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体があざだらけになるまで掃除機で殴られて…苛烈な教育虐待を受けた女性が毎日「死んでほしい」と呪い続けた母親の“壮絶すぎる仕打ち”とは

文春オンライン / 2025年1月25日 10時0分

体があざだらけになるまで掃除機で殴られて…苛烈な教育虐待を受けた女性が毎日「死んでほしい」と呪い続けた母親の“壮絶すぎる仕打ち”とは

〈 「うんちを綺麗に拭けず、生理用品の交換もできないので…」重度の知的障害がある5歳下の妹が生まれ、ヤングケアラーになった女性が直面した“介護とイジメ”の実態 〉から続く

 障害や病気のある兄弟姉妹がいる子どものことを「きょうだい児」という。月まるさん(40代女性)は、5歳下の妹に重度知的障害と自閉症があり、小さい頃からお風呂やトイレの世話が日課に。さらに妹の障害が学校でのイジメの原因になったこともあった。

 家庭でも妹の事情が最優先され「ヤングケアラー」として世話をするかたわら、母親の「子どもをエリートにしたい」という気持ちは月まるさんに向けられることに。さらに教育虐待だけでなく身体的暴力まで振るわれるようになっていった。その過酷な経験について話を聞いた。(全3回の2回目/ 最初 から読む)

◆◆◆

「自分の子どもを同級生より優秀な学校へ入れたい」という母の思い

──小学校6年生でイジメを受けながらも、中学受験をされていますよね。受験は親の希望だったのでしょうか?

月まる 母は高卒で、結婚が遅かったこともあり、「自分の子どもを同級生より優秀な学校へ入れたい」という思いをもともと持っていました。

 そこへ障害のある妹が生まれ、父方の親族からは「こんな子を産んで」と言われることもあったそうです。そういうことが積み重なって、私をエリートコースに乗せなければという思いを強く持っていました。

──塾なども通っていたんですか。

月まる 週7日、毎日塾に通わされていました。

 勉強も塾も嫌いではなかったのですが、週4で大手の塾に通い、加えて2つ別の塾に通わされると、宿題が多すぎて到底終わらないんです。それでも母が期待するペースで進んでいないと殴ったり蹴ったりされるのも日常でした。

──大人でも体調を崩しそうです。

月まる 夏ごろから倦怠感や息切れが出て、顔もむくんできたのですが親には聞いてもらえず、結局10月に倒れました。病院でネフローゼ症候群と言われ、1カ月半の入院をすることになりました。

──秋頃ですと、中学受験も大詰めですよね。

月まる 親が気にしていたのは出席日数でした。受験予定だった中学は、小6の2学期までの出席日数の提出が必要だったので。入院したのが土曜日でしたが、母が無理に病院と交渉し、翌週の月曜日には院内学級に転校手続きが終わって、出席日数が減らないようになっていました。

──入院後は体調を気にかけてもらえたのでしょうか?

月まる それがひどくて。塾で毎週日曜日の特別特訓があり、それは絶対に行くように言われ、入院した翌週から電車に30分乗って通っていました。本当は安静にしないといけないのですが、主治医をなんとか説得し、その日だけは外出許可を取っていたのだと思います。

──この頃、父親はどうしていたのですか。

月まる 母の言いなりです。お金の管理も含めて「妻に全部任せてます」という感じの人だったので。

 ただ、母は「勉強しろ」とは言うものの、自分では教えられない人でしたが、父はそれなりに学があったので、入院中は毎日来て、2時間くらい勉強を見て帰るような日々でした。

──ネフローゼ症候群の原因はストレスだったりはしないんですか?

月まる ネフローゼ症候群自体は偶然だと思います。勉強や家庭環境のストレスとかでなるような病気ではないので。

 ただ、免疫に何かしらの異常が出て発症する病気という説明を受けたからか、母の中では「直前に受けたインフルエンザワクチンが原因」という結論になってしまって。以降ワクチン忌避が強くなり、私は大学に入るまでインフルエンザワクチンを打つことができませんでした。

「単純に母の機嫌が悪かったり、気に入らないことがあると暴力を…」

──完全に「教育虐待」にあてはまる状況だと思うのですが、いつまで続いたのですか?

月まる なんとか中学受験では第一志望に合格して、私は受験が終われば解放されると思っていたのですが、母の教育熱は悪化する一方でした。正直自分の実力以上の進学校に入学したというのもあり、下から数えた方が早いくらい成績が悪くなってしまったんです。

 母はそれが気に食わなかったようで、暴力をふるわれることも増えました。

──殴ってでも勉強させる、ということでしょうか。

月まる それ以外にも、単純に母の機嫌が悪かったり、母にとって気に入らないことがあると暴力をふるわれました。

 たとえば、中学に入ってもネフローゼ症候群は続いていたので体力がなくて、帰宅するとまず寝てしまうんです。でもそれで夕飯の時間に声をかけられて気づかないと怒鳴ったり殴ってきたり。

──中高生となると、体の大きさ的には同じくらいに?

月まる なので時々殴り返していましたが、やっぱり母を強く殴ることはできませんでした。それでも母は気にせず、痣が残るくらい力いっぱい殴りつけてきました。

 私の体が大きくなってくると、徐々に避けたり抵抗したりできるようになったので、母はだんだんと物を使うようになって、掃除機の棒でよく殴られました。顔だけはガードするんですが、腕や背中が痣だらけになるんです。掃除機の棒が折れたこともありました。

──学校などには相談できなかったのでしょうか。

月まる 特に暴力がひどかった高2の頃に一度担任の女性教師に痣を見せ相談したことがあったのですが、言葉に詰まったまま何も反応がなく、何もしてくれませんでした。

──明らかに虐待を受けているであろう高校生に声もかけてくれなかったのですか。

月まる それどころか、後日、二者面談で担任と母が話したときに、担任が「お母さんも大変ですよね」と突然ボロボロ泣き始めたらしいんです。聞き分けのない娘を教育するために暴力を振るわざるをえない母親だとでも思ったのでしょうか。母は「わけわかんなかった」と話していましたが、私は絶望していました。大人は何もしてくれないのだと思い、誰かに母の暴力の相談をするのはやめようと思いました。

「母親に対して毎日『死ね』と念じながら暮らしていました」

──母親の暴力について、当時の月まるさんはどう思っていたんですか?

月まる 高校生の頃からは、母親に対して毎日「死ね」と念じながら暮らしていました。自分の手を汚してしまうと人生が台無しになるからできないけど、どこかで死んでほしいなって。なので毎日帰宅するときは「お母さんが交通事故に遭った」って連絡が来ていないかな、と思っていました。

──母親が月まるさんに暴力をふるっていたことを父親は知っていたのですか?

月まる もちろん知っていました。それどころか、母が癇癪を起こしてヒートアップしたときは、父も一緒になって手を出し始めることがあったくらいです。私も何度か殴られてますが、弟の方がよりやられてましたね。「正座しろ」と言われ、そのまま蹴られて3メートル近く吹っ飛ぶこともありました。

──その状況が、大学2年で一人暮らしを始めるまで続いた。

月まる 大学受験も大変でした。現役のときは志望校に全然受からず浪人して、1浪のセンター試験(現:大学入学共通テスト)の前日に、38度以上の熱が出たんです。それでも母に「検査を受けずに試験に行け」と言われたので、仕方なくそのまま受験しました。終了後に検査したら案の定「インフルエンザですね」と言われ……近くの席の方にうつしてしまっていたら本当に申し訳ないです。

──38度の熱で受験は無謀です。

月まる そんな状態だったので全然点が取れなくて、その時点で志望校は絶望的でした。それでも母は「国立大学に行くべき」と激ギレしていたんですが、父がまだ申し込みが間に合う私大の願書を全部取ってきました。

 浪人の1年間で私はストレスで体重が20kg落ちていたのもあって、父に「もう1浪したら体が持たないよ。(母親のことは)なんとかするからとりあえず私大を受けよう」と言われました。母が叫んでいる横で、父と私大医学部の願書を書いたのを覚えています。

──医学部の2年生のときに実家を出られたのですよね。

月まる 片道2時間の通学が大変で、実家を出ることになりました。家を離れたことでだいぶ楽にはなったのですが、母からのメールに返信が少し遅れると人格否定のような文面が送り付けられてきましたし、鬼電もひどかったです。

「せっかく医師にしてやったのに、なんて役に立たないんだ」

──医師という職業選択は妹さんの影響もあったのですか。

月まる 親も私を医者にしようとしていましたが、それと同じくらい「東大か医学部に行くのが普通」という学校だった影響も大きいです。障害児教育に興味があることを母に話したら、「それは私の理想とする道ではない」と強く否定されたので、医療から障害児に関わればいいと思って。それ以降は自分の思いが揺らぐことはなかったですね。

──お母さんは月まるさんに医師になってほしかった。

月まる 私が医師になれば、妹の知的障害や自閉症を治せると思っていたようです。医師の力で治せるものではないのですが……。

 母は今でもその幻想から抜け切れていなくて、「せっかく医師にしてやったのに、なんて役に立たないんだ」と何度も言われてきました。

──現在の両親との関係はどういうものなのでしょう。

月まる 私は就職して早い段階で結婚して家を出ているので、一緒に暮らしていたのは大学1年生が最後です。家を出て医学部での勉強もして、自分の家庭環境が普通じゃなかったことがわかってきて、20代の頃に一度、10代の頃の暴力について両親に追及したことがあります。父は謝ってきましたが、母はそのときも「私の言うことを聞かなかったんだから、私は全く悪くない」と主張していました。今は実家とは絶縁状態です。

〈 「冷たいという人もいるかもしれませんが…」重度知的障害の妹を持つ女性が自分の子供を産んでたどりついた「きょうだいは親が一緒だっただけの他人」という境地 〉へ続く

(雪代 すみれ)

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