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「ママサン、ダイジョウビ」21歳アメリカ人男性が日本人主婦(46)を後ろから…国際問題に発展した“世紀の事件”のゆくえ

文春オンライン / 2025年1月31日 17時10分

「ママサン、ダイジョウビ」21歳アメリカ人男性が日本人主婦(46)を後ろから…国際問題に発展した“世紀の事件”のゆくえ

上毛新聞が掲載した事件の第一報

 戦後の日米関係を考えるとき、少なくとも防衛・安保の面では、日本がアメリカに対して従属関係にあることは間違いないだろう。それが「同盟国」の実体であり、その象徴が沖縄を筆頭にした在日米軍基地だ。国土への重圧は、最近も起きている米兵の日本人女性暴行事件などを引き金に、住民の怒りとなって爆発する。

 そのピークが1957(昭和32)年1月の「ジラード事件」だった。群馬県の演習場で21歳のアメリカ兵が、弾拾いに入り込んでいた46歳の農家の主婦を「ママサン、ダイジョウビ」とおびき寄せたうえ、後ろから撃ち殺した。国際問題に発展したこの事件は、どのような結末を迎えたのか。

 当時の新聞記事は見出しはそのまま、本文は適宜書き換え、要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全3回の1回目/ つづき を読む)

◇◇◇

「泣き寝入りしか仕方がない」

 事件の約2週間前、1957年1月18日の群馬県の地元紙・上毛新聞朝刊に次の見出しの記事が載った。「桃井村米軍演習場で事故が続發(発) 砲彈(弾)の破片で卽(即)死」

 17日に同県北群馬郡桃井村の32歳の男性が兄らと薪拾いの作業中、「飛んできた砲弾が頭上で炸裂。破片が背中から心臓を突き抜け即死した」。記事はこう述べ、次のように続く。

〈 被害者は演習場内でも特に危険な所に入っていた。演習のある日は絶対に立ち入り禁止になっている場所である。禁止区域の周囲には赤旗による表示があり、演習日には事前に各戸に連絡を行うなど、できるだけの措置をとっていながら、なお砲弾拾いの人たちがたくさんもぐりこんでいる。〉

 この時は薪拾いだったが、普段いかに弾拾いが多いかがうかがえる。上毛は同日付夕刊社会面トップで「命をカケて“彈丸拾い”」の記事を掲載。「演習日には100人以上の人たちが立ち入り禁止区域の演習場で弾拾いをする」と実態を書いた。命を張って弾丸を拾う人たちは零細農、引揚者らで、警察がいくら警告しても効き目がなく、社会問題となっていたという。

 そんな中で事件は起きる。ただ、1月31日付朝刊の第1報は上毛だけで、それも社会面4段という比較的おとなしい扱いだった。

第1報は「人妻が小銃弾に当たって即死」

人妻、小銃彈で即死 桃井地区 立入禁止区域で彈拾い


 30日午後1時ごろ、群馬郡相馬村広馬場物見塚、桃井基地相馬ケ原演習場の立ち入り禁止区域で弾拾いをしていた同村柏木沢新田上、農業・坂井秋吉さんの妻なかさん(46)が小銃弾に当たって即死したと、同所の男性が高崎署へ届けた。同署は午後5時、現地へ行政検視に向かった。


 この朝、なかさんは付近のおかみさんたち5~6人に誘われて弾拾いに行った。日ごろ、夫の秋吉さんに「村会議員をしている手前があるから……」ときつく止められていたのに、夫には内緒で時々出かけていたらしい。〉

 記事は「狙い射ちならあきらめられぬ」の中見出しを挟んで夫の談話になる。

〈 亡き母を慕って泣き叫ぶ幼子たちの間で秋吉さん(46)は「危険を承知で入ったのだから仕方がありません。ただ、残された子どもたちがかわいそうです。それにしても、狙われたものだとすれば、何か諦めきれないものがあります」と語っていた。だが、立ち入り禁止区域での出来事なので、泣き寝入りのほか仕方がないようだ。〉

 最後のセンテンスは記者の感想だろうか。同日付夕刊1面コラム「寸評」の「危ない演習場のタマ拾い、今年2人目の事故。命を的のアルバイト、算盤ダマに合いません」と重ねると、住民の日常的な立ち入りを「打つ手がない」と諦めているようにも思える。

 しかし、この事件は「泣き寝入り」にはならなかった。3日後の2月3日付朝刊では全国紙3紙も報じたが、やはり内容的に先行している上毛を見よう。

過去の事故死と異なり、さまざまな“疑惑”が浮上

なかさんは射たれた! 相馬ケ原演習地の事故死


 30日の事故については事態が異例のケースであることから、県警本部では1日、岡田刑事部長、下平捜査第一課長が米軍当局と事故原因究明のための協同捜査について打ち合わせする動きを見せた。2日は茜ケ久保代議士(内閣委員会委員、社会党)が問題を重視。現地調査に来訪し、「4日から始まる国会の内閣委員会へ問題を提出する」と語るなど、大きな波紋が広がってきた。


 過去に頻発した砲弾の破片による事故死と異なり、当日の演習はライフル(自動小銃)によるものであることから、さまざまな疑惑に包まれており、真相が判明すればかなり影響が大きいと予想される。県警は極秘に捜査を行っており、事態の成り行きが注目されている。〉

 ここまではリードだが、記事は中見出しを挟みつつ本筋に入る。

一米兵をMPが連行 目撃者五人で首実検


 この日、米軍は朝から演習を行っていた。午前は小銃の実弾射撃、午後から空包演習だった。事故の起こる少し前の午後2時ごろ、演習は終わっていた。死亡届により、管轄の高崎署が調べたところ、目撃者から「米兵に射撃された」との証言を得て事態を重視。県警本部と連絡し、本格捜査を開始した。〉

死体から出た薬キョウ


 31日、同署はなかさんの遺体を群馬大で解剖。背中から薬莢(やっきょう)*を摘出した。次いで2月1日、下平捜査一課長らは目撃者5人を伴って埼玉県籠原キャンプ(現熊谷市)に出向いて狙撃米兵を突き止めた。その結果、当初の過失致死の疑いは薄れ、殺人の疑いが濃厚となった。同署はさらに慎重に取り調べを進めている。〉

*弾丸の容器 

「文藝春秋」1957年11月号所収の石岡實「相馬ケ原の渦中から ジラード事件一捜査官の覚書」は群馬県警の初動捜査を描いている。実際に書いたのは当時県警本部長だった石岡ではなく、刑事部長の岡田三千左右で、事件の追及は彼の情熱によるところが大きいとされる。

司法解剖で「流れ弾に当たったのではない」と発覚

 同記事によると、発生は1月30日午後2時少し前で、米軍三ケ尻地区(現熊谷市)憲兵隊から県警捜査一課に連絡があったのは午後2時45分。「相馬ケ原演習場で女の変死体が発見された」という一報だった。自分(石岡)が事件を知ったのは翌1月31日午前。殺人に該当するかもしれないと指示していると同日午後、解剖結果が判明。夕方、岡田刑事部長らが現場を踏んだという。

 山本英政『米兵犯罪と日米密約「ジラード事件」の隠された真実』(2015年)はこの事件の詳細な研究だが、解剖執刀医に半世紀余り後にインタビューしている。

 それによれば、事件翌日の1月31日午前に行われた司法解剖では、「流れ弾に当たった」と聞いていたが、胸腔内に直径約1センチの筒状の金属が大動脈を突き破って留まっていた。引き抜くと、大人の小指大の真鍮製の薬莢だった。それが分かった時、立ち合いの警察官と米軍調査官は部屋を飛び出して行ったという。

『相馬ケ原の渦中から』は「2月1日までの3日間で事件解決の一応の地ならしはできた」と書く。それによれば2月2日、日本社会党の茜ケ久保重光代議士*が毎日、上毛両紙の記者を伴って石岡本部長を訪れ、徹底捜査を申し入れた。
*宮崎県出身で早稲田大卒業後、群馬県の鉱業所の所長などを経て日本社会党入りした政治家。事件当時は旧群馬1区選出で1期目。

 茜ケ久保は事件を知った経緯について衆院内閣委員会で「坂井なかさんの親族から電話で知らされた」と語っている。隣の選挙区選出だったが、基地反対闘争で名をはせており、いち早く乗り出してきたようだ。

 3日付上毛朝刊の記事に戻ろう。

“狙われて逃げた”目撃者の話


 当時の模様を目撃していた同村、農業・小野関秀次さん(30)*らは2日、次のように語った。

 

「30日午後2時すぎ、演習が終わって間もなくだった。物見塚の中腹で薬莢拾いをしていると、近くにいた米兵2人のうち1人が小銃弾の薬莢を約10個投げてよこした。私(=小野関さん)が拾っていると、後からなかさんが仲間に加わった。ふと気がついて見上げると、その米兵が小銃の先に空包の薬莢を逆さに付けて狙っていた。みんな驚いて、なかさんと逃げ出した。

 

 数メートル離れたとき、1発目が私の足元に落ちた。米兵は続いて2発目を込め、肩に小銃を当てて狙ったので夢中で逃げた。15メートルも来たころ、第2弾がなかさんの背中に当たり、どっと倒れた。すると狙った米兵がなかさんのそばに近づいて『ママさん、ママさん』と呼んで抱き起したが、なかさんは動かなかった。米兵が立ち去った後、なかさんのところまで行ったが、もう既に死んでいた」。〉

*引用者注:新聞の誤り。正しくは「英治」

 事実関係の大筋は分かるが、抜け落ちている事実もある。同年11月19日の前橋地裁判決では核心の場面はこう認定された。

「ママサン、ダイジョウビ」と言って壕に向かわせ…

〈 ジラードは坂井なかに対し、窪地の西端にある壕(砲弾でできた穴)を指して「ママサンダイジョウビ、タクサン、ブラス、ステイ」と言い、彼女にその壕に空薬莢が大量にあるから取っていいとの趣旨と理解させた。それによって彼女を壕に向かわせ、推定午後1時50分ごろ、持っていたⅯ-1小銃の銃先に装着していた手榴弾発射装置に空包小銃の空薬莢*を逆方向に差し込み、空包1発を装填したうえ、突然彼女に向かい「ゲラル ヘア」と叫んで威嚇すると同時に、小銃を携えたまま壕に向かって走り寄った。

 

 驚いた彼女が壕からはい上がり、そのまま北西の方向に逃げようとして走っていくのを、10メートル前後離れた背後から彼女の周辺を狙って空包を撃った。その空包のガス圧で空薬莢が発射され、意外にも彼女の左の背中の第七肋間部に命中。大動脈上部に達する長さ11センチの裂傷を負わせ、その失血で彼女を死亡させた。〉

*長さ約6.22センチ、底部の直径約1.19センチ

 状況がよく分かる。上毛の記事は続く。

〈 1日午後、目撃者5人は高崎署の刑事らに連れられて埼玉県籠原の米軍キャンプに行った。MP(陸軍憲兵)は30人ばかりの米兵を連れてきて首実検させた。一目でその米兵と分かった。鉄兜を目深に被ってはいたが……。その米兵はMP10人に守られて連れ去られた。

 

 坂井なかさんの夫・秋吉さんは、なかさんの遺体の前で「日本には基地が多い。基地に依存して生きている人もずいぶんいる。しかし、狙い撃ちされたのは今度が初めてだろう。もう少し人間らしい待遇をしてもらえないものだろうか」と言っていた。〉

 夫の言い分が控えめにすぎる気がするが、それには背景がある。朝日はベタ記事(1段見出し)で、記事の末尾に「立ち入り禁止区域に日本人が入れば、刑事特別法で懲役1年以下、罰金2000円以下の刑に処せられることになっている」と記した。

 毎日と読売には「狙い撃ちされたと断定せざるを得ない」との茜ケ久保代議士の談話が載っているほか、読売では同代議士は「日米行政協定に関する事案とし、国会の問題として責任の所在を明らかにしなければならない」と語っている。

米兵の犯罪のうち裁判が開かれたのはわずか2.8%

 日本の独立を目前にした1952(昭和27)年2月、前年の日米安保条約に基づき、在日米軍の基地や地位などに関する日米行政協定(現地位協定)が締結された。そこに規定された米兵の犯罪についての裁判権はアメリカの治外法権に近いものだったが、1953年に改定された。その運用について2月7日付上毛朝刊の「解説」(共同通信配信記事か)はこう書く。

〈 行政協定第17条によれば、米兵が公務中起こした犯罪については米側に、公務外の場合には日本側に裁判権がある。しかし、公務中か公務外かの認定が問題で、米軍が一次的な決定権を持つことになっている。もちろん、米側の決定に日本側が異議を申し立てることは自由で、最終的には日米合同委員会に持ち込んで決定する。〉

 だが『米兵犯罪と日米密約』によれば、1953年9月から1956年11月に発生した米兵の犯罪1万4000件以上のうち、日本で裁判が開かれたのは391件。全体のわずか2.8%ほどで、「日本が97%もの裁判権を放棄しているのは尋常ではない」(同書)。つまり協定の“建前”とは別に、現実には治外法権とそれほど変わらないのが実態だった。

「スズメのようにパンと」

 3日付上毛夕刊「寸評」に次のような短文が載った。「弾拾いのおばさんがスズメ並みに撃ち殺された。餌をまいて呼び寄せてパンと一発」。被害者をスズメに例えた、その鮮烈なイメージが多くの日本人の潜在的な対米感情に怒りの火をつけたのかもしれない。

 約2週間前の桃井村の現場も今回も同じ相馬ケ原演習場だった。『榛東村誌』(1988年)によると、明治の終わりから陸軍の演習場となり、戦後は米軍が接収。6カ町村にまたがる2330ヘクタールに拡大した「キャンプ・ウエアー」として、さまざまな火器、戦車、ヘリコプターなどを使った実弾訓練を大々的に展開した。1952(昭和27)年の日本独立後も、安保条約と行政協定でそのまま在日米軍に提供されていた。( 中編に続く )

〈 「日本の女を狙い撃ち」「生きている人間をマトに」群馬で起きた殺人事件が日米を揺るがせ…68年前に残されていた“怒りの声” 〉へ続く

(小池 新)

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