『小さな恋のメロディ』の美少女トレーシー・ハイドに夢中になって、授業中ずっと彼女の絵を描いていた中学時代
文春オンライン / 2025年2月2日 6時0分
今関あきよし監督 ©藍河兼一
いま日本映画界を第一線で支える映画監督たちには、8ミリ映画を自主制作し、才能を見出され、商業映画にデビューした者たちが少なくない。そんな監督たちに自主映画時代を振り返ってもらう好評インタビュー・シリーズの第9弾は、今関あきよし監督。学生時代からともに上映会を催した先輩に、自身も自主映画出身監督である小中和哉氏が聞く。(全4回の1回目/ 2回目 に続く)
◆◆◆
今関あきよし監督は、学生時代からよく知る8ミリの先輩。手塚眞さんたちと一緒に上映会をよくやっていたが、その仲間の中で最初にプロの映画監督としてデビューしたのが今関さんだった。今関さんに自主映画の頃のことを振り返っていただいた。
いまぜき・あきよし 1959年生まれ。学生時代『ORANGING’79』がぴあフィルムフェスティバル(PFF)で大林宣彦監督の推薦により入選受賞。23歳で富田靖子初主演の劇場映画『アイコ十六歳』でプロとしての監督デビューを果たす。以後、『グリーン・レクイエム』『十六歳のマリンブルー』『ツルモク独身寮』『すももももも』『タイム・リープ』など、ティーンエイジアイドルなどを中心とした映像作品を監督。活動休止期間を経てチェルノブイリの悲劇を描く『カリーナの林檎~チェルノブイリの森~』、ウクライナの神秘的な緑のトンネルを舞台にした映画『クレヴァニ、愛のトンネル』などを発表。近年は『釜石ラーメン物語』『青すぎる、青』『顔さんの仕事』『しまねこ』など旺盛な創作活動を行っている。
カルチャーショックだった『小さな恋のメロディ』
――映画ファンになったきっかけになる映画はありましたか?
今関 姉が洋楽や洋画が好きで、『小さな恋のメロディ』という、トレーシー・ハイドとマーク・レスターが出ている映画は面白いから観ろと。渋々行ったら、カルチャーショックでしたね。だって、小学校高学年ぐらいの年の子が恋愛をして、「僕たちは結婚します!」とか言って、大人に反抗して、先生たちが止めるのに自分たちで隠れて結婚式をする。まあ、かわいい反抗映画でもあったんだけど。ビー・ジーズとかが音楽をやった音楽映画でもあって音楽とか、イギリスのロンドンの風景とか、あとはカルチャーですね。出てくるものが、食べ物含めて、なんかすごいなとひたすら思った。
――いくつの時ですか?
今関 中1ですね。ヒロインのトレーシー・ハイドに夢中で、僕にとってはアイドルというか、授業中、トレーシー・ハイドの絵をずっと描いてた。トレーシングペーパーでまずなぞって、それを写して、それから影を付けたり色を付けたりしてほぼ一日過ごしている男の子でしたね。
8ミリ仲間との出会い
――8ミリカメラとの出会いというのはいつだったんですか?
今関 8ミリは高校に入ってからですね。日大豊山高校という男子校だったんですけど、そこで宮崎巌(注1)という、後にぴあ(PFF)に入選した人と出会った。僕は写真が好きで、映画より先に親父のカメラで近所の風景とか子どもたちを撮ったりしていた。それで、「今関はカメラがうまいんだから、8ミリのカメラをやってくれ」と言われて、宮崎君が監督をした。その時、「俺の友達にも映画好きなやつがいる」と紹介されたのが小林弘利君(注2)なんです。
――そこで小林さんと知り合ったんですね。
今関 実は小林君は小学校からの友人ではあったんですよ。でも映画ファンじゃなくて、車が好きで、車の発表試乗会に2人で行ったりしてた。免許もないのにね。その小林君がいつの間にか映画が好きになっていた。その3人で作ったグループが、騎士倶楽部(ナイトクラブ)。そこで8ミリを撮るようになって、それが最初ですね。
――最初は宮崎さんが監督をして。
今関 そうです。宮崎君はゴダールとかアラン・レネ、黒木和雄、そうしたアート系が大好きだった。僕や小林君は元々怪獣映画が好きだったので、「なんだそれ」と思いながらも、ゴダールの短編映画とか、普通観ないような映画をいっぱい紹介されて観て。刺激的な時間を過ごしましたね。
初監督作は日常のスケッチ
――自分で監督もやったんですか?
今関 小林君と僕で、ドラマじゃなくて、毎日日常を撮ろうと。高校に通っている行き帰りで、きれいだなと思う夕焼けを撮ったり、かわいいなと思う女の子をちょっと遠めから撮ってみたり、スケッチで撮っていたんです。1年弱、ちょっとずつちょっとずつ撮って、「フェスティバル」というタイトルでまとめた。最初と最後ぐらい映画っぽくしようと、小林君に千葉の海に入ってもらって、海の中から制服姿でカバンを持ってビジャビジャになりながら出てくるのを撮った。そこから始まって、高校時代を圧縮したいろんなモンタージュがあって、最後、また制服で海の中に入っていく。それが処女作。共作ですけどね。
――出発点から小林さんとコンビだったんですね。
今関 そうです。高1、高2あたりですね。
――高校の時は他にも監督作があったんですか?
今関 宮崎君は劇映画、僕と小林君はスケッチ風の短編を撮ってました。風で揺れているカーテンがあったら、いいなと思って、そのカーテンをずっと撮っているだけの映画とか。実験映画とかではなく、スチールの動くものという感覚。きれいな光があったらそれを撮ってみた。キラキラする湖を撮ったり。映画というよりもスケッチ。だからどうしたという感じですけど、それが楽しかったです。
――日大芸術学部に進もうとは思わなかったんですか?
今関 思いました。日大豊山は付属校だから比較的行きやすいんですけど、一回下見に行ったんですよね。そうしたら、変わった人がいっぱいいて。僕らが着ないような変な服を着ている。この変わった感じはちょっとついていけないなと思って。本気でやるという気分でもなかったし、プロ志向でもないし。全く興味なかったんですけど、日大の経済学部に入学しました。
――普通に就職をするための学校としての選び方ですね。
今関 そうそう。だけど、大学に行くって嘘をついては映画館に通っていた。ただ、1年目にもう飽きちゃって。学費がもったいないし、やめるって親に宣言して、専門学校に入りました。東京写真専門学校(現・東京ビジュアルアーツ・アカデミー)に映画学科があって。既に映画を撮っていた身としては物足りないぐらい基礎から始めちゃうのでやや白けつつも、でも堂々と映画を撮れる態勢になったから、短編を撮ったり、ちょっとドラマっぽいのを撮ったりとかしてました。
『HOUSE/ハウス』を巡って仲間と決裂
――『ボーイハント』(1978)はその頃の作品ですか?
今関 そうですね。専門学校に入ってフラフラしている頃に、小林君が劇映画をやろうということで作った。宮崎巌君とは決裂して、絶縁状をいただきまして。
―― 何でそんなことになったんですか?
今関 大林(宣彦)監督の『HOUSE/ハウス』を僕らは偶然観て。当時の僕や小林君からすると『HOUSE』という映画はどっちかというと観ない系だったんですけど、文芸坐で『悪魔の手毬唄』と2本立てだったんですよ。それで入ったら、『HOUSE』のエンディングだったんです。最後、コマ抜きコマ落としで池上季実子が公園でたむろってる、そこにエンドロールが流れる……後から聞いたら大林さんがテストフィルム的に池上季実子を撮影したものらしいんだけど。あれを観て、「なんだこりゃー!?」と衝撃的な出会いがあった。小林君もその頃に観てすごく面白いとなって、それを宮崎君に言ったら、「あれは映画じゃない。ふざけるな。お前らとは絶交だ! あの映画を好きと言うやつらとは、もう映画は撮らない」と言われて。
――踏み絵だったんですね(笑)。
今関 絶交状を作文用紙3~4枚もらいました。「『HOUSE』を好きだと言う君たちとは一緒にいたくない」という絶交状。絶交状って珍しいでしょう。宮崎君はそういうちょっととんがった人だった。それで、じゃあ僕らで撮ろうとなった。日大豊山の後輩の湯本裕幸くんも入れて、じゃあエンターテインメントっぽいのをやってみようよというのが『ボーイハント』のスタートですね。
――それでムービーメイト100%(注3)ができた。
今関 そうです。宮崎君はカット割りも演出も普通にできたけど、僕らはカット割りのカの字も知らないのに見様見真似で映画を撮っていた。『ボーイハント』の中でアニメーションが出てくるんですけど、後に漫画家になった藤原カムイくんがやっているんです。藤原カムイ君は出演もしてます。
手塚眞との出会い
――その頃に成蹊高校の文化祭に来たんですね。
今関 そう。『ボーイハント』ができて上映しようとした時、1本だけだとちょっと弱いからもう一本、僕らと毛色の似たかわいらしい併映作を探そうと、『ぴあ』の自主映画欄を探っていくと、成蹊高校で『FANTASTIC★PARTY』というかわいいタイトルの作品があった。湯本と僕と小林君で行ってみたら、面白かったんですよ。当時はもちろん手塚眞という監督も知らなかったんだけど、クオリティも高いし、はっきり言って僕らよりも上手い。見終わった後に、これを撮った人に会いたいと言ったら、「僕です」と眞が出てきた。それで、「一緒に上映会をやらないか」というのがスタートです。
――そこに僕もうろちょろしてたんですよね。
今関 そうです。利重剛とか小中とか。
――『ボーイハント』の内容を説明していただいていいですか。
今関 『ボーイハント』は、結構真面目な女の子が主人公で、モテなくて、夏なのに恋もできなくて、海に行ってボーイハントしようと思う。でも、奥手なのでできなくて、ずっと一日ビーチで椅子に座っている。そうすると、いろんな変わった人たちと出会うわけですよ。同じようにボーイハントしに来た女の子組とか、落ち込んでいた男の子の話を聞いてあげたり。出会いと別れの中で、彼氏はできなかったけど、いろいろ感じることができたという、ひと夏の青春ドラマ。
――小林さんが監督でしたね。
今関 そう。小林監督脚本です。当時流行っていたように、『ぴあ』でキャスト、スタッフとか募集したら、出演者が結構いっぱい来て、そこから選んで、という感じですね。
――今関さんはカメラ。
今関 そうです。あれはスーパー8で撮っているんですよ。ニコンのR10かなんかを借りて。
◆
注釈
1)宮崎巌 『いつか見た楽園』(1982)でPFF入選。
2)小林弘利 脚本家。『星空のむこうの国』『「二人が喋ってる。』『江ノ島プリズム』など。ライトノベルの小説作品も多く手掛ける。
3)ムービーメイト100% 今関あきよし、小林弘利、湯本裕幸らで結成した自主映画グループ。
<聞き手>こなか かずや 1963年三重県生まれ。映画監督。小学生の頃から8ミリカメラを廻し始め、数多くの自主映画を撮る。成蹊高校映画研究部、立教大学SPPなどでの自主映画制作を経て、86年『星空のむこうの国』で商業映画デビュー。97年、『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』でウルトラシリーズ初監督。以降、監督・特技監督として映画・テレビシリーズ両方でウルトラシリーズに深く関わる。特撮、アニメーション、ドキュメンタリー、TVドラマ、劇映画で幅広く活動中。主な監督作品に、『四月怪談』(1988)、『なぞの転校生』(1998)、『ULTRAMAN』(2004)、『東京少女』(2008)、『VAMP』 (2018)、『Single8』 (2022)、『劇場版シルバニアファミリー フレアからのおくりもの』(2023)など。
〈 来てくれた女の子にヒロインを頼んで出演してもらい……黒沢清監督や山本政志監督も来場した自主上映会から数多の映画監督が生まれていった 〉へ続く
(小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル)
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