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「西へ東へ鉄道移動」旅する政治家が素顔を見せた記者懇談《東大教授・牧原出が読み解く》

文春オンライン / 2025年1月4日 6時0分

「西へ東へ鉄道移動」旅する政治家が素顔を見せた記者懇談《東大教授・牧原出が読み解く》

鳥取の若桜鉄道のSL「地方創生号」を視察する石破茂氏(2015年)。石破氏は鉄道好きで知られている ©時事通信社

政治家が東京から関西に向かう“鉄道旅”は「西下」と呼ばれ、新聞記者たちの取材の激戦地だった。一方、国外から東京に軍人が向うことは「東上」と呼ばれた。政治学者の牧原出氏が「西下」「東上」を切り口に時代を読み解く。

◆◆◆

東上する軍人・外交官、満州国皇帝の西下

 そもそも西下では、緊迫したやりとりもときにあったとはいえ、やはりしのぎを削る政争が繰り広げられる東京を離れる旅である。原敬が紅茶をすすり、俳句を詠んだように、くつろぎの時間となる。木戸公一にとっては、西田幾多郎との交流がそうであり、道中繰り返し地元知事の宴席に招かれ、夜は知人と会食している。

 逆に、東京へ向かう旅はどうだろうか。西下の対となる「東上」も、明治期から徐々に用いられ、大正・昭和期には紙面を飾る言葉となる。ただ、単に関西などから東京に向かうことを指すのではない。朝鮮、台湾、中国大陸などから、総督・大使・軍人らが下関などに到着し、そこから鉄路で東京に向かい、宮中に参内し、政府首脳と会見する営みを指す。天皇に拝謁し、状況を伝え、また政府関係者と意見交換する。つまり、西下とは異なり、東上は厳粛な場に向かうことを意味し、その影響を含めると、本人の心中にも、それを待ち受ける東京の政治家たちの間でも政治的緊張が走る。

 このように西下がくつろぎの関西訪問であり、日本の古都が点在する地域にいにしえを訪う意味あいもあり、訪問地で何をするかに自ずから視点が集中する。これに対して東上は、帝国日本のパノラマの一コマである。東上という行為が大陸と首都なかんずく宮中・首相官邸とを結びつける。宮中・首相官邸から見れば、東上という旅を通じて、大陸植民地ないしは占領地を子細に把握するのである。

記者たちを煙に巻く宇垣一成

 そうした「東上」にまつわる雰囲気を伝えるのが、朝鮮総督として毎年東京に出向いた宇垣一成である。宇垣は、第一次世界大戦後に陸軍への予算削減に際して、師団削減を行った反面、戦車や航空機の生産など軍の合理化を進めた。その手腕から、首相候補と目された反面、粛軍による一部の軍人からの反発も受けていた。朝鮮総督には1927年に臨時代理、そして31年から36年に就任した。

 朝鮮からの宇垣の東京訪問は、そのたびに中央政界に波紋を呼んだ。宇垣は天皇に拝謁して、朝鮮の情勢を説明し、政界の要人と懇談を重ねる。そして、宇垣を高く評価した元老の西園寺公望の動向を、人は注視したのである。

 総督宇垣の東上では、もっぱら船で到着した下関の山陽ホテルで記者との懇談が行われる。二度目の総督就任後の1931年10月30日、「山陽ホテルに少憩中すこぶる上機嫌」の宇垣は、満州事変に関する朝鮮側の状況報告を行うことや、政府の方針に合わせて朝鮮総督府も緊縮予算を組む予定であることなど、時局について談じている(『東京朝日新聞』1931年10月31日)。また1932年11月9日には、同じく山陽ホテルで「我輩が腰をあげて内地に帰るといつもきまったように政界いりの噂がぱっと立つが世間には厄介な閑人の多いのに驚く」「政界いり等夢にも考えて居ない、上京後我輩が何人と逢ってもそれは朝鮮統治上の用務以外の何ものでもないからあまり神経を尖らしてくれるな」と煙に巻く(『東京朝日新聞』1932年11月10日)。

 記事を書くために役立つ材料をあえて語るかのような口ぶりは、その後も続く。1933年5月27日には、朝鮮から下関に到着後、山口県知事など地元の名士二十余名を招待した晩餐会を山陽ホテルで開き、記者には「聾桟敷からまかり出た田舎役者のおれには天下の形勢はわからない」と煙に巻く(『東京朝日新聞』1933年5月28日夕刊)。そして1934年5月の東上に際しては、京城で記者団との会談に臨み、はやる記者に「楽屋の外からはやし立て騒ぐのはみっともない、諸君は少し神経過敏に陥って居るのではないか」と語るのである(『東京朝日新聞』1934年5月24日夕刊)。

 そして1年2ヶ月ぶりの東上となった、1935年7月7日、白麻の夏服にカンカン帽、籐のステッキという「瀟洒な服装」で山陽ホテル入りした宇垣は、「至極上機嫌」でこう語る。今回の東上は、水害についての御下賜金の御礼言上と、予算の売りあわせのためだと述べ、「『半島から日本を見渡すとどうかって?』雨が降って洪水で気の毒だと思うさ、イヤ内地もいよいよ暑そうだな」と「チョッピリ暗雲低迷の政局に皮肉を浴びせ」る。さらに「万年総督で終りたいと思うがどうもそうばかりはいかぬだろうしねと問題の人らしい色気を匂わせ」るのである(『東京朝日新聞』1935年7月8日)。

 この気分は宇垣の日記にも表れている(1935年7月28日条、30日条、宇垣一成『宇垣一成日記 2』みすず書房、1970年、1025頁)。

「余は今次の東上に於て内地の腑甲斐なき有様を実見体験」、「滞京中は過去の東上時に比して政友方面の人士と軍部方面の者の刺を通じ或は他の手段によりての交渉が存外多かりしは、何かを物語り居るを感じたり矣。」

溥儀は東上しないが西下する

 こうして東上において東京での中央政界との交渉に向けて緊張感が高まるのと、西下が憩いの時間となるのとは、様相がかなり異なる。帝国日本の境界を朝鮮から満州にまで広げると、この緊張と憩いの落差はくっきりと浮かび上がる

 1935年に満州国の首都新京から御召艦比叡に乗って東京に到着した満州国皇帝溥儀の場合である。すでに3月にその準備のため、特使が神戸に降り、そこから特別列車で「東上」していた(『東京朝日新聞』1934年3月26日夕刊)。

 もっとも、溥儀自身の到着は「東上」とは報道されない。船路であるし、天皇と並ぶアジアの君主としての会見と位置づけられたからであろう。東京では熱烈な歓迎の行事が行われ、溥儀は天皇と親しく交流し、天皇家とくに貞明皇太后が親しみを持って接した。

 その後溥儀は京都に向かい、関西の名所を巡ってから船で帰国する。この京都行きは「御西下の盟邦元首 京都へ御安着」と報道される。溥儀は東上はしないが、西下する。「春宵静かに御休養」として「御休養第一の御予定」となったのである(『東京朝日新聞』1934年4月16日)。金閣寺、東大寺、正倉院、春日大社などを見た後、神戸から比叡に乗艦し、宮島経由で帰国した。

 溥儀自身、回顧録でこのときの「日本皇室の鄭重なおもてなし」に大きく動かされたと記している(愛新覚羅・溥儀『わが半生 下』筑摩書房、1977年、36~37頁)。自分は天皇と同等の君主であるという自覚を持ったからだという。東京での交流と、まるで今現在の京都修学旅行の訪問先を回るような「西下」は、溥儀の心理的な構えを解くものであった。

 だが、戦時中の1940年の日本訪問では、同じように東京に御召艦日向で到着し、東京で歓待を受けたものの、西下の際に伊勢神宮を参拝するなど、神道色の強い訪問となり、元来満州族としての宗教に意識的な溥儀にとっては、内心抵抗感が残るものとなった。

※本記事の全文(約1万5000字)は「文藝春秋 電子版」でご覧ください(牧原出「 東へ西へ――旅する政治家たち、そのくつろぎと『大気焔』と 」)。

《目次》

(1)「西下」する時の人     
(2)政党内閣と総力戦の中の「西下談」     
 ・木戸幸一は近衛首相の辞意を伝えに西園寺を訪問

(3)東上する軍人・外交官、満州国皇帝の西下

 ・ 記者たちを煙に巻く宇垣一成

 ・ 溥儀は東上しないが西下する

 ・ 野坂参三の東上に「誰が出迎えるべきか?」

(4)戦後の宰相の「西下談」

 ・ 芦田元首相は車中での記者会見を拒否

 ・ 鳩山新首相は特急つばめのデッキでポーズ

 ・ 西下でブームを演出しなかった岸信介

(5)「西下」の終わりとフラット化する日本

(牧原 出/文藝春秋 電子版オリジナル)

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