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「おまえ、シャブやっとんのか?」「あ、は、はい…」ついには仲間を殺しかけたことも…“伝説のポン中”と呼ばれた元ヤクザ組長が「覚せい剤を卒業できた理由」

文春オンライン / 2025年1月26日 17時0分

「おまえ、シャブやっとんのか?」「あ、は、はい…」ついには仲間を殺しかけたことも…“伝説のポン中”と呼ばれた元ヤクザ組長が「覚せい剤を卒業できた理由」

若かりし頃の竹垣悟氏(写真:本人提供)

〈 【ヤクザとシャブ】「殺せ、殺せ、殺せ」幻聴で仲間に刃を向けたことも…“ヒロポン狂い”だった元ヤクザ組長が明かす「違法薬物のヤバい症状」 〉から続く

 天の声「相手を殺せ、殺せ」と常にささやいてくる…かつて覚せい剤にハマったことで、そんな幻聴に悩まされるようになった元山口組系組長の竹垣悟氏。ついには仲間にまで刃を振るうように。症状がどんどんエスカレート中、違法薬物からどうやって脱出したのか? 新刊『 極道ぶっちゃけ話「山口組四代目のボディガード」の半生記 』(清談社Publico)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/ 最初 から読む)

◆◆◆

天の声が「殺せ……」とささやいてくる

 覚せい剤を使っていたころ、ある日突然、誰かが耳元で「大木を殺せ……」とささやいた。

 大木とはヒロポンを段取りしてもらっていた兄弟分である。

 私はこれを「天の声」だと思い、大木にドスを持たせ、私もドスを持った。事情を飲み込めずポカンとしている大木に対して、私は躊躇わずに大木の頭を削り、メッタ斬りにした。

 まるで漫画のようだが、ここがヒロポンの恐ろしいところで、自分の行動をコントロールできなくなるのである。

 ひたすら凶暴な男となってしまい、当時はまだ街にいた野良犬たちも、ヒロポンを打った私のそばには近寄らなかったぐらいだ。

 覚せい剤を打つと、頭のなかで「相手を殺せ、殺せ」と悪魔がささやき続け、私は狂犬どころではなく、悪魔の申し子のようになってしまう。

 いま思い出せば恥ずかしいかぎりなのだが、そんな若者だった。

 戦後の実在のやくざで、渡哲也主演、深作欣二監督で映画化された『仁義の墓場』の石川力夫をイメージしてもらうといいかもしれない。もともと凶暴だったが、ヒロポンに体を侵され、自分の親分や兄弟分にまで斬りつける始末である。若かった私は石川に憧れ、石川のように死にたいと思っていたのだから、始末に負えない。

 石川は服役中に府中刑務所の屋上から飛び降り自殺している。享年30であった。

 辞世として「大笑い 三十年の 馬鹿さわぎ」と残している。もうこんなムチャクチャな男は出てこないだろう。

 こんな私が覚せい剤をやめられたのは四代目の忠告があったからだ。

 大切な人や守るものがあれば、薬物はやめられると思う。

 田岡三代目は、「麻薬に手を出した者は即刻破門だ!」とし、妻のフミ子姐さんは本家に座敷牢をつくった。姐さんにとって麻薬患者の苦しみは、すなわち自分の苦しみだったのだ。

 これも若い者への愛である。〈だれが好んでそんなつらい思いをするものか〉と三代目は自伝に書いている。三代目は1963年に右翼の田中清玄や立教大学の松下正寿総長、作家の平林たい子の各氏に呼びかけて「麻薬追放国土浄化同盟」も結成している。

 なぜ、三代目がこうした活動をするのかというと、三代目が評価していた大西という若い者がヒロポンの虜になり、つぶれてしまったことがあったのだという。この大西はなかなかの器量で、山口組にとっては惜しい人材だったのだ。

「○□×▽……」喋るのもままならない

 ある日、私がヒロポンを打って狂っていると、「竹中組三羽烏」の平尾光と笹部静男、そのほかの竹中組の幹部クラスがひとりずつ私のところにやってきたことがあった。

「兄弟……」

「おう……なんや?」

「シャブはやめるよう親分(四代目)が言うとるで……」

「○□×▽……」

 私は頭が飛んで狂っていたので、不気味な返事しかできなかったようだ。覚えていないが、後日、そう聞いたのである。

 それからまた何日かあとに竹中組総会があり、親分に挨拶した。

「悟……」

「はい?」

「おまえ、シャブやっとんのか?」

「え? あ、は、はい……」

ヒロポンをやめられた「恩人の言葉」

「俺の親分である田岡一雄が覚せい剤はやめとけ言うているのに、若い衆である俺がかまへんと言えると思うか?」

「はい……」

「悪いことは言わんから、覚せい剤みたいなしょうもないもんはやめとけ」

「はい……」

 そのときに大西の話を聞いたのである。

 私はそれからしばらくしてヒロポンをやめた。

 私がヒロポンをやめてから三十数年がたつが、当時の私を知っている者に「竹垣はまだシャブをやっている」と陰口をたたかれている。

 まあ、以前はポン中だったのだから、しかたない。

 あのころの姫路には私の右に出るポン中はいなかっただろう。そのくらいムチャクチャをやり、竹中組では「伝説のポン中」だった。

 こんな私を、竹中正久という親分は心底慈しんでくれたのである。

 いまも本当に感謝している。

(竹垣 悟/Webオリジナル(外部転載))

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