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「当選したらカネはいくらでも出しましょう」“伝説のアウトロー”が衆院選にまさかの出馬…戦後の東京に君臨した尾津喜之助の“大胆すぎる行動”

文春オンライン / 2025年1月26日 17時0分

「当選したらカネはいくらでも出しましょう」“伝説のアウトロー”が衆院選にまさかの出馬…戦後の東京に君臨した尾津喜之助の“大胆すぎる行動”

写真はイメージです ©アフロ

〈 アメリカ人には「日本のマフィアのボス」と呼ばれていたが…戦後の東京に君臨した“伝説のアウトロー”尾津喜之助が「東京商工会議所」を設立した経緯 〉から続く

 戦後新宿の闇市でいち早く頭角を現し、焦土の東京に君臨した“伝説のテキヤ”尾津喜之助。アウトローな人生を歩んでいた彼は、どのようにして「街の商工大臣」と称されるようになったのか?

 ここでは、ノンフィクション作家のフリート横田氏が、尾津喜之助の破天荒な生涯を綴った『 新宿をつくった男 戦後闇市の王・尾津喜之助と昭和裏面史 』(毎日新聞出版)より一部を抜粋・再構成して紹介する。(全2回の2回目/ 1回目 から続く)

◆◆◆

戦後の交通問題解消を図った「尾津な輪タク」

 昭和22年が明けても、東京の混乱は収まらない。

 いまだ交通事情は最悪で、省線電車も都電も殺人的満員状態。これを解決する手はなにかないか――。

 実は前年の頭、尾津は自転車の後ろに座席と車をつけて人を乗せる自転車タクシー、「輪タク」をやってはどうかと思いついていた。

 思いついたらすぐに動き出す男だから、営業許可をとろうと行政機関各所を回り始めたが、たらいまわしになるばかりで、全然らちがあかない。困った末に青果業者のドン、盟友の大澤常太郎に相談すると、時の厚生大臣河合良成に面会できることになった。

 大臣に一通り現状と打開策を説明すると、一挙に許可が出た。尾津が奇策を次々に、身勝手にやる無法者のように後世捉えられがちだが、自分の資金力・人脈を背景にこうして権力側に接近し、強引にであっても合法化してコトを起こそうとしていたスタイルは見逃してはならない。

またたく間に200台をこしらえた尾津の財力

 物のない時代にオリジナルで乗り物を作るわけだから、一般の起業者なら材料入手に苦労するところだが、そこはテキヤだけにお手のもの。旧軍のデッドストック品だろうか、ジュラルミンを大量に見つけてきて、自動車工場へ持ち込み、またたく間に200台をこしらえた。

 当時のカネで1台2万円だったという。本人談によるから、いささか数字は誇張を感じるところがあるが、尾津に財力があったことはわかる。

 曳き子は露店と同様に、戦災者、引揚者をつのった。交通機関復旧の一助を狙うだけでなく、やはり都内に溢れる弱い立場の人々を救おうとしたのだった。面白いのは、曳き子には職を斡旋するのと同時にもう1つ、ボランティア活動を課したこと。

 月に1回、東京の復興を助けよ、ということで、日比谷公園や皇居前広場などの清掃をさせたのだった。200台もタクシーを用意したのは、新宿にとどまらず都内広く事業を展開しようとしたため。上野、池袋、日本橋にも支店を設けた。一区間(たとえば新宿・四谷間)の料金は10円。

テキヤとは思えぬアイデアマンぶりを発揮

 そして、コピーライター的才能をまたも輝かせる尾津。タクシーの名は、

 ――オツな(尾津な)輪タク――

「光は新宿より」を掲げマーケットを開き、無料診療所や無料葬儀屋をはじめ、今度もまた掴みはOKのコピーを掲げつつ輪タクまで始めるに及び、テキヤとは思えぬそのアイデアマンぶりに、尾津にはブレーンとして、マスコミの帝王といわれたジャーナリスト、大宅壮一がいるのではという噂がたつほどであった。

 こうして2月20日、尾津な輪タクは都内を走り出した。物事が前へ前へと走り出すときこそ、足をすくわれる。翌月、尾津の表情はまた暗く、重苦しくなる。

 3月19日、尾津は新宿マーケットの土地問題にからみ、東京区検に身柄非拘束のまま書類送局(送検)されてしまう。それでもこれで土地問題はカタがつくのでは、と踏んでいた。尾津側の弁護士には、政治団体をやっていたとき諫めてくれた米村嘉一郎がついた。あの赤化防止団の総帥だった人物である。

突如として、衆院選出馬を表明

 翌4月、尾津は突如として、あまりにも意外な、世間も驚く一手を指す。戦後2回目を数えた衆院総選挙に、なんと東京1区から出馬を表明した。同区には浅沼稲次郎、野坂参三ら、名の通った政治家がいた。

 読者にとっても唐突な印象を与えたと思うが、同時代の同業者をもう少しゆっくり見回してみると、必ずしも突飛な行動とはいえない。

 実はテキヤが政治進出していくのは珍しくなく、東京でも区議や都議へと転身した親分は何人もいる。たとえば蒲田駅前のマーケットを仕切った醍醐安之助は、テキヤ組合の蒲田支部長をつとめ、蒲田駅前のマーケットの差配や人夫出しを行う親分だったが、尾津の国政出馬と時を同じくした昭和22年に都議会議員選挙に出馬、初当選している。

 のち11期42年にわたり都議を務め、昭和39年には都議会副議長に就任、昭和東京五輪の実行委員もつとめ、昭和48年には第24代議長にまで栄達した。あの石原慎太郎をバックアップしたことでも知られる。

 新宿の大親分として並び称された安田組の安田朝信も自由党系の新宿区議会議員を3期つとめている。尾津は安田の向こうを張り、「やつが区議なら俺は国会に打って出る」と考えたのだろうし、選挙戦を制す勝算も十分に持っていた。

自由党、民主党、社会党から続々とラブコールがかかり…

 露店組合のリーダーに就任して話題を集め、時の人になっていたからだ。すでに政治家に知己も多く、なにより相当のカネを持つとみられていた尾津は、出馬より少し前、保革両陣営から熱心な勧誘を受けてもいた。

 自由党、民主党、社会党から続々とラブコールがかかり、まず自由党は大野伴睦らが寄付金と党公認をひきかえに口説きにきた。現在の感覚では信じがたいことだが、大野と尾津は兄弟分の盃をかわしてさえいた。三田の料亭へ呼ばれて出向くと、大野らのほかに石橋湛山も席についていた。尾津の表情が曇る。石橋に対しては苦い思い出があった。

 終戦後、尾津の子分のひとりが大久保に傷痍軍人の授産所(身体障害者への就労支援施設)を建てた。そこへ石橋がやってきて演説をしたのだが、これが長かった。自由党の政治に不満があった尾津は、あおざめた顔の元兵士たち大勢の前で、現実感のない正論を述べ続ける石橋に腹が立ってきた。

 悪い癖が出る。

「言ってることとやってることが違う」

 政治家先生を相手に、公衆の面前で癇癪玉を爆発させてしまった。このときの苦い記憶は尾津のなかで「借り」となって残っていたし、ほかの有力者に熱心に懇願されたこともあり、無所属で立つつもりが、自由党からの出馬を決めてしまう。

「カネは当選したらいくらでも出しましょう」

 ……と本人はのちに語っているが、筆者は尾津の権力志向とリアリスト感覚が自由党入党の決め手ではと想像している。リベラルな感覚を持つ尾津だったが、なにか事を成すには力がなければならない。それには自由党しかないと判断したように思う。

 自由党の大物たちを前に、それでも釘をさしておいた。

「カネは当選したらいくらでも出しましょう。その前には一文とて献金しません。カネで公認を買ったといわれたくないですから」

 言われたくなくても散々に当時そう噂されたが、ついに入党は果たした。選挙戦がはじまるや、ほうぼうで街頭演説に回り、それは見事な演説だったと言われる。尾津を糾弾したニューヨーク・ポスト記者ベリガンでさえ、自分の耳でたびたび聞いた尾津の弁舌をこう評している。

〈その演説は世界各国の政治家の演説の中でも最もまじめなものであったと言わねばならない。〉

投票日、まさかの無所属扱いになっていて…

 そしてやってきた投票日。尾津に到来した青天の霹靂。なんとどこにも自由党公認の文字がなく、無所属扱いになっているではないか。各方面から「自由党のはずが、話が違う」と苦情が殺到してもあとの祭り。

 そういえば選挙期間に自由党大物の応援演説は一切なく、吉田茂から激励電報が1本届いたのみだった。関係者を通じ訂正が完了したときにはすでに昼をまわっていた。結局、2000票差で尾津は落選した。カネを出さないテキヤの親分は、切って捨てられた。

 選挙対策の事務長だった元上野警察署長石森茂は告訴するとまでいって泣いて怒り狂い、尾津の子分のひとりは、野原組(選挙協力をし、おそらくなんらかの見返りの約束があったか)の某に斬られる事態まで発生した。

 尾津はこんなに熱い子分たちを持って「幸せだ」と半ば強がって言ったものだったが、後世の筆者の視点でいえば、投票した当時の庶民の眼力は誤っていたとまでは、どうも思えない。

 ちなみに石森はのちに尾津商事重役ともなる。元淀橋署長や元上野署長をおのれの会社の幹部につけている尾津。天下り先を用意した親分と警察との馴れ合い、癒着は相当にあったと想像できる。

(フリート横田/Webオリジナル(外部転載))

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