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「“警察官の子供が殺人犯”と出てほしくないんや」警官の父が“隠蔽した”兵庫・岡山女児連続刺殺犯の素顔《余罪100件》

文春オンライン / 2024年12月31日 19時0分

「“警察官の子供が殺人犯”と出てほしくないんや」警官の父が“隠蔽した”兵庫・岡山女児連続刺殺犯の素顔《余罪100件》

 18年前の事件を自白した男は、女児を刺して性的興奮を覚えるサディストだった。兵庫県警で警部まで務め、叙勲もうけた父親は「警察官としての誇りをもって死なせてくれ」と……。

◆ ◆ ◆

「“警察官の子供が殺人犯”と出てほしくないんや」

 2018年6月。兵庫県加古川市内の長閑な住宅街の一角に佇む、築50年ほどの木造住宅。小さな部屋を占領するベッドに腰かけた80代半ばの白髪の老人は、腰の痛みに耐えながら言葉を絞り出した。

「わしもな、もう静かに死にたいんや。静かに終わりたいんや。息子のことが、どうにも引っかかって。そういう人間が子供におったらな、いろいろあるんやて。“警察官の子供が殺人犯”と出てほしくないんや」

 老人はかつて兵庫県警で警部まで務め、57歳で退職。08年には瑞宝単光章の叙勲をうけた元刑事だ。そんな老人の息子が、14年前に小学3年生の女児を刺殺したとする容疑で逮捕されたのが18年5月のこと。それ以来、老人は何度もある人物の訪問を受けていた。兵庫県警OBの飛(とび)松(まつ)五(いつ)男(お)氏。現役時は捜査一課で、退職後もジャーナリストとして活動していた。老人は元同僚に、同情を求めるようにあだ名でこう呼びかけた。

「トビさんも同じ気持ちやろ? 元警察官やから。自分が死んでからやったら、どないなっても構へんのやけど。わしがおる間はな」

 飛松氏がこの老人への訪問を重ねていたのは、彼の息子が他の未解決事件にも関与していたと疑っていたからだ。老人は言った。

「トビさん、あんたがなんで来たのか分かっとる。あんたやから言うんや。でも死ぬまでは言わんとってくれ。あの子が他の事件をやっとったとしても、言うてほしくない……」

 この2カ月後、老人はこの世を去る。そしてその6年後、息子は突然、「他の未解決事件」への関与を自白したのである――。

 止まっていたかに見えた事件の歯車が再び動き始めたのは、11月6日のこと。神戸新聞朝刊の一面に、〈加古川・女児刺殺 関与供述〉の見出しが躍ったのだ。

「04年に岡山県津山市で小学3年生の女児を殺害したとして、18年に逮捕され、23年に無期懲役判決が確定して服役中の勝田州(くに)彦(ひこ)(45)が、兵庫県内の2件の未解決事件への関与を認めていることが分かったのです。兵庫県警は7日、06年9月に同県たつの市で小学4年生の女児の胸などを刃物で刺して重傷を負わせた殺人未遂の容疑で勝田を逮捕した」(社会部記者)

全容解明を目指すも道のりは険しく…

 たつの市の殺人未遂事件も凶悪犯罪だが、県警が睨む“本丸”はもう一つの未解決事件だ。

「07年10月、加古川市で小学2年生だった鵜(うの)瀬(せ)柚(ゆず)希(き)ちゃんが何者かに刺殺された事件についても、勝田は関与を認めている。幼い命が無残に奪われたにもかかわらず犯人を逮捕することができなかった事件が重大局面を迎え、県警は威信をかけて全容解明を目指しています」(同前)

 だが、その道のりは想像以上に険しいという。捜査関係者の解説。

「柚希ちゃんは自宅の目の前で刺されたのに、犯行の目撃情報すらなかった。柚希ちゃんは息絶える直前に『大人の男にやられた』と救急隊員に伝えていたがそれ以上の手がかりは見つかっていない。たつの市の事件でも加古川市の事件でも、勝田は発生直後から捜査線上に浮上していた。県警は両事件で何度も勝田を任意聴取し、ポリグラフ検査(一般的に『嘘発見器』と呼ばれる生理反応検査)に何度もかけた。それでも勝田の犯行を裏付けることはできなかったのです」

 当時、捜査に関わった県警OBが続ける。

「勝田は、本当に自分がやったことなら意外とすんなり『はい』と言うタイプ。その勝田をこれだけ調べて、『違う』と言うんだから違うと言うしかない」

なぜ勝田は自白したのか

 ところが、今回18年の沈黙を破り、勝田は自白に転じた。だが、勝田の供述に寄りかかる捜査をすると痛い目に遭うと指摘するのは岡山県警の関係者だ。

「津山市の女児殺害事件では、勝田が『凶器を捨てた』と言った海域周辺を捜索したが何も見つからず、後から『あえて嘘の供述をした。適当に答えた』とひっくり返されるなど、勝田の情緒不安定ぶりに振り回された。結局法廷でも自白から一転して罪を否認したため最高裁までもつれ込んだ」

 果たして、今回の捜査はどうなるのか。

「兵庫県警の捜査員は今年5月ごろから、刑務所に服役中の勝田の元に頻繁に通い、任意の事情聴取を重ねた。それに対して勝田は当初、たつの市と加古川市の両事件とも関与を否定していたのですが、7月ごろから認める方向に転じたようです。県警は今回、勝田を立件できるという確信をもって動いているように見える」(前出・社会部記者)

 なぜ勝田は自白したのか。この点を考える上で、重要な材料が2つある。1つは、16年に神戸地裁姫路支部で行われた裁判だ。勝田が少女を刃物で刺して大けがをさせたとして殺人未遂罪に問われたこの法廷で、検察は、「同じような行為による余罪は100件以上ある」と指摘。勝田は自身の生い立ちについても赤裸々に告白している。

飛松氏のメモ〈犯人の可能性は大である〉

 そしてもう一つは冒頭の飛松氏が、勝田の両親への聞き取りを重ねて作成したメモだ。このメモの中では、加古川市の事件と勝田の関連についてこう書き記されている。

〈「犯行をしていない確実なもの」がなく状況的(ママ)から犯人の可能性は大である〉

嘘ばかりついて威張っていた小学生時代

 1978年12月、勝田は兵庫県警の警察官である父と、同県警の職員だった母との間に生を受けた。父が40代半ばの時に生まれた子で10歳以上年の離れた姉を含めた4人暮らし。小中学校の同級生が語る。

「小学生のころから『自分の親は警官で、お金持ちで、すごく恵まれているんだ』とか『自分は英語を勉強させてもらっていて、お前たちより優れている』とか言って同級生たちに横柄な態度を取っていた。でも、実際には成績は悪く、英語も『ハロー』ぐらいしか言えない。嘘ばかりついて威張っていたので、クラス中から浮いていました」

 小学校の卒業アルバムには、「この1年間をふりかえって」と題する作文も掲載。あどけない文字や文体で修学旅行の思い出を記し、〈今度は中学生になるんだからもっともっといろんなことを経けんして、いろんなことを学んでいきたい〉と胸膨らませていたが、中学生活はあまり明るいものにはならなかった。

「小学生のときと同じ調子で嘘の自慢話を重ねていた。中学2年までは所属する水泳部の仲間が同じクラスだったので居場所はあったが、中3のクラス替えで仲間と離れてからは同級生から無視されるようになった。すると勝田は周りに『お前ら殺してやる』とか言うようになり、さらに反感を買った。どつかれたりしていましたね。本人は過去の裁判などで『いじめに遭っていた』と言っているようですが、原因は彼自身にあるんですよ」(同前)

 別の同級生が明かす。

「中学3年の時は、勝田くんは誰とも喋らず、自分の世界に浸って、黙々と授業を受けたり部活をしていました。話しかけたら言葉数がめちゃくちゃ少なく、会話にならなかった。勝田くんの自分の意見や意志を、中3の1年間で全く感じられなかった」

「部屋からごっつい匂いがする」

 鬱屈した思春期を過ごしていた勝田。持て余した負の感情は家族にも打ち明けることができず、次第に学校以外の時間は自室にこもりがちになった。その中で、ある行為を覚えた。

「自分の腹を刃物で刺す自傷行為です。最初は家にあった彫刻刀で、次第に千枚通しやクラフトナイフで刺すようになった。16年の裁判では『血が出てくるのを見ると落ち着いた』と証言。腕などではなく、ひたすら自らの腹を刺した理由は『(衣服で)隠せるから』でした」(司法担当記者)

 県内の私立高校に進学すると、その行為はエスカレートする。

「人間関係などでストレスを感じるたびに、自傷行為によって自分のワイシャツが血で赤く染まっていく様子を見ながら自慰行為に耽るようになった。それだけではなく、当時はまっていたアニメに登場する美少女キャラがお腹から血を流している姿を想像し、それをオカズに自慰行為に及ぶようにもなっていた」(同前)

 この頃にはすでに自傷行為の回数は100を超え、数え切れなくなっていたという。実家の自室には、精液の臭いが充満していた。後に勝田の母親は、飛松氏の聞き取りにこう明かした。

「ドア開けてないのに、部屋からごっつい匂いがするんや。栗の花の匂いやねん……ごっつ臭いんや」

9〜13歳の少女への暴力行為で逮捕

 小学校の卒業アルバムには戦闘機や戦艦の絵を寄せていた勝田。高校卒業後はそんな無邪気な憧れからか、海上自衛隊に入隊したが、集団生活に馴染めずわずか数カ月で退職。そして20歳を超えたころから、少女への暴力行為が始まる。

「1999年〜2000年にかけて、兵庫県西部の各地で、当時9〜13歳の少女の腹を殴ったり下着に手を入れたりといった行為をし、うち6件が裏付けられ逮捕された。法廷では『本当は刺したかったが、刺したら罪が重くなると思い殴ることで我慢していた』と供述。その年代を狙った理由は『女子高生以上だと抵抗されるが、中学生は力が弱いので抵抗されないと思った。もっと年下だとかわいそうだと思った』と答えました」(前出・司法担当記者)

 この時は執行猶予判決を受け、勝田は大阪のカントリークラブや関西空港の職員、派遣の警備員や現金輸送ドライバーなど職を転々とする。そして04年、岡山県津山市で女児を殺害。しかしこの事件はその後14年間にわたって解決せず、勝田は野放しのまま、06年と07年にそれぞれたつの市で殺人未遂事件、加古川市で殺人事件が起きた。

「勝田はその後、09年にまたも女児の腹を殴るなどしたとして逮捕、実刑判決を受けて服役し、刑務所で性犯罪防止プログラムを受けましたが、これについて後の裁判で『内容は忘れた。意味はないと思った』と述べています」(同前)

自傷行為で入院「自分を刺せないなら、他の人を刺そう」

 出所後は、新たな趣味に力を入れるようになる。自動車のカスタムだ。勝田本人のものとみられる複数のSNSでは、美少女アニメキャラのイラストやフィギュアの写真などと並んで、14年には軽ワゴン車を購入、納車した報告を嬉々として投稿していた。SNSの写真を見る限り、車体の一部を多少カスタムしているようにも見える。

 この時期、実家の近くでは勝田が楽しそうに洗車している様子が目撃されている。近隣住民から「クニちゃん」と呼ばれれば愛想よく挨拶するなど、悪くない近所付き合いをしていたようだ。ある住民は、こんな会話を覚えている。

「家の前でよく洗車していたから『そんなピカピカに磨いて、彼女でも乗せるんか』と聞いたら、『おばちゃん、ぼく彼女いません』って返された」

 しかし、新たな趣味を得ても思春期に身についた自傷行為の呪縛からは抜け出せなかった。15年、自ら腹を刺して腸に穴が開いて入院。担当医から「もう自分を刺すことはできない」と告げられたのを機に「自分を刺せないなら、他の人を刺そうと思った」と、退院の3日後に姫路市で14歳の少女の腹などを刺して逮捕。以来、娑婆に出ることなく刑務所に服役する。

「猟奇的ですが刑事責任能力は認められています。犯行についても、『住んでいる加古川市だとすぐにバレる』という理由で隣町までターゲットの少女を探しに行ったり、帽子をかぶって変装したりと、計画性も認められた。悪質性も高い」(前出・司法担当記者)

父親は「半殺しにしたことがある」

 勝田というモンスターを生み出したものは何だったのか。この事件の裁判中、弁護側はこう指摘する。

「情性欠如型やサディズム型ペドフィリア(小児性愛症)と診断される勝田さんの性癖が犯行原因。その性癖は、子どもの頃に受けたいじめや、厳しい躾などにより形成された」

 いじめと厳しい躾が原因――。飛松氏が、18年に両親に聞き取りした内容を振り返りながら言う。

「父親は、我が子に対して柔道技で首を絞めて気絶させるようなことをしていたらしい。父親はそれを『誰でもすることやろ』と思いこんでいた。それどころか『半殺しにしたことがある』とまで言うた。『それは虐待や』と指摘すると、父親も自らの虐待を認めていました。その横で奥さんが『お父さん、無茶したでな。あんな無茶したらあかんわな』と話していました」

「息子には、自供してほしくない」利己主義の父親

 飛松氏が勝田の両親との面会を始めたのは、18年に津山市の事件の犯人として勝田が逮捕され、報道されたことがきっかけだ。

「津山の事件については、父親も母親も『やってない』と言うんやけど、わしが『やっとるやろ? 親父あんた、警察やろ。警察がいい加減な調べで逮捕状取らへんやろ』と言うと、両親は『やってないと思ったんやけどなぁ……。実際に警察が来たし、アンタも来たしなぁ』と、とにかく不安がっていました」(同前)

 飛松氏は、元同僚である父親のことを「ごっつ見栄っ張り」と評する。

「主に交通畑を歩んでいた人なのに、『自分は捜査一課の刑事やった』とか、『署長やった』とか、あることないことご近所さんに言い回っていたみたい」(同前)

 小学生のころから「自分の親は金持ちだ」などと嘘ばかりついて同級生たちを呆れさせていた勝田の原点は、親譲りの見栄っ張りだったのか。そしてその見栄が、真相に蓋をした可能性がある。父親は、飛松氏にこんな話をしたという。

「ホンマに言うたらね、息子には、自供してほしくない。(殺人を)やっとっても、黙っとってくれ。黙っとったら警察は(着手)せえへんのやから。否認しとったら、どないにもならへん」

 飛松氏が「子供をフォローするんが親やんか」と諫めると、「もう言わんでほしい。言うてほしくない親の気持ちが分からんのか」と逆上した。飛松氏は言う。

「とにかく自分のことで精一杯やった。長時間話したけど、もう全部が利己主義ですよ。でも、本人の本音やったと思いました。息子が死刑になることよりも、それが新聞で報道されて“警察官の息子が殺人犯”と世間に思われることの方が嫌だったみたいです。息子については『もう死んでくれたらいいんや』とまで言っていましたから」

 息子が津山市の事件について自白したことについても、元警察官らしからぬ不満を抱いていたという。

「俺が死ぬまで喋るな」息子への口止めを依頼

「なんで津山のこと言うたんやろ。黙っとったら分からん事やのに。『もうこれ以上喋るな』って息子に言ってくれ。これ以上、恥かかさんといてくれ。警察官として誇りをもって死なせてくれ。俺が死ぬまで喋るな」

 と飛松氏に息子への口止めを依頼。息子の余罪について隠蔽工作を図ったというのだ。飛松氏が続ける。

「これは想像やけど、息子にも面会で言うとんちゃうかな。『死ぬまで喋るな』と」

2カ月後に父親はこの世を去り、母親も人知れず病で…

 この飛松氏の聞き取りからわずか2カ月後の18年8月、父親はこの世を去る。獄中にいた勝田がこの訃報を知ることができたかどうかは分からない。他所に嫁いだ姉は以前から家族と距離を置いており、実家に1人残された母親は地域で孤立を深め、20年の正月に人知れず病で亡くなる。

「奥さんは独りぼっちだったから。少しずつ話しかけるようにはしていたけど、元々挨拶してもあまり返してくれない人で……。年明けても顔を見ないなと思って、玄関の戸を叩いたり電話したりしても反応がなかったから、民生委員さんや町内会の班長さんと一緒に訪ねたら、既に冷たくなっていた」(近隣住民)

 今回改めて記者は、勝田の実家を訪ねた。主を失った家には誰も住んでおらず、庭の草は伸び放題。母親が可愛がっていたという地域ネコが、今でも玄関口の近くに陣取って人々の生活を眺めていた。登記簿謄本によると、家と土地は、父親から相続した勝田の姉によって今年10月8日付で不動産業者に売却されていた。

あの夫婦は自分たちの世間体しか考えていなかった

 購入した業者を訪ねると、

「(津山市の事件の犯人の実家という)いわくつきの物件だとは聞かされていたけど、『もう判決も出ていて、終わった話ですから』ということだったので、買わせてもらった。そしたら、今度は今回の事件の報道が出てきた。『もう購入できない』って言って、話をナシにしてもらいました。登記も元に戻してもらいます」

 なぜ勝田の姉はこのタイミングで土地と家の売却に動いたのか。弟が新たな未解決事件について自白したことを再逮捕の前に知っていたのか? 勝田の姉の元を訪ねると、姉は不在でその夫が対応し、

「おらんよ。もう出ていった。何も分からないね……」

 と疲労の色をにじませて答えるのみだった。

 飛松氏が振り返る。

「たしかに父親は、あの家を『売りたいんやけど、誰か知らんか』って言ってました。結局、ずっと一貫して、あの夫婦は罪を犯した息子のことではなく、自分たちの世間体しか考えていなかった」

 俺が死ぬまで喋るな――。

 勝田州彦の人生を歪めるほどの虐待を繰り返した父の命令は息子に届いていたのか。「自分より弱いから」という理由で手あたり次第に少女を殺傷した稀代のサディストが、18年の沈黙を破って明かすのは真実か、それとも……。

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2024年11月21日号)

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