「ストップをかけたのは警視庁のトップです」その日、捜査員も検事もみんないなくなった…伊藤詩織が“ブラックボックス”の片鱗に触れた日
文春オンライン / 2025年1月27日 7時0分
伊藤詩織さん ©文藝春秋
ジャーナリストの伊藤詩織氏が監督を務めた「Black Box Diaries」が、2025年1月、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞の候補になった。同賞のノミネートは、日本人では初めて。
ジャーナリストの伊藤詩織氏が元TBS記者の山口敬之氏から性暴力を受けたとして損害賠償を求めた裁判は、2022年7月、高裁に続き最高裁も「同意のない性行為」だったと認定し、山口氏に対し332万円の賠償命令を下した。一方で、事件後に伊藤氏が公表した内容の一部が名誉毀損などに当たるとして、伊藤氏に55万円の支払いを命じた。
合意があったとする山口氏の供述は最終的に「信用できない」と退けられたが、ここへ至るまでの道のりは、決して平坦ではなかった。
性暴力にあった自身の経験を克明に綴った伊藤詩織氏の著書『 Black Box 』より一部を抜粋。山口氏の逮捕予定の日、突然逮捕に「待ったがかかった」と伝えられた伊藤氏と、捜査員A氏とのやり取りを紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)
初出:文春オンライン 2022/03/08
◆◆◆
山口氏の帰国に合わせ、成田空港で逮捕する、という連絡が入ったのは、6月4日、ドイツに滞在中のことだった。「逮捕する」という電話の言葉は、おかしな夢の中で聞いているような気がして、まったく現実味を感じることができなかった。
「8日の月曜日にアメリカから帰国します。入国してきたところを空港で逮捕する事になりました」
A氏は、落ち着きを見せながらも、やや興奮気味な声で話した。逮捕後の取り調べに備えて、私も至急帰国するように、という連絡だった。
私はこの知らせを聞いて、喜ぶべきだったのだろう。
しかし、喜びなんていう感情は一切なかった。電話を切った途端、体のすべての感覚が抜け落ちるようだった。これから何が待ち受けているであろう。相手から、彼の周囲から予想される攻撃を想像すると、どっと疲れを感じた。
少しずつ自分の生活を取り戻しつつあったところで、またこの事件に引き戻された。
しかし、気持ちを立て直さなければならない。事実が明らかになる時が来たのだ。私は仕事を調整し、帰国できるチケットを探し始めた。A氏はこれまで、「疑わしきは罰せず」と繰り返し私に言った。「疑わしいだけで証拠が無ければ、罪には問えないんですよ」と。
それが、裁判所から逮捕状請求への許可が出るところまで、証拠や証言が集まったのだから、大変心強いのは事実だった。
衝撃の電話
この電話から4日後、逮捕予定の当日に、A氏から連絡が来た。もちろん逮捕の連絡だろうと思い、電話に出ると、A氏はとても暗い声で私の名前を呼んだ。
「伊藤さん、実は、逮捕できませんでした。逮捕の準備はできておりました。私も行く気でした、しかし、その寸前で待ったがかかりました。私の力不足で、本当にごめんなさい。また私はこの担当から外されることになりました。後任が決まるまでは私の上司の〇〇に連絡して下さい」
驚きと落胆と、そしてどこかに「やはり」という気持ちがあった。質問が次から次へと沸き上がった。
なぜ今さら? 何かがおかしい。
「検察が逮捕状の請求を認め、裁判所が許可したんですよね? 一度決めた事を何故そんな簡単に覆せるのですか?」
すると、驚くべき答えが返ってきた。
「ストップを掛けたのは警視庁のトップです」
そんなはずが無い。なぜ、事件の司令塔である検察の決めた動きを、捜査機関の警察が止めることができるのだろうか?
「そんなことってあるんですか? 警察が止めるなんて?」
するとA氏は、
「稀にあるケースですね。本当に稀です」
とにかく質問をくり返す私に対し、
「この件に関しては新しい担当者がまた説明するので。それから私の電話番号は変わるかもしれませんが、帰国された際は、きちんとお会いしてお話ししたいと思っています」
携帯電話の番号が変わる?
A氏はどうなるのだろうか?
「Aさんは大丈夫なんですか?」
「クビになるような事はしていないので、大丈夫だと思います」
「全然納得がいきません」
後は、A氏はひたすら謝り、私が何を聞いても、「自分の力不足という事で勘弁して下さい」と言うだけだった。
「納得が出来ません」
今まで私は、何度かA氏に、
「そこまで捜査に口を出すなら自分でやってください、警察なんていらないでしょ?」
と言われ、それからは警察に頼んだのだから、絶対的な信頼をして協力をしようという姿勢を見せてきた。そうしなければ、やる気を失われ、とり合ってもらえなくなると身をもって感じたからだ。
しかし、ここまできたらもう、そんなことはどうでもよくなった。
「全然納得がいきません」
と私が繰り返すと、A氏は「私もです」と言った。それでもA氏は、自分の目で山口氏を確認しようと、目の前を通過するところを見届けたという。
何をしても無駄なのだという無力感と、もう当局で信頼できる人はいないだろうという孤独感と恐怖。自分の小ささが悔しかった。今までの思い、疲れが吹き出るかのように涙が次から次へと流れ落ちた。
よく聞くと、A氏は逮捕が止められた理由について、何も聞かされていないのだという。それでは新しく担当になる人も同じなのでは? と言うと、「そうだと思う」という返事だった。
A氏はこの2ヶ月間、ものすごく多くの時間を割いてこの事件について調べ上げ、私の主張と上からのプレッシャーに挟まれながらも、最後まで頑張ってくれた。今さら誰が代わりになるというのだろう? また振り出しに戻り、新しい捜査員に同じ話を何度もすることになるのだろうか。
戦友と突然別れるような気持ち
お互いに言い争うこともあったが、A氏は懸命に捜査を続けてくれていた。その人が担当を外れることは、逮捕が取り止めになったことと同じくらい、私にとって大きなショックだった。
彼は電話で最後にもう一度、
「力不足でごめんなさい」
と言った。私の口からは、
「本当にありがとうございました。お疲れ様でした。これからもお体に気をつけて」
という以上の言葉が出なかった。また、この事件のせいでA氏の仕事に影響を与えたことをお詫びして、電話を切った。一被害者、一捜査員という立場で今まで相当ぶつかり合ったが、戦友と突然別れるような寂しい気持ちになった。
言葉にできないあらゆる感情と共に、涙が溢れた。体の力が抜け、ベルリンの住宅街の道で一人途方にくれた。本当にすべての道を塞がれてしまったのかもしれない。私のような小さな人間には、もうこの目に見えない力に立ち向かうことすら許されないのだ、と感じた。
警視庁上層部の判断。
わかっていたことはそれだけで、これからも一捜査員、一被害者が真相を知ることはできないのだと思った。
担当していた検事も……
何か他のルートで調べる方法はないのか。
「どこに聞けばいいのだろう」そんな考えがぐるぐる頭を回った。
私はすぐに、泊まっていたドイツの友人宅に戻り、キッチンから電話をかけた。当時この事件を担当していたM検事に、話を聞きたかったのだ。
M検事あてに電話をかけると、「M検事はこの件から外れた」と、電話に出た人は言った。この人もだ。逮捕のストップがかかった当日に、この件を担当していたA氏も検事も、誰もいなくなった。
西日の強く差すキッチンで、野菜や果物がたくさん入ったバスケットを眺めながら、今すぐにでも真相を追求しに東京に戻るべきだと思いながら、一方で日本にいなくて良かった、と思った。
よく晴れたとても爽やかな日だった。いつもの曇りきったベルリンの空ではなく、天気だけは良かった。少なくとも、今日この街で電話を受けたことは救いになった。
帰国すれば、逮捕されなかった山口氏は、そのままTBS本社で働いているのだ。私の職場の目と鼻の先にあるビルであった。日本に帰ることそのものが嫌になった。
〈 「社会と戦ったりするより、人間として幸せになってほしい」両親の反対、妹との決裂、それでも伊藤詩織が会見を開いたワケ 〉へ続く
(伊藤 詩織/文春文庫)
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