19歳で初紅白、23歳で結婚→引退を決めたことも…石川さゆり(66)が抱えていた“歌手としての葛藤”「新曲を出しているのに、どうして?って…」〈紅組最多出場〉
文春オンライン / 2024年12月31日 17時0分
石川さゆり(66) ©文藝春秋
石川さゆりが2024年もNHK『紅白歌合戦』への出場を決めた。これにより彼女は自身の持つ紅組歌手の歴代最多出場記録を更新し、通算47回目となる。今年歌うのは「能登半島」に決まった。意外なことにこれまで同曲を石川が紅白で披露したのは2003年だけで、今回が2度目である。今年この曲が選ばれたのは、元日に大地震、9月には豪雨により大きな被害を受けた能登半島の人たちにエールを送るためであることは間違いない。
阿久悠の勘違いから生まれた「能登半島」
「能登半島」は、その前作で石川にブレイクをもたらした代表曲「津軽海峡・冬景色」と同じく作詞家の阿久悠、作曲家の三木たかしのコンビが手がけ、1977年5月にリリースされた。
この曲をめぐっては、石川がことあるごとに語ってきた裏話がある。阿久は同年1月リリースの「津軽海峡・冬景色」がヒットすると「次はさゆりが故郷に錦を飾れる歌を書いてあげよう」と言ってくれたが、どうやら彼女の名字から石川県出身と勘違いしていたらしく、能登半島を舞台にしたこの歌が届いたというのだ(『週刊ポスト』2021年8月13日号、『週刊読売』1998年3月8日号)。
そんないきさつがあったとはいえ、「津軽海峡・冬景色」が破竹の勢いで売れるなかで発売された「能登半島」も、次作の高知が舞台の「暖流」(1977年9月発売)もあいついでヒットし、ファンのあいだでは「旅情3部作」としていまなお親しまれている。
なお、その後、彼女は何かの折に「私、石川というのは本名で、ふるさとはじつは熊本なんです」と阿久に話すと、彼は改めて「火の国へ」という歌を書いてくれたという(『週刊読売』1998年3月8日号)。この曲は1978年にリリースされ、前年に「津軽海峡・冬景色」を歌ったのに続き、2回目の出場を果たしたその年の紅白でも披露した。
デビューのきっかけは…
ブレイクするまで石川は紆余曲折を経験している。そもそも彼女のデビューのきっかけは、横浜に住んでいた中学3年の夏休み、歌謡教室の友達に代わって出場したフジテレビの『ちびっこ歌謡大会』で優勝したことだ。ここから同局のドラマ『光る海』に出演、プロデューサーだった岡田太郎(今年9月に94歳で死去)から本名の絹代に変えて「さゆり」という芸名をつけてもらう。ちなみに岡田はこの翌年、女優の吉永小百合と結婚している。
歌手志望だったためドラマ出演は本意ではなかったが、結果的に石川はそのおかげで芸能事務所のホリプロにスカウトされ、翌1973年3月には「かくれんぼ」という曲でデビューすることができた。
彼女と前後してやはりホリプロからデビューしたのが1学年下にあたる森昌子と山口百恵である。当初、事務所は彼女たちを「ホリプロ3人娘」として売り出す計画であったが、ほかの2人は同じく『スター誕生!』出身の桜田淳子とともに「スタ誕3人娘」として先に売れた。このため、デビュー曲がヒットとまではいかなかった石川だけ宙ぶらりんになってしまう。
当時から歌唱力は10代歌手のなかでも折り紙付きではあったが、ヒットに恵まれない時期が高校に入ってからも続いた。1976年3月に高校を卒業してからも、前出の阿久悠と三木たかしのコンビが「十九の純情」「あいあい傘」「花供養」と曲をあいついで提供するも、空振りに終わる。
「津軽海峡・冬景色」の誕生秘話
しかし、この年の10月、石川が大阪・新歌舞伎座でのワンマンショーで最後に歌った曲にひときわ大きな拍手が起こり、ショーのあとも事務所やレコード会社に問い合わせがあいついだ。それは、1年の各月ごとに日本中舞台を変えて女の恋を歌うというコンセプトで阿久と三木が企画したアルバム『365日恋もよう』(同年11月発売)の1曲だった。現場での反響を伝え聞いたホリプロ社長の堀威夫(当時)はすぐさまレコード会社の日本コロムビアと話し合い、その曲をシングルカットして翌1977年の年明けに発売してもらう。この曲こそ「津軽海峡・冬景色」であった。
その発売の前日の大晦日、紅白のステージに立つ森昌子や山口百恵を、石川はこたつに入りながらテレビで見ていたという。《ことさらライバル意識のなかった私ですが、同じ歌手として悔しくないといえば噓になります》と、このときの心情をのちに吐露している(『週刊読売』1998年2月22日号)。
そうした思いも重なり、新曲キャンペーンにはそれまでになく力が入ったようだ。全国各地まわった先々でも「これは売れるよ」と好評であった。実際、3月に入ると急に売れ始め、50万枚に達するのに時間はかからなかった。先述のとおり5月にリリースされた「能登半島」もこの勢いに乗り、40万枚を売り上げる。
このあと9月には「暖流」のリリースが控えていたが、レコード会社は「津軽海峡・冬景色」をさらに100万枚まで伸ばすためセールスを強化するので発売を延期したいと言ってきた。しかし堀威夫は「熾火(おきび)を消すな。売れているときに、次の曲をきちんと出さないと、歌手の寿命は短くなってしまう」と猛然と反対、予定どおり発売させた(『朝日新聞』2003年2月22日付朝刊)。
これが功を奏して「暖流」も25万枚を売り上げ、3作合わせて144万枚のセールスを達成、石川は歌手として確実に地歩を固めた。1977年末には数々の音楽賞を受賞し、前年悔しい思いで見ていた紅白にも初出場を果たしたのだった。このとき石川は緊張するどころか、《うれしくてしかたない上、見るものすべて珍しく、/――お、これが紅白歌合戦のセットかァ…!/要するにオノボリさん歌手状態で、その状態のまま歌い終えてしまった》とか(『週刊読売』1998年3月1日号)。
23歳で結婚、妊娠発覚で紅白を辞退したが…
それからというもの石川は紅白の常連となった。1981年にはホリプロで彼女の宣伝担当を務め、のちにライターに転じた馬場憲治と結婚する。その2年後には妊娠がわかり、すでに出場が内定していた紅白を辞退した。
しかし、いまならありえない話だが、NHK側は応援だけでも来てほしいと頼んできた。これに彼女は「生まれてなかったら、行けると思いますが……」とあいまいな返答をしたところ、毎日確認の電話がかかってくるようになる。ついに大晦日を迎え、まだ生まれていないとわかると「じゃ、来てください」と言われ、すでに大きくなったお腹を抱えながら真っ赤なワンピースを着て会場に駆けつけると、応援に参加して依頼に応えたのだった(『週刊読売』1998年4月12日号)。歌手としての出場は途絶えたとはいえ、ステージには立ったので、石川は今年にいたるまで48年にわたり紅白“皆勤”ということになる。
都はるみを待っていた
翌1984年2月には予定より遅れて女児を出産した。この年暮れの紅白では、歌手の大先輩の都はるみがデビュー20周年を機に一度引退する(のち1990年に復帰)。大トリを務めた都は歌い終えてステージを降りると、しばらく一人にしてほしいと頼んで楽屋に引きこもった。それから自分でも記憶がないほど茫然自失の状態でいたが、ハッと我に返ると、帰り支度をしてもらうため楽屋を仕切っていたカーテンを開けた。すると、そこには顔を泣きはらしながら小さな包みをかかえた石川が立ち尽くしていたという。都のマネージャーによれば、彼女は自分で直接手渡したいと言って、ずっと待っていたらしい。
都はるみはこのときのことを翌1985年末、本名の北村春美名義による石川宛ての書簡という形で明かした上で、自分が引退してから1年のあいだ、折に触れて彼女の活動を気にかけてきたと記している。ひるがえってその数年前、都は《私の歌唱法を一変させよう、そしてその新しい歌唱法が受け入れられたら、その証として〈レコード大賞最優秀歌唱賞〉を狙ってみよう》と思い立つと、ただひたすらに歌い続け、その目標を達成した。それだけに都には、このときの石川に対し《歌手として、もがいて、格闘して、また跳んでといった様子が実によく理解できる》と見抜いていた(『Emma』1986年1月10日号)。
まさにこの年、石川も「波止場しぐれ」で日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞した。翌1986年にはロサンゼルスとサンフランシスコで初めて海外公演を行うなど、まさに飛躍の時期を迎えていた。
良妻賢母のイメージを破壊しようとして生まれた「天城越え」
「波止場しぐれ」を作詞した吉岡治が、同年7月に出す新曲で「これまでの石川さゆりを壊す。良妻賢母のイメージをぶち壊そう」と提案し、伊豆の宿に作曲家の弦哲也、レコードディレクターの中村一好と集まってひそかに議論を重ねていたのも、そのころだった。ここから生まれたのが、彼女の代表曲の一つとなる「天城越え」である。
もっとも、当の石川はこの詞をもらったとき、夫の不倫現場に踏み込んだ妻が修羅場を演じるというその内容にひどく戸惑ったという。当初は「こんなの私の歌ではありません」と拒否したものの、それこそ吉岡の思惑どおりであった。結局、彼女は悩みに悩んだ末、自分を吹っ切ることでこの歌を受け入れる。
紅白が変えた「天城越え」
曲を手がけた弦も、この歌に作曲家としての自分の将来をかけて苦闘したようだ。ディレクターの中村は「この歌でさゆりに、初の紅白のトリをとらせてみせる」と意気込み、和楽器を採り入れるなど工夫を重ねた。こうして全員の思いを結集して「天城越え」はリリースされ、中村の宣言どおり、この年の紅白で石川は同曲で初めて紅組のトリを飾った。発売年の売り上げは4万枚とさほどでもなかったのが、紅白をきっかけに売れ始めたという。
ちなみにその前年、1985年の紅白で紅組のトリを務めたのは事務所の同輩の森昌子である。このとき森は、翌年に歌手の森進一との結婚にともない引退を控えていた。最後となる紅白のステージでは、森が紅組歌手らに囲まれながら石川と一緒に歌った。
「一人の女性としてどう生きてるかという部分を応援してもらえる時代になった」
じつは石川もまた、出産に際してホリプロと契約を解除してもらい、形のうえでは“引退”していたという。《もちろん、「また仕事ができそうなら、その時はお世話になります」という言葉を添えてでしたが、私の心の中では本当に引退、というか仕事を白紙の状態にして出産に専念したかったのです》と、後年その事実を公表している(『週刊読売』1998年4月12日号)。
このときの選択には、本人に言わせると不器用で、何事も100か0か白黒はっきりさせなければ気が済まないという石川自身の性格によるところもあったのだろう。ただ、一方で、彼女がそうせざるをえなかったのは、女性が結婚・出産後も仕事を続けていくことがまだ社会全体で受け入れられていなかったから、という見方もできるのではないか。
それでも石川の実感では、そうした風潮もしだいに変わっていく。のちには《私が「結婚します」とか「子どもを生みます」って言った頃は、結婚=引退が当たり前で「じゃ、もう歌手生命お終いね」っていう時代だったんです。それが、結婚して、子どもを生んで育てるうちに、時代が虚像をつくるんじゃなくて、一人の女性としてどう生きてるかという部分を応援してくれるように変わって行ったような気がしますね》と語っている(『週刊文春』2004年7月22日号)。
31歳で初めて務めた大トリ
思えば、石川はすでに「津軽海峡・冬景色」や「能登半島」で、男と別れて一人で旅に出たり、危ない橋を渡ってでも男に会いに行ったりと、自らの意思をもって行動する女性の姿を歌っていた。彼女自身、そのときどきで自ら決断を下しながら、仕事と子育てを両立させる道を歩むようになる。1989年には結婚生活にピリオドを打つ。再出発とともに、なかにし礼が高橋治の同名小説をモチーフに書いた詞に三木たかしが曲をつけた「風の盆恋歌」を提供され、2度目のレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞、初めて大トリとなった紅白でも歌った。
1997年にはデビュー以来世話になってきたホリプロから独立し、個人事務所を設けた。そのせいなのか一時、目に見えてテレビ出演が減り、この年の紅白には選ばれないのではないかとも一部ではささやかれた。しかしふたを開けてみれば、この年も無事に出場を果たし、再び「天城越え」を披露している。
「新曲を出しているのに」と思った時期も…
石川は紅白で、2007年に「津軽海峡・冬景色」、2008年に「天城越え」を歌って以来、昨年まで17年にわたりこの2曲を交互に歌ってきた。この間、2021年には「津軽海峡・冬景色」とともに、ラッパーのKREVAとMIYAVIとのコラボレーションによる「火事と喧嘩は江戸の華」を披露しているとはいえ、基本的にこのパターンは崩れなかった。
これについて当人は、《私も「新曲を出しているのに、どうして?」と思った時期もありました。でもこの2曲を聴いて「ああ、大晦日だね。新しい年がくるね」と皆さんが感じてくださるなら、それはそれで嬉しいことだと思うようになりました。そういう歌があるのは、歌い手として幸せなことです》と、現在では肯定的に捉えているようだ(『婦人公論』2024年1月号)。
「今歌わずして、いつ歌うんだと」
筆者の個人的な思いをいえば、彼女の故郷である熊本で大地震が起こった2016年の紅白で「火の国へ」がどうして選ばれなかったのかという気もする(この年には氷川きよしが熊本城からの中継で「白雲の城」を歌っているとはいえ)。ほかにも、2011年に東日本大震災の直後、彼女が被災地を巡るなかで宮城県の東松山で出会ったという「浜甚句」をもとにした「浜唄」(2012年)など、例の2曲以外にも紅白で歌ってほしかったと思う歌は少なくない。
それだけに今回の紅白で「能登半島」を歌うことは異例であり、当の石川もリハーサル時の会見で《今歌わずして、いつ歌うんだと。とにかく能登の皆さんに元気になっていただきたい》と意気込んだ(「朝日新聞デジタル」2024年12月29日配信)。被災地に彼女の思いが届くことを願わずにはいられない。
(近藤 正高)
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