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賞金1000万、高視聴率を連発→死亡事故で番組終了…日本のテレビから“消えた”小林尊(46)が大食い界のレジェンドになるまで「これはスポーツなんだと強調したかった」

文春オンライン / 2025年1月25日 11時0分

賞金1000万、高視聴率を連発→死亡事故で番組終了…日本のテレビから“消えた”小林尊(46)が大食い界のレジェンドになるまで「これはスポーツなんだと強調したかった」

小林尊さん ©三宅史郎/文藝春秋

 大谷翔平がMLBで数々の記録を塗り替えるその約20年前、アメリカで一人の日本人男性がホットドッグ早食いにおける前人未到の記録を次々と打ち立てていった。小林尊(46)。「世界が尊敬する日本人100人」や「アジアの偉大なスポーツヒーロー」にも選出され、レジェンドフードファイターとして大食い界にその名を轟かせる。

 2024年に惜しまれながら引退を決めた小林さんに、あらためて日本、そしてアメリカでの大食いの日々を聞いた。(全3回の1回目/ 続き を読む)

◆◆◆

レジェンドフードファイター誕生のきっかけ

――小林さんはどういうきっかけで大食いという自分の才能に気づいたのでしょうか。

小林尊さん(以下、小林) はじめは遊び半分、力試し半分でした。大学の時に友だちと「誰が一番多く食べられるか」という話になりまして、当時CoCo壱番屋で1,300g食べたらタダになるというチャレンジメニューがあったので行ってみようと。

 1,300gを食べ切ればタダになるんですけど、その時の全国の挑戦者の中で最高記録が5,000g。せっかくなら新記録を狙いたいなと思って、100gだけ増量して5,100gで挑戦したんです。

――それが最初の挑戦ですか!? すごい……。

小林 その5,000gって、当時の『TVチャンピオン』*全国大食い選手権のチャンピオンの記録だったんですよ。でも全く余裕はなくて、制限時間20分のところ19分40何秒でやっと食べ切るようなギリギリのタイム。もう気持ち悪くて二度やりたくないぐらいの感覚でした。
*1992年から2006年までテレビ東京系で放送されていた競技型バラエティ番組

 でもそれがきっかけで当時の彼女が『TVチャンピオン』の大食い選手権に応募したんですよ。僕はそのことを全然知らなかったんですけど。それで『TVチャンピオン』に出ることになったんです。

――お姉ちゃんが勝手に事務所に履歴書送っちゃうアイドルみたい(笑)。

小林 楽しんでいましたね、最初は。でもデビュー戦は、もう先輩方しかいないし、僕は当時普通の大学生で、テレビ自体初めてなので……。緊張もして、必死でした。

 決勝に残った3人のうち1人は前回のチャンピオン、もう1人は前々回のチャンピオン、そして初出場の僕。だから誰が勝っても連覇かリベンジか新チャンピオンということで盛り上がる。番組的にはどう転んでも成功だったんですよね。ただ、ディレクターからは「小林君は大食い界に新しい風を吹かせてください」って言われたのを覚えています。

大食いはスポーツであると強調したかった

――そして初出場で優勝。大食い界に新しい風が吹いたんですね。

小林 僕が勝ったあと、決勝で戦った赤阪(尊子)*さんが「私と同じ『尊』の字を使うあなたは、次の時代を担ってくれるかもしれない」って言ってくれたんですよ。大食いの先輩やテレビスタッフたちには、大食いの世界を盛り上げていきたいという意識がすごくあることを知りました。こういう世界もあるんだなって、衝撃でした。
*「女王・赤阪」「飢えるジャンヌ・ダルク」と呼ばれ、1990年代に活躍した元フードファイター

――小林さんの中で「大食い」という世界に興味が出てきた。

小林 スポーツをやってるときと同じ感覚があるのがわかったんですよ。勝ったときの高揚感とか、試合前の緊張感とか、試合中の駆け引きとか。

『TVチャンピオン』の優勝後にスタジオで、「あなたにとって大食いってなんですか?」って聞かれて。そのときに僕は「生涯続けていきたいスポーツです」って答えています。初挑戦でしたけど、大食いがスポーツであることを強調したかったんです。

自分がフードファイトの未来をつくっていく

――それから小林さんは『TVチャンピオン』の常連になります。番組では「大食い界のプリンス」というニックネームがつけられますが、これについてはどう思われていたのでしょうか。

小林 プリンスというのは『TVチャンピオン』のレポーターをされていた中村有志さんがつけてくれたんです。「小林くん、決勝残ったからニックネームつけないとね」って言ってくれて。「アイドル小林とプリンス小林どっちがいい?」って。

――「ギャル曽根」の名付け親でもある中村有志さん。

小林 アイドルもプリンスもどっちも恥ずかしかったんだけど……。でもアイドルよりはプリンスの方が息が長い感じがして、「どっちでも嬉しいですけどプリンスでお願いします」って言いました。めちゃめちゃ照れありましたよ(笑)。

――「プリンス」って急に言われてもっていう。

小林 『フードバトルクラブ』*でも、「底知れぬ貴公子」とかのニックネームをつけてもらって、番組側がそういうブランディングで売っていこうとしているんだなと思いました。僕はちょっと恥ずかしさがあったので、日焼けサロンで思いっきり真っ黒にして坊主にしていましたね。
*2001年から2002年までTBS系列で放送された早食い・大食い番組

――それは「プリンス」に抵抗して?

小林 「プリンス」っていうイメージに乗っかっちゃうと自分でいられなくなる感じがして。それをうまくこなせる人がプロなんでしょうけど、僕には向いてないから、それだったら完全に期待を裏切っちゃったほうが楽かなと。

――少し前まで普通の大学生だったのに、急に「プリンス」と言われて、ファンが増えて。

小林 あのときは冷静さもなくてフワフワした感じで、なにが起きているかよくわかっていなかったと思うんですよ。ただ番組に出ながら、フードファイトがだんだん変わってきているのは感じて、これをスポーツにするのは面白そうだなと思い始めていました。自分にはフードファイトの未来をつくっていく、フードファイトを牽引していく役目があるんだろうなと。だったらもっとアスリートとして見てもらわないといけないし、「そもそもアスリートってなんだろう?」と自問していました。

2000年代のテレビの凄まじさ

――テレビをはじめとしたメディアは本当に無責任なところがあって、ワーッて持ち上げてはパッと離すみたいな、間をある種商品みたいに扱うところがあると思うのですが、小林さんがそこに与(くみ)しなかったのは「フードファイトを競技として広めたい」という軸があったからなんですね。

小林 当時のテレビの力は特にすごかったですね。ただ、爆発力はあるんだけど持続力が怪しいと思っていて。大食いをスポーツとして成長させたくても、テレビだと、番組が終わればそこでなくなっちゃうじゃないですか。テレビの影響で大きくなっていったものだから、早いうちに番組の枠から出てスポーツイベントとして広げていかないと、流行って捨てられて終わるんだろうなという感覚がありましたね。それでもだいぶ飲み込まれた気がしますけど。ジャイアント白田のほうがもっと現実的だった気がする。

――『フードバトルクラブ』で小林さんとツートップだった白田信幸さん。白田さんは飲食業をやりたかったんですよね。

小林 白田はフードファイトを始める前も始めた後でもそこがまったくブレてないんですよ。僕の場合は「よし、これをスポーツにしよう」って思ったのもテレビにだいぶ影響されている気もします。当時の僕には大学卒業後の進路目標だとか、これといった将来の夢もなかったですし。

――2000年前後くらいのテレビだと、一つの番組にかけられる予算もすごかったのではないでしょうか。

小林 とある番組では、共演したフードファイター仲間が「プロデューサーに聞いたんだけど、あの番組の予算、億単位だって」って言っていました(笑)。

『フードバトルクラブ』では、1枚数万円するステーキとか普通に出てきましたね。それを「15分で食べろ」って(笑)。試合の会場もパシフィコ横浜だったり東京ビッグサイトだったり、そこにめちゃめちゃでっかいスクリーンを据えて。すごい規模だなと思いました。賞金も当時1,000万円でしたし、今だったらちょっと考えられないですよね。

「あの食べ方はダメだ」という批判も…

――すごい。あの頃はK-1もすごく人気でしたが、大食いとともに人間同士のガチンコ勝負に世の中が酔いしれた時代でした。

小林 2000年に『TVチャンピオン』で僕はデビューして、2001年に『フードバトルクラブ』が始まって、2002年の元日は2~3のテレビ局がフードファイトの特番をやっていました。やっぱり視聴率とれたんでしょうね。かなりイケイケの時代でした、フードファイトの。

――小林さんはずっとその渦中にいた。

小林 それも今になってみないとわからないことでした。普通、テレビ番組で長い間画面に映るのは、ドラマだったら主役だろうし、バラエティ番組だったら司会者だと思うんですよ。僕は一挑戦者ながらその枠と同等の扱いで、1時間、2時間の間ずっと出続けていた。それは本当にすごいことだったんですよね。有名人でもないのにものすごい時間をもらってたんだなって。

――だから視聴者の脳裏に焼きつけられた。

小林 あと演出がよかったですよね。『フードバトルクラブ』は特にスタイリッシュだった。準決勝からスーツに蝶ネクタイで食べてました。ただ蝶ネクタイは本当に苦しいので文句言ってましたけど(笑)。

 とにかく早くたくさん食べるという行為に一部の視聴者からの批判はあったけど、僕は「でもこれはスポーツだから。食事のマナーの延長線上で『あの食べ方はダメだ』ということに対して折れちゃってたら、新しいことはできないから、そのままやりたい」と主張していましたね。

――「食事のマナー」とは一旦決別する。

小林 難しいんですよね。本当はもう1つステップが必要だったのかもしれない。フードファイトは普段の食事と違うということを視聴者にわかってもらえるようなステップを一つ踏めたらよかったなと思っています。あまりにも一気に世間に広がっていってしまったので、常に人気と批判とのせめぎ合いみたいになっちゃいました。

――フードファイトは常識や社会規範との戦いの歴史でもあったんですね。

小林 アメリカで(大食いが)やりやすかったのはそれが1つの大きな理由だったと思います。日本と比べると、あまり食事のマナーについての文化が細かく決まっていないなと。

 日本では、大食いを普通の食生活から切り離すのは難しかった。たとえば「子どもにああいう食べ方を真似してほしくない」という親御さんの気持ちもわかるので、難しいですよね。実際、僕も両親に「大食い=スポーツ」だと理解してもらうまではかなり時間がかかりました。父親と口を利かないような時期もあるくらいでしたし。

突然の番組終了と渡米

――2002年、番組を真似て起きたとされる中学生の死亡事故により、『フードバトルクラブ』は突然終わりを告げました。あの時、小林さんはどんなことを考えていましたか。

小林 そうですね……本当にやるせなかったです。まだフードファイトがスポーツとして認知されてないから、こういうアクシデントが起きたら一切なくなっちゃうんだろうなとも思いました。番組の人気が落ち気味だったら諦めもついたかもしれないけど、登り調子のままぷっつりと終わっちゃってたので、気持ちも不完全燃焼で。

 そこは受け入れつつ、少し時間が経てばもう一度番組が復活するんじゃないかと期待していました。プロデューサーも、「1年ぐらいは復帰が難しいかもしれないけど、またやりたい」って言ってくれていたし、テレビ東京でも違う名前の大食い番組が始まったので、可能性は十分あるかなと思ってはいました。

 ただその間なにもやらないのは、モチベーションを保てなかった。やっぱり大会がないとダメなんですよ。そこで、考えたのが渡米だったんです。年に一度開催されるアメリカのホットドッグ大会に出続けることを決めました。それに合わせてトレーニングすれば、体の調子も維持できて、スピリットも死なずに済むのではないかと。さらに、ホットドッグだけでなく、月一でアメリカのなんらかの大会に出るようになりました。

――番組がなくなったということは収入も断たれたわけですよね。お金はどうされていたんですか?

小林 日本のテレビで得た賞金がなくなるまでは、チャンスに賭けてみようと思っていました。大食いで稼いだお金がなくなるまでは。

撮影=三宅史郎/文藝春秋

〈 「大食い界のプリンス逮捕」の真相は…フードファイター小林尊(46)が目の当たりにした“米国のリアル”「ビンを投げられ、日本に帰れ!と…」「声をあげないと、ないものにされてしまう」 〉へ続く

(西澤 千央)

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