1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

軍務局長を殴り、東条英機を「馬鹿者共」と罵倒…日本の勝利を考え続けた“作戦部長”が自ら辞職を願い出た“まさかの経緯”とは

文春オンライン / 2025年1月20日 7時0分

軍務局長を殴り、東条英機を「馬鹿者共」と罵倒…日本の勝利を考え続けた“作戦部長”が自ら辞職を願い出た“まさかの経緯”とは

写真はイメージです ©AFLO

〈 「来るべきものが来たのだ」開戦待ったなしなのに…日本陸軍作戦本部長がアメリカからの“最後通牒”を前向きに受け止めた“意外な理由” 〉から続く

 第二次世界大戦当時、陸軍作戦部長の田中新一は、可能性が限りなく低いなか日本の戦争勝利のために作戦プランを出し続けた。しかし、どうしても陸軍省幹部を納得させることはできず、果てには軍務局長を殴打。東條英機相手には「馬鹿者共」と罵倒を浴びせ、結果的に自ら辞職を願い出ることになる。

 作戦部長を失った日本軍は、その後、どのように戦争に臨んでいくのか……。歴史学者の川田稔氏の著書『 陸軍作戦部長 田中新一 なぜ参謀は対米開戦を叫んだのか? 』(文春新書)の一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/ 続き を読む)

◆◆◆

 結局、ガダルカナル問題が、戦略家田中新一の命運を決したといえる。

 1942年11月初頭、ガダルカナル島が完全に米軍の「制圧下」に置かれたことが明白となった。ラバウル航空隊がガダルカナル島周辺の敵機を圧倒することは不可能な状態だった。それはラバウルからガダルカナル島まで往復8時間を要し、日本側攻撃機の航続距離の関係からガダルカナルでの滞空時間が極めて限られていたからである(田中「大東亜戦争作戦記録」其10)。

 11月16日、参謀本部は37万トンの船舶増徴を陸軍省に要求した。20日、閣議はこれを29万トンと決定した。この決定に参謀本部は不満だった。その底流には、田中ら参謀本部のガダルカナル島奪回の願望があった。彼らの船舶増徴要求はそのためのものだったのである。

軍務局長を殴り東条に「馬鹿者共」

 そこで田中は、陸軍省側に説明を求めた。佐藤賢了軍務局長の回想によると、彼が参謀次長官舎に赴くと、田中が船舶徴用量の政府決定に不満を述べた。田中、佐藤双方の議論の中で、「田中作戦部長は……いきなり[佐藤を]なぐった。この暴行には私[佐藤]もちょっとおどろいたが、すぐなぐり返した。みなにひき分けられて私は帰った」とのことである(佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』)。

 翌日、田中は、閣議決定に対して、「これでは困るではないですか。ガ島をどうするのです。よし私が話をつけてきましょう」と田辺盛武参謀次長に話し、東条首相兼陸相に談判を申し入れた。その後、首相兼陸相、陸軍次官、軍務局長、人事局長、参謀次長、作戦部長の間で議論がなされた。東条首相兼陸相は、「第一部長[田中]は連絡会議の承認なき船舶処理は不当だというけれども……こんな予定外に船舶を消耗されては、政府としても賄い切れるものではない。……戦争経済が破綻する」と主張した。

 田中は、東条の主張は、全く「剣もほろろ」であり、真意は「ガ島放棄」を示唆するものであり、統帥部に対する「不信」の表明だと受けとった。また、東条には「ガ島戦に対する正常な認識」が欠けており、ガダルカナル島喪失による「南太平洋防衛」の破綻が日本の「基本的長期戦争計画」に対する致命傷となることが理解できていない、と反駁しようとした。だが、その間に思わず「馬鹿者共」と暴言に近い表現を使った。

 その夜半、田中は杉山参謀総長を訪ね、作戦部長の辞職を懇請した。その結果、重謹慎15日の処分を受けた後、南方総軍司令部付に転出した(「田中新一中将回想録」其の5)。

戦争経済が維持できず

 こうして田中は陸軍中央を離れた。しかしその後の陸軍には、田中のような世界的視野から戦略構想を立てうる幕僚は現れなかった。

 後任の作戦部長には、第一方面軍参謀長の綾部橘樹(実務型)が就くが、間もなく作戦課長だった統制派の真田穣一郎が作戦部長に昇格した。東条陸相の意向だった。

 8月から始まったガダルカナル攻防戦で、日本軍は、第七師団一木支隊、第一八師団川口支隊、第二師団、第三八師団など、約3万人の兵士を投入していた。だが、いずれも大損害を受け、ガダルカナル島の確保に失敗。また制空権を喪失したなかで大量の兵員・物資輸送船(徴用)を失い、西太平洋での資源輸送用船舶の運用にも困難を生じることとなっていた。

 このような状況下で、田中はガダルカナルに大戦力を一挙に投入して、同島の奪回を図るべきだと主張した。37万トンの船舶増徴要求はこのためだった。

 田中はこう考えていた。

 ガダルカナルへの米軍の来攻は、アメリカの本格的反攻に発展しつつある。ガダルカナルを失えば、そこを足場に米軍はさらに西進し、西太平洋における日本の制海・制空権を揺るがすこととなる。そうなれば南方占領地域と日本本土との輸送路を遮断されるばかりでなく、南方要域の確保そのものが困難となり、長期持久戦態勢の経済的基礎が脅かされる。そのような事態に陥れば、長期の戦争継続が不可能な状況となる。したがってガダルカナルは何としても確保しておかなければならない(『田中作戦部長の証言』)。

 陸海軍首脳の多くは、アメリカの太平洋方面での反攻は1943年(昭和18年)以降になると想定していた。アメリカが1940年に制定した両洋艦隊法による、戦艦・空母などの完成までには3~4年はかかり、反攻態勢が整うのはそれ以降になるとみていたからである。

要求には制限が付けられ…

 だが田中はすでに米軍の反攻は本格的なものになりつつあると判断していた。それゆえ田中はガダルカナルの争奪戦が、日本が長期持久戦態勢を維持できるかどうかの分岐点であり、日米戦争の一つの決戦場だと考えていたのである。

 そのような見地から、田中ら作戦部は、次のような作戦構想を立案し、陸海軍中央・政府に提案した。

 ガダルカナル奪回のため、さらに第五一師団、第六飛行師団を派遣し、関東軍からも精鋭師団を投入する(田中は、すでに同年3月、関東軍の準備が不十分との理由で、対ソ武力行使を断念していた)。同島周辺の南東太平洋戦域方面の全部隊を新たに第八方面軍に統合し、思い切った集中的部隊編成をおこなう。同島周辺に新たに防空基地の威力増強のため、満州から派遣する陸軍航空200機などを加え、陸海軍協力してガダルカナル周辺の制空権を確保する。

 そのうえで、満州からも重砲20門、高射砲60門とその関係資材と人員を送るなど、一大戦力を集中的に投入。それらによる徹底した攻撃によって、ガダルカナル島の米軍を排除し、同島を確保する。総攻撃は来年1月とする。

 そして、このような作戦遂行のため必要な輸送用船舶55万トンの増徴を要求した(『田中作戦部長の証言』)。これは前記の37万トンの船舶増徴を含めたものだった。

 東条首相兼陸相は、ガダルカナル奪回の必要は認めた。だが、そのような膨大な戦力と輸送船舶を局所的に投入すれば、占領地域全体の防衛線の確保と戦争経済の維持にほころびが生ずると考えていた。ことに、膨大な輸送用船舶の徴用は、南方から本土への物資輸送を困難にし、戦争経済を維持する物資動員計画を崩壊させるとして、田中らの船舶増徴要求を認めず、東条は増徴船舶量に制限を付けようとした。

 物資動員計画の崩壊は、戦争指導全体の破綻を意味すると判断していたからである。田中ら作戦部の要求は、東条にとって、首相として戦争システム全体の維持を考慮しなければならない立場から、とうてい受け入れがたいものだった(佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』)。

 なお、田中は、もしこれだけの態勢でガダルカナル島奪回に失敗すれば、対米戦の長期継続は困難となり、休戦・短期講和へと向かうほかはないと考えていた(『田中作戦部長の証言』)。

 だが、田中罷免後の1942年(昭和17年)12月31日、大本営はガダルカナル島撤退を決定。同島への総攻撃は実施されず、翌年2月上旬、撤退が完了した。

 これ以後、アメリカ軍の反攻は本格化し、ガダルカナル島をめぐる攻防戦が、事実上太平洋戦争の最大の転換点となった。投入された兵士約3万に対し、撤退しえたのは約1万。戦没者は2万1000、うち病死・餓死が1万数千人に達するという惨憺たる結果に終わった。

ビルマでの戦い

 東条との衝突によって作戦部長を罷免された田中は、南方軍総司令部付への転出命令をうけ、シンガポールの南方軍総司令部に赴任する。その後、1943年(昭和18年)3月、ビルマの第一八師団長に任命された。田中の師団長着任時、師団司令部はメーミョーにあり、「菊兵団」と呼ばれていたが、それまでの戦闘によって各大隊数十名程度にまで減耗していた。

 第一八師団は、フーコン渓谷のニンビンにおいて中国軍と交戦し、補給の途絶えたまま長期持久戦を余儀なくされる。一方、第一五軍の牟田口廉也軍司令官がインパール作戦を提案した際、兵団長会合の席上で作戦の再考を促したが、牟田口は同意せず、作戦は実行に移された。

 インパール作戦の失敗後の9月、田中はビルマ方面軍参謀長となった。ビルマ方面軍の主要な任務は、インパール敗戦後のビルマ方面軍の再建とビルマ南部の防衛だった。

 田中はイラワジ河を防衛線として邀撃作戦をとったが、軍の戦力低下のため敗退を重ねた。方面軍司令部はラングーンにあったが、木村兵太郎方面軍司令官は、英軍の圧力を受け、南方総軍からのラングーン確保の命令を無視してモールメンに独断撤退した。田中は木村司令官の独断撤退を怒り、ラングーンに踏みとどまった(高山『昭和名将録』)。

 しかし間もなく南方総軍の命令により、ラングーンを放棄し、司令部と合流した。

「戦略家」の不在

 一方、欧州戦争の全般的状況をみると、独ソ戦線では、日米開戦直後からモスクワ西方でソ連の反攻が本格的に始まった。また1942年9月からのスターリングラード攻防戦で、ドイツ軍は決定的な敗北を喫した。これ以後、ドイツ軍は後退を重ね、独ソ戦におけるドイツ勝利の可能性はなくなっていく。

 また、同年10月、北アフリカのエル・アラメインの戦闘で、独伊枢軸軍がイギリス軍に惨敗。11月には、北アフリカに米英連合軍が上陸し、枢軸側のエジプト侵攻の企図は失敗に終わった。これによって、枢軸側が意図していた、スエズ運河の対英封鎖によるアジア・イギリス間の物資補給ルート遮断は不可能となった。田中の企図していた「印度洋・西亜作戦」による英国・アジア間の連絡ルート遮断もありえなくなったのである。

 独ソ戦におけるドイツの敗退は、日本にとってイギリス屈服の前提とされていた、ソ連壊滅が不可能となったことを意味した。また、独伊のスエズ運河掌握の失敗によって、アジアからの物資補給ルート遮断によるイギリス弱体化の企図も挫折した。

 第二次世界大戦は、アメリカにとっても、日独にとっても、イギリスをめぐる戦いだったが、これらによって日独によるイギリス屈服の可能性はなくなったのである。

 開戦前の「対米英蘭戦争指導要綱」や「戦争終末促進に関する腹案」では、戦争終結の方策として、こう考えられていた。アメリカを直接武力で屈服させる方法はない。したがって、日独伊の協力によってイギリス帝国を崩壊に追いこみ、アメリカを南北アメリカ大陸に封じ込め、その継戦意志を喪失させる。それが唯一の方法だ、と。田中もそう考えていた。

 だが、独ソ戦においてドイツ勝利の可能性がなくなり、イギリスを屈服させる可能性は失われた。それまで考えられてきた戦争終結の唯一の方法が消失したのである。したがって、この時点で、それに代わる戦争終結の新たな方策が必要とされる局面になっていた(『杉山メモ』)。

 これまで田中は、こうした国際情勢の激変のたびに、苦しくはあるが、新たな戦略を立てつづけてきたといえる。しかし、このような状況下で、陸軍において田中や武藤章にかわって新たな政戦略を構想しうる有力な幕僚は現れなかった。

 したがって東条は、それまでの構想に従って長期持久戦の方針を踏襲し、場当たり的な対処によって事態を弥縫していく方法しかとりえなかった。

(川田 稔/文春新書)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください