実家は「天皇家にもつながる」超名門、慶応幼稚舎からエスカレーター式で高校進学したけれど…“エリート生まれ・エリート育ちの慶応ボーイ”が退学になった「ある事件」
文春オンライン / 2025年1月26日 6時10分
“生粋のエリート男性”を退学に追いやった「ある事件」とは? 写真は慶応大学三田キャンパス ©時事通信社
質素なスポーツの祭典だったオリンピックを巨額の利益を生み出すイベントに変えた電通にあって、長年、スポーツ局に君臨した高橋治之氏。そして、弟でかつて背任容疑で東京地検特捜部に逮捕された、イ・アイ・イーインターナショナル社長の高橋治則氏(享年59)。
天皇家にもつながるという名門で、お手伝いさんがいるような裕福な家庭で生まれたこの兄弟だが、かつて弟の治則は「高校退学」という挫折を味わっている。彼はなぜ慶応高校を退学しなければならなかったのか? ジャーナリストの西﨑伸彦氏の『 バブル兄弟 “五輪を喰った兄”高橋治之と“長銀を潰した弟”高橋治則 』より一部抜粋してお届けする。(全3回の1回目/ 続き を読む)
◆◆◆
生粋の慶応ボーイ
幼稚舎から慶応の高橋兄弟。治之は高校時代から高級外車を乗り回し、自宅で盛大なパーティーを開いていた。かたや治則は“ある事件”によって、退学処分を食らってしまう。
1961年に公開された映画「大学の若大将」は、若大将シリーズの記念すべき第一作である。主人公は慶応大出身の加山雄三。加山が演じる老舗すき焼き屋の長男が、水泳で五輪を目指し、時代を先取りしたアメリカ風のキャンパスライフを送る。その眩しい姿は、当時の若者の憧れの的だった。敗戦から復興を遂げた日本が、「岩戸景気」で勢い付き、世界に例を見ない高度経済成長期を迎えていく活力ある時代の理想像を表していた。
その前年の4月、高橋治之は慶応義塾高校に入学した。男子校の慶応義塾高校は通称、“塾高”と呼ばれ、ほぼ全員が推薦で慶応大学に進学できる。そのため、クラブ活動や趣味に伸び伸びとした3年間を過ごせる自由な校風で知られる。
幼稚舎から慶応普通部を経て、順当に塾高に進んだ治之は、その自由を謳歌するように4月に16歳になると、すぐに自動車免許を取得。時に父・義治の目を盗んで、イギリス車オースチンを運転し、日吉の地下壕周辺のスペースに車を停めていた。
塾高の同級生が振り返る。
「あの頃は、車で塾高に通う学生が結構いました。彼も時々親に無断でオースチンを持ち出し、父親から『俺が乗ろうと思っていたのに』と怒鳴りつけられたと話していました」
その後ろ姿を追うように、弟の治則も塾高に入ると「軽免許」を取得した。当時は、軽自動車用の免許が制度化されており、16歳から軽自動車の運転が可能な免許を軽免許と呼んだ。義治はのちに、大学生になった治之にはセドリックを、軽免許の治則にはスバル車を買い与えた。
白黒テレビと冷蔵庫、洗濯機が「三種の神器」と呼ばれた時代。高校生で高級外車を乗り回す治之は、加山が演じた映画の主人公さながらに時代の最先端を行く“慶応ボーイ”だった。
治之の幼稚舎時代の同級生には、昭和天皇の初孫として知られた東久邇信彦や世界的ピアニストとなった中村紘子らがいた。とくに旧皇族の竹田家の次男で、伊藤忠理事からブルガリア大使も務めた竹田恒治とは竹馬の友だった。竹田家は5人きょうだいで、恒治の3歳下の末弟が、のちにJOC会長になる竹田恒和だ。
前出の塾高時代の同級生が述懐する。
高校から慶応に来た同級生は「外部の人」
「当時の“幼稚舎組”は結束が強く、高校から慶応に来た同級生を“外部”と呼んで一線を引くところがありました。彼らと仲良くすると、『お前、外部と付き合うのか』と露骨に嫌な顔をする者もいました。しかし、治之にはそういう垣根がなかった。逆に彼らの盾になり、温かく迎える度量の広さがありました。彼は外部から来た友人と一緒にボクシング部に入部していました」
国体の神奈川県予選にも出場し、勝ち星をあげたが、試合後に頭痛を訴え、病院に運び込まれた。腕力が強く、パンチ力はあったものの、相手のパンチをブロックする基礎的な技術がなく、連打を浴びた結果だった。
母親は、ボクシングに熱を上げる治之を「それ以上頭を殴られたらバカになる」と心配したが、翌年塾高に入学した治則もボクシング部に入部した。実は、ボクシングを始めたのは、治則の方が先。彼は兄にも内緒で、自宅から少し離れた街のジムに通っていたという。それは、奔放な兄への羨望とは違う、ライバル心の芽生えだったのかもしれない。
治則の幼稚舎時代のクラスメイトには、フジサンケイグループの祖である鹿内家の2代目、鹿内春雄や、のちに治則のゴルフビジネスにも関わるゴルフ評論家の戸張捷らがいた。
架空パーティーの嫌疑
元衆院議員の太田誠一は、地元・福岡の中学校を卒業して塾高に入学。そこで治則と知り合っている。太田は、博多大丸の元会長を父に持ち、身内に政財界の有力者がいる家系に育ったが、当時はまだ政治家志望ではなかった。品川区小山にあった親族宅に身を寄せ、毎日、最寄り駅の洗足から目蒲線に乗って日吉にある高校まで通った。
目蒲線は、現在の東急目黒線の旧称で、かつて“都会のローカル線”の風情を漂わせて走る濃紺と黄色のツートンカラーの車両で親しまれていた。当時の塾高は一学年に約700人の生徒がいたが、目蒲線を利用して通う同級生は、せいぜい3人。その1人が治則で、同じクラスになり、毎日通学で顔を合わせるうちに言葉を交わすようになった。
太田が当時の記憶を辿って語る。
「高校から慶応に入った同級生には、のちに政治家になる中曾根弘文や小坂憲次がいましたが、決して目立つ存在ではなかった。塾高で目立つのは、やはり幼稚舎から普通部に進んできた連中です。慶応には普通部と中等部という2つの中学がありますが、幼稚舎出身者は伝統ある普通部に進む。彼らは自分たちが慶応の主流だという自負がある。その後、有名になった同学年の幼稚舎出身には、バラエティ番組を制作している『ハウフルス』の菅原正豊(「タモリ倶楽部」などを手掛けたテレビプロデューサー)がいました」
治則も慶応幼稚舎から普通部に進んだ主流派だったが、太田にとって忘れられない出来事が、治則の印象を一変させた。学内の掲示板に張り出された治則の退学処分の告知である。塾高では、学生の不祥事について三段階の処分があり、問題の履歴が記録として残される譴責、次に停学、そして最も重いものが退学処分だった。
治則は、ある事件の関係者の一人として処分を受けたのだ。
〈 ブチギレた父親が散弾銃を持って学校に乗り込もうとしたことも…架空パーティーのチケット販売で“慶応高校を即退学”になった「超エリート男性」のその後 〉へ続く
(西﨑 伸彦/ノンフィクション出版)
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