テレビから流れてきた、悪夢を見てるとしか思えない映像…不肖・宮嶋が振り返る阪神大震災の記憶
文春オンライン / 2025年1月30日 6時10分
©宮嶋茂樹
昨年の元日、そして14年前の3月11日、午後2時46分どこで何をしていたか覚えていない日本人はいないであろうが30年前の1月17日を覚えている日本人は少なくなった。
テレビから流れてきた、悪夢を見てるとしか思えない映像
忘れもすまい、あの日は火曜日、30年前当時日曜日が締め切りだった週刊文春グラビア班では火曜日のカメラマンは休養日、ただ早朝5時46分直後、点けっぱなしのテレビから流れてきたニュース速報のただならぬ警報音の連続に一発で飛び起き、その後五月雨式にブラウン管に現れる、悪夢を見てるとしか思えん映像を横目に直ちに出動する。30年前のことである。情報が錯綜する中いまだ犠牲者数が一桁だったが、長田のあちこちから立ち上がる紅蓮の炎と黒煙やひっくりかえった阪神高速や元町のビル群の映像に、犠牲者数が倍々に増えるのだけは覚悟でき、背筋が凍りつく。
まだ携帯電話がそれほど普及していなかった時代、グラビア編集者の自宅に出動の打診の伺いをたてるも、「今週の入稿にまにあわないので、今から出ても無駄だから止めろ」という回答であった。制止を振り切り、いつも拙宅「つつみ荘」玄関に置いたままの「おはようセット」(標準機材と感材)を車に放り込み、即座に羽田に出発、羽田では同僚の大倉カメラマンと合流のうえ、JAL早朝便に飛び乗ったものの、なんと定刻で出発、約1時間後到着した伊丹空港ターミナルビルのあちこちにはすでに亀裂がはいり、それ以後、伊丹空港は閉鎖され、鉄路、陸路に続き、大阪への空路も途絶え、関東から神戸に向かうには途方に暮れるほどの時間と苦難を伴うこととなった。
火災現場にたどり着いた時は陽がとっぷり暮れていた
羽田で予約していた、空港レンタカー屋に残っていた最後の1台を借り上げ、すでに瓦礫の山と化して、混乱をきわめていた伊丹市の大渋滞を避け、裏六甲の山間部に、これまた崩落が始まった道路や通行止めとなったトンネルを避け、長田の火災現場にたどり着いた時はすでに陽がとっぷり暮れた午後6時を回っていた。
電気も上下水道も絶たれ、真っ暗なはずの現場はいたるところで地割れをおこし、破れたガス管から漏れ出たガスに引火し、割れた大地から青赤黄色の不気味な炎が噴き出し、立ち込めた異臭は人が近づくことを拒んでいるようであった。頼みの消防車も見えない、助けを求める声すらしない、ただボーボーと地獄の釜が沸き立つような音が周囲から聞こえるだけ。これまで数々の修羅場を経験し壮絶な現場を踏んできたカメラマンも思わず息をのんだ。
この日、午前5時46分に起きたM7.3の直下型地震により、私の育った町は瓦礫の下に埋まり、灰塵に帰した。
お邪魔虫でしかないが、記録することならできる
50年以上、地震も戦争も知らなかったこの関西で、よりによって平和な神戸が、私が遊んだ町が燃え尽きるさまは、しばし恐怖を忘れさせてくれた。
涙は現場を去ってから流せばいい。被災地ではカメラマンはお邪魔虫でしかない。しかし、記録することならできる。それが近い将来必ずやってくる災害に備える一助になるかもしれない。今はこの目の前の地獄絵図を撮ることに専念することだけが我らの使命である。それでも止まらぬ涙は立ち上がる黒煙と煤塵のせいだけではなかった。震災関連死や行方不明者も含め、犠牲者6400人以上。きっかけは天災だが、この犠牲者数は人災である。起こった時間帯が幸いしたのか、人口150万人以上の街々でこの数字は大きいのか小さいのか。私も滞在した、新ユーゴスラビア(当時)でNATO軍の2カ月に及ぶ空爆で出た民間人の死者が2000人である。それが、1日の地震でこの数字である。災害派遣のための自衛隊出動をためらった当時の村山富市首相が責任を問われることもなかった。
電話も通じず、闇に包まれた明石の実家に帰省
明石の実家にたどり着いたのは日付が18日に替わるころであった。電話も通じず、電気もガスも途絶え、闇に包まれた我が家に突然帰省してきた我が息子に父は恐る恐るドアを開けようとしたものの、震災のため家が傾いたのか、玄関を開けるのに、てこずった。
「母さんはどうした?」
いっしょにいるのがこの時偶然上京していた母でなく、大倉カメラマンと分り、父が震災後初めて人間に対し発した言葉であった。その時まで自ら現場に駆けつけることに専念していたので、母が杉並の拙宅「つつみ荘」に掃除に来たあと、横浜の叔母の家を訪れていたことをすっかり忘れていた。結局母が明石に帰れたのは2週間後新幹線も高速道路も崩壊した阪神間を避け、羽田から岡山まで飛行機で、それからバスで岡山駅に、そこからは在来線で明石まで帰ってきてからは、不安丸出しの母親を残し、1人帰省した息子はおおいになじられるはめとなったが、6400人の犠牲者とその遺族のことを考えたら母の不安なんぞは屁でもない。
機材を置くなり、小学生のころ同じソフトボールチームにいた同年輩のご近所さんを尋ね歩き、拝み倒してバイクを貸していただく。すでに渋滞が激しい被災地で4輪車は足手まといのうえ燃料調達の不安もある。自転車で明石から神戸まではちと時間もかかる。
真っ暗な我が家やが、つかの間の暖がとれ、翌朝、夜明け前には出発した。吹き曝しの風はまさにほほを切る冷たさである。この寒空の中焼け出され、不安な一夜を過ごした幾万の神戸市民の心身が案じられる。
震災発生後24時間後には再び長田にたどり着いた。明るくなるにつれ、見たくもない光景が広がり、この町が神戸市長田区だと理解するのにしばらく時間を要した。
瓦礫と灰塵の山と化した、ここ長田にも夜明けとともに音もなく、自衛隊員や警察官が現れ、生き残った住民もあちこちで、灰塵の山を掻き分けてはいまだ行方の知れぬ家族、友人の姿を探し求めていた。カチャリ、カチャリと大海で針を捜すごとく瓦礫を掻き分ける音だけが響くが、やがてそのほとんどは真っ黒に炭化したり、小さな骨という変わり果てた姿で発見され、そのたびに嗚咽が漏れる。
消え去ったアップライトピアノ
しかしそんな光景が広がるなか、ひときわ目を引いたのが誰が置いたのかまっさらなアップライトピアノであった。それにしてもシュールである。このまわりでまともに立っている家なんかほとんどないというのに、よっぽど大切な思い出があるのであろうか、それこそ火事場のなんとかで、運び出したのであろうか。しかしもっと不思議だったのは、この町内を一回りして戻ってくると、このピアノは煙のように消えてしまっていたのである。
このピアノに関しては後日談がある。日曜が締め切りだった週刊文春グラビア班だが、そのせいで1週間丸々かけて震災取材をつづけ、翌週には全24ページを使い震災の特集を組んだのやが、そこに掲載されたこのピアノの写真を見た同業者が私に疑念を抱いたのである。「なぜあれほどカメラマンが多くいた現場で宮嶋しかあのピアノを見てないのか」と。「宮嶋のことやから、撮ったあと他に撮られないよう火をつけたんちゃうか?」と。疑惑を持たれたまま10年後、震災10周年をくぎりに、故郷明石で写真展を開催したさい、この作品も展示されたが、主催していただいた地元明石のケーブルテレビがこのピアノの持ち主を捜し出してくれたのである。
そして会場でこの作品を直接贈呈させていただくことができたのである。ピアノが消え去った理由もこの時判明した。持ち主の方にとっても大切なピアノは燃えさかる家から命がけで持ち出したものの、そのまま避難所まで運びこむわけにもいかず、私が撮ったあと「泣く泣く自らの手でばらして処分」してしまったという。そしてこの作品だけがこのピアノとともに過ごした良き思い出を残してくれる、と額装されたこの作品を大切なもののように受け取ってくださった。写真家冥利に尽きる。
取材基地となった我が家
それからも神戸や淡路で取材を続け、倒壊を免れた明石の実家はインフラが復旧するにつれ(ホテルのある)大阪よりはるかに近いことから、次から次に文春記者らがやってきては取材基地と化した。地元川崎重工明石工場で定年を迎えていた父は昼間は姫路まで買出しにでかけては、夜帰ってきた記者らに食事まで提供した。
私はと言えば実家を離れ、臨時ヘリポートと自衛隊の臨時宿営地となっていた、子供のころ父母に手を引かれていった王子動物園のゴリラの檻のまえで、ゴリラが投げつける糞に怯えながら野営をつづけた。
そしてポートアイランド等、震災瓦礫臨時置き場が近かった神戸は復興が進み、2年後には週刊文春グラビア24ページぶち抜いて「祝・復興 神戸美女図鑑」と銘打った企画が掲載された。そこには2年前の悲しみを乗り越えた看護婦(当時)や女性警察官やミス神戸などに混じって、1月の誰もいない須磨海岸で2人のトップレス姿の風俗嬢も登場した。時代柄である。その美女たちもすでに60歳近くのはずである。
あれから30年
あの時闇の中我が家を守っていたものの、神戸まで在来線が開通するやビデオカメラ持参して長田に日参した父も、1人帰った息子を叱った母もすでにこの世にいない。30年とはそれほどの時間である。
あの30年前の震災で日本人は何を学んだのか、当時自治体からの要請がないと出動できなかった自衛隊はそれ以降部隊の自主判断で出動できるようになり、事実昨年元日の能登震災発生直後には地元金沢駐屯地始め、全国の陸海空自衛隊、警察、消防、海上保安庁がただちに駆けつけ、人命救助や復旧にあたっている。
また30年前は米軍から人員や物資輸送の洋上基地や病院船として空母の派遣を打診されながら、前例がないと村山富市首相がためらったり、「核兵器の有無を調べないと神戸入港を認めない」と神戸市の条例をたてに断わった港湾組合などの教訓から東日本大震災直後には「TOMODACHI作戦」が直ちに発動され、アメリカ陸海空軍、海兵隊から原子力空母まで被災地に派遣され、人命救助に復旧、復興に貢献したのもご存じのとおりである。
「革新」を名乗り、自衛隊との防災訓練をないがしろにして胸を張っていた神戸市はじめほとんどの自治体が自衛隊主体となった共同訓練に積極的となり、その成果は大いに役立っていることと信じたい。
撮影 宮嶋茂樹
(宮嶋 茂樹)
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