに自慢して回りたいのに言えず、うずうずしていたらしい。ようやくリリースにいたったあとで、《個人的には、私の歌手人生はこの歌にたどり着くためにやってきたものだったんだなって思います》と感慨を口にしている(『週刊文春』2020年11月19日号)。
結果的にリリースされたのはコロナ禍のさなかの2020年11月となった。いまにして思えば、愛した男に殺された女の怨み節という形で人間の業を歌った同曲は、妙に当時の状況にハマっていた。翌月、初めて無観客で放送された紅白でも彼女はこの歌を披露している。
能登の被災地に向けて…「泣かずに歌うこと」
2011年の東日本大震災の直後、坂本は郷里の母から電話で「冬美、おまえは何をやっているんだ」と一喝され、発生の翌月には被災地へ赴き避難所で歌を披露している。ただ、彼女のなかでは《被災された皆さんの前で歌を歌ったことは、時間がたったいまでも、あれでよかったのかどうか……。/「元気が出た」と言ってくださった方もいました。涙を流しながら聴いてくださった方もいました。でも……。歌なんて聴く気分じゃないと、布団をかぶったまま横になっていた方の姿も忘れられません》と、迷いも残ったという(『坂本冬美のモゴモゴモゴ』)。
13年前の震災ではそんな思いを抱きながらも、今回の紅白出演に際しては、能登の被災地に向けて《悲しみだけではなく、また一から頑張ろうという気持ちを歌に乗せてお届けできれば。とにかくしっかりと泣かずに歌うことがまず一番の目標かな》ときっぱりと語った(「朝日新聞デジタル」2024年12月29日配信)。「泣かずに歌う」とは紅白初出場のときに師の猪俣公章から言い聞かされたことでもある。彼女の歌を待っているであろう能登の人たちのためにも、堂々と歌い上げる姿を期待するのは、筆者だけではないだろう。
(近藤 正高)
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