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「来るべきものが来たのだ」開戦待ったなしなのに…日本陸軍作戦本部長がアメリカからの“最後通牒”を前向きに受け止めた“意外な理由”

文春オンライン / 2025年1月20日 7時0分

「来るべきものが来たのだ」開戦待ったなしなのに…日本陸軍作戦本部長がアメリカからの“最後通牒”を前向きに受け止めた“意外な理由”

写真はイメージです ©AFLO

 第二次世界大戦時、日本が「なんとかアメリカとは戦わない方法はないか」と検討を重ねる段階で、早々に対米開戦を決意していた男がいた。陸軍の参謀本部作戦部長、田中新一。作戦立案の中心を担っていた男はなぜアメリカと激突する道を信じ続けたのか。

 ここでは、歴史学者の川田稔氏が執筆した『 陸軍作戦部長 田中新一 なぜ参謀は対米開戦を叫んだのか? 』(文春新書)の一部を抜粋。1941年10月末、国策再検討でも「アメリカを屈服させることは不可能だ」と見通しが出されるなか、勝利するための方法を考え続けなければならない彼は、どんな思いを抱いていたのか。(全2回の1回目/ 続き を読む)

◆◆◆

田中から見た「国策再検討」

 その翌日(10月31日)、東条首相と杉山参謀総長との会談が行われた。

 杉山は、本格的戦争準備を「12月初頭」を目途に整え、外交は作戦を有利とする目的にそうように運営すべきだと主張した。東条は外交を作戦の手段とするような「偽装外交」はとうてい「陛下」に申し上げるわけにはいかないとして反対した。杉山は、今後の対米交渉においてさらに「条件を緩和」することがないか、と危惧を表明したが、東条は、対米交渉での条件はこれ以上「低下」することはあり得ないと述べた。

 この点について田中は、海・蔵・企画各相は、ただ交渉を続け、最低要求をさらに低下して「妥結」を図ろうとしている。それでは「国防の自主性」を失った妥結に陥る危険が多く、時日を遷延し「国防の好機」を逸する危険が大きい。したがって東条の意志に反して内閣と統帥部との衝突となる危険があるとみていた(田中「大東亜戦争への道程」第10巻)。

 この頃、田中は、連絡会議における国策再検討の経過を振り返り、次のように記している。

 第一に、「戦争決意」をしたといっても「開戦決意」がされていない。第二に、「遂行要領」に12月初頭「戦争発動」の決意を挿入しなければならない。第三に、戦争決意と12月初頭「武力発動」が決められなければならない。第四に、開戦決意は「11月中旬」でなければならない。したがって、外交交渉は11月中旬まで、武力発動は12月初頭となる。もし米側提案を全面的に受け入れる場合には、「米国の圧迫」なしとみるのは「虚妄」であり、「支那」から完全撤退せぬ限り圧迫の軽減は不可能である。第五に、三国同盟からの離脱は不可避的に「国際的孤立」となる。数年後には「米ソ支」による対日圧迫を受け「国家存亡の危機」に陥る(田中「大東亜戦争への道程」第10巻)。

 このような立場から、11月中旬開戦決意、12月初頭開戦、三国同盟の維持を強く主張しているのである。

 また、東郷外相より提起された乙案(編集部注:一定の譲歩を示したうえで暫定的な妥結を図る意図で東郷外相が提案していた)についての田中の見方は先にも触れたが、少し詳しくみておこう。

「乙案」は南部仏印進駐前の状態に復帰するもので、「航空揮発油」の供給はあてにならない。国防の不安と「支那事変解決」の困難性は一層高まる。対米戦の戦機を逸することになり、米国に戦争介入の諸準備のための時間を与えてしまう。だが日米間の「妥結」の可能性は相当に大きい。妥結が成立したとしても、それは「米国政戦略上」の一時的戦術であり、「統帥部」としては「反対」の態度を明確にすべきであろう。統帥部があくまで反対すれば、「内閣の倒壊」とならざるをえない。しかし、その後の「政局収拾」の確実なる「目処」は立たず、しばらく事態を「静観」するしかない。

 乙案による日米妥協の可能性は高く、統帥部としては好ましくない事態だが静観するしかない。それが田中の判断だった。

 ところが連絡会議では、東郷の提案を東条首相が支持し、「陸軍統帥部」としては政変を回避するため「譲歩」せざるをえなかった。この事態に田中は、乙案が成立しても、それは米側の「謀略的」な一時的宥和であり、半年後には「対米一戦」か「大東亜共栄圏の放棄」かに追い込まれる。だがその時は日米艦艇格差の拡大によって日本はもはや「戦えなく」なっている、と危機感を高めていた(田中「大東亜戦争への道程」第10巻)。

幻のアメリカ「暫定協定案」

 11月2日、大本営政府連絡会議は、再検討の結果に基づいて、あらためて「帝国国策遂行要領」案を決定した。その主要な内容は以下のとおりである。

〈一、武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完成する。
二、対米交渉は、別紙要領によりおこなう。
三、独伊との提携強化を図る。対米交渉が12月1日午前0時までに成功すれば、武力発動を中止する。〉

 そして、別紙対米交渉要領には甲案、乙案が併記された。

 11月5日、御前会議が開かれ、「帝国国策遂行要領」(甲案・乙案を含む)が正式に決定された。原則的には、9月6日の御前会議決定に事実上回帰したのである。

 対米交渉の甲案と乙案は、御前会議決定前の11月4日、野村駐日大使に打電された。野村は、まず甲案を11月7日にアメリカ側に提示したが拒否され、11月20日に乙案を示した。

 11月21日、甲案不成立を知ると、田中は、乙案による「妥結の見込み」はほとんどなく、乙案が拒絶されれば「開戦」の外はない、と判断した。翌日、連合艦隊に「布哇(ハワイ)奇襲」の命令が発せられたとの通知を受けとっている(田中「大東亜戦争への道程」第11巻)。

 日本国内で事態がこのように推移しているなか、アメリカ政府は、乙案に関心を示した。対日戦を先延ばしにして、フィリピンその他での戦力増強のための時間的猶予を望んでいたからである。米政府は、7月の極東アメリカ軍創設後、9月頃から、B-17大型長距離爆撃機部隊の配置計画など、フィリピン軍事基地の強化を進めようとしていた。

 米国務省内では、その対案として、北部仏印の日本兵力を2万5000以下とし、両国の経済関係を資産凍結以前の状態に戻す旨の「暫定協定案」が作成された。そして、ハル国務長官は、乙案に対して、石油禁輸などの経済制裁を3ヶ月間解除し、さらに延長条項を設ける暫定取り決め案ではどうかと、口頭で野村大使らに示唆した。その上で、英蘭中などの同意を求めたうえで、正式に日本側に提示すると述べた。

 米国務省の暫定協定案は、間もなく、イギリス、オランダ、中国(蒋介石政権)などに内示された。日本の南進に脅威を感じていたオランダは賛成したが、蒋介石政権は、中国の抗戦意欲に打撃を与えるとして強硬に反対した。この中国の主張にイギリスが同調し、結局、暫定協定案は断念された(福田『アメリカの対日参戦』)。

 1941年11月27日、ハル国務長官は、乙案に対する回答として、いわゆる「ハル・ノ ート」を提示した。その内容は、ハル四原則の無条件承認、中国・仏印からの無条件全面撤兵、南京汪兆銘政権の否認、三国同盟義務からの離脱を求めるものだった。

開戦やむなし

 ハル・ノートを受け取った東条首相は、その内容に愕然とした。東郷外相も激しく失望した。両者ともに、もはや交渉の余地なく、開戦やむなしと判断した。

 ハル・ノートを知った田中は、「来たるべきものがきた」との感をもった。その内容は実質的に「対日最後通牒」であり、「宣戦布告」だと受け止めた(田中「大東亜戦争への道程」第11巻)。

 同日、大本営政府連絡会議が開かれ、ハル・ノートにより「非戦派閣僚」も一気に開戦論に転換した。対米開戦で閣僚の意志一致がなされたのである(田中「大東亜戦争への道程」第11巻)。

 田中は、これをアメリカが極東侵略政策をあらわにしたものと受け止めた。ハル・ノートは日本の「アジア解放」政策たる「大東亜共栄圏政策」に敢然と挑戦したものであり、「ワシントン体制」の復元を強要するものと断じた。日本の「東亜新秩序政策」と正面衝突するものであり、満州を含めた「全支」から全面撤兵を要求し、「満州建国」や「汪政権」の解消を要求するものと解釈した。それによって満州事変以来10年の日本の経営は「水泡」に帰する。「対ソ対支」国防は危殆に瀕することになる。

 また「支那大陸」は完全な「赤化」か、「モスクワ帝国主義」と「米英帝国」との争奪戦場と化する。米国は米英支配下の「植民地支那」を未来に描いている。日米英支ソ蘭泰7ヵ国の多辺的不可侵条約によって「集団的平和機構」を作ろうとしているが、それは「架空論」であり、その結果はアジアの「大混乱」を造り出すに過ぎない。仏印を米英支ソ蘭泰6ヵ国の「共同保証」の下に置くことを提議しているが、これは日本の「南進政策」を阻止するための「鉄壁」を築こうとするものに他ならない。ハル・ノートの意図は結局のところ日本の「主導的地位」の覆滅にある。こう田中は判断していた(田中「大東亜戦争への道程」第11巻)。

ハル・ノートという「天佑」

 田中は、ハル・ノートの到来は、日本にとってむしろ「天佑」だとみた。これで日米開戦に消極的な東郷外相らも開戦を決意せざるを得なくなり、国論も開戦に一致するだろう。開戦方針貫徹のためには、情勢は一気に好転した、との認識だった。

「ハル・ノートが日本のためには、あたかも好機に到来したことは、むしろ天佑であるといえる。このような挑戦的な文書をつきつけられては、東郷(外務)、賀屋(大蔵)の両相も、もはや非戦的態度を固辞し得なくなるだろう。これで国論も一致するであろう。……要するに来るべきものが来たのだ。……既定の開戦方針貫徹のためには、[田中自身にとって]情勢はこれで一気に好転したのだ。」(田中「大東亜戦争への道程」第11巻)

 田中にとって、ハル・ノートは、ワシントン体制、9ヵ国条約体制への復帰を強要するもので、大東亜共栄圏政策、東亜新秩序建設と正面から衝突するものだった。

 田中は仏印のみならず、満州を含む全中国からの全面撤兵を要求し、汪政権や満州国も解消することを求めているものと理解した。満州国の否認について文面上は明言していないが、日米の力関係からして事実上そうなっていくとみていた。それは、日本の満州事変以来の全ての努力・営為を否定するものだと考えたのである。

 ハル・ノート受領後、田中は、次のような情勢判断を記している。「南方戦争」は東南アジア地域に限定されることなく「印度、豪州」に発展していき、太平洋における「全面的長期持久戦」となっていくのは「必至」だ。

ドイツの不敗は間違いないという判断

 また「欧州戦争」は「独伊完勝」の夢は過ぎ去ったが、欧州戦全局としては「持久長期戦争」となるだろう。イギリスの「海上封鎖」の実現は相当困難で、陸上防御態勢も強化され、イギリスを「全面的に席巻」するがごとき部隊の上陸はほとんど不可能になった。したがって「従来の対英判断」「独逸の対英攻撃の能力判断」は再検討の要がある(田中「大東亜戦争への道程」第11巻)。

 それでは、このような情勢にどう対処すべきか。海軍は太平洋正面2ヵ年は「大丈夫」と保証している。海軍が2年間西太平洋の「制海権」を維持し「南北の海上交通」を安全にし続けるならば「長期戦争態勢」は確立しうる。しかし2年間の「西太平洋維持」が挫折するなら「戦争指導」は崩壊の危機に直面することになる。

 また、ドイツの欧州における「不敗態勢の確立」が日本の「戦争指導上の一大要因」であるが、現時点で必ずしもドイツ有利とは言えないにしても、ドイツの不敗は間違いない。いずれにせよ太平洋地域での戦争の勝敗は、結局「飛行機と船」の問題である。田中はこう結論づけている(田中「大東亜戦争への道程」第11巻)。

〈 軍務局長を殴り、東条英機を「馬鹿者共」と罵倒…日本の勝利を考え続けた“作戦部長”が自ら辞職を願い出た“まさかの経緯”とは 〉へ続く

(川田 稔/文春新書)

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