伊坂幸太郎の人気作『死神の精度』を、ロシア文学者が読み解く
文春オンライン / 2025年2月6日 6時0分
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『死神の精度』新装版は2025年2月5日発売 ©文藝春秋
伊坂幸太郎さんの初期代表作 『死神の精度』の新装版 が、2月5日に発売になりました。発売を記念して、2008年に刊行された文庫版に寄せられた、ロシア東欧文学者・沼野充義さんによる解説を公開します。
ふだん推理小説をあまり読まない私が──決して嫌いなわけではないのだが、職業柄、「純文学」と呼ばれるジャンルのものをたくさん読まなければならないので、なかなか手が回らないのだ──伊坂幸太郎という際立った才能を「発見」したのは、たまたま『魔王』(講談社、2005年)を読んだときのことだった。彼はその時点ですでに『オーデュボンの祈り』『ラッシュライフ』『重力ピエロ』といった長編をつぎつぎに発表し、楽しい奇想と簡潔で小気味のいい文体のセンスで際立った、新感覚の作家として注目を集め、熱烈なファンも多かったのだから、いささか間の抜けた遅ればせながらの発見だったには違いない。
『魔王』を読んで直感的に思ったのは、この若い未知の才能には、ミステリーやエンターテインメントといったジャンルを超えて大きく展開する可能性が秘められているということだった。『魔王』は表題作と、その続編「呼吸」の二つの作品をあわせて一冊としたものだが、この本が扱っている「現実」は、ファシズム的な雰囲気が日常に瀰漫(びまん)し、憲法の変更まで国民投票で決められようとしている現代日本の政治状況である。とはいっても、物語はけっして退屈な政治的議論で滞ることなく、ささやかな「超能力」に恵まれた二人の兄弟による、ファシズムの「洪水に打ち勝つ一本の木」となるための戦いが作者持ち前のきびきびした文体でスリリングに描かれており、政治的批評と物語性がみごとに溶け合っている。ミステリー畑から出てきたのに、純文学的な才能が感じられる──などと言いたいわけではない。むしろ『魔王』で私が感嘆したのは、しなやかな物語のセンスと、硬派と呼んでもいいような(決して政治的というわけではないが)すがすがしい倫理観や知性が見事に溶け合っているということで、これは最近の純文学にはむしろ欠けているものなのだ。
伊坂幸太郎以外にも、このようにエンターテインメントと純文学の境界を超えて伸びやかに才能を発揮する若手作家たちが最近台頭してきていて、巷では「春樹チルドレン」と呼ばれることもある。確かに村上春樹が切り拓いた新しい小説世界は、従来のジャンルの境界を超え、卓抜な比喩を駆使したしなやかな文体感覚によって新しい時代を画し、その後の世代に大きな影響を与えた。だから村上春樹より若い作家たちは、多かれ少なかれ、彼が切り拓いた土壌を前提として出発しなければならなかった、といえるだろう。これは何か選択できるものというよりは、避け難い所与のものだ。しかし、伊坂幸太郎には、紛れもない彼自身の個性の刻印があり、他の作家との類似をうんぬんすることはこの若き目覚しい才能に対して、失礼なことではないかとさえ私には思える。
サラリーマンのように派遣されてくる「死神」
『魔王』とほぼ同じ時期に単行本として出版された『死神の精度』を読んで、私はいま言ったような印象をより確かなものにした。デビューしてからしばらくは長編のジャンルでの執筆が続いた伊坂にとって、『チルドレン』と『死神の精度』は短編作家としての卓越した技量を示すものでもあったのだ(『チルドレン』を作家自身は「短編集のふりをした長編小説」と呼んでいるが、実質的には緊密に関連しあった連作短編集として読める。なお、異なった作品の間に同一のキャラクターが登場し、作品相互の間テキスト性〈インターテクスチユアリテイ〉を構築していくのは、伊坂の得意とする手法であり、後で述べるように『死神の精度』でも使われている)。
この短編集の主役は、なんと、死神である。これまでも、人の言葉を話す予知能力を持ったカカシ(『オーデュボンの祈り』)とか、正確な体内時計を持っていて時間を秒単位で測れる女(『陽気なギャングが地球を回す』)とか、自分が思ったことをそのまま他人に言わせる超能力を持った男(『魔王』)などが、伊坂ワールドには登場してきたのだから、驚くにはあたらない。しかし、それにしても、死神が死すべき人間の前に現れて、人間と接触し……という設定は、それだけではあまりにも古風だが、さすが伊坂幸太郎、そこからメルヘン的であると同時に恐ろしくリアルでもある、現代の寓話を見事に作り出した。
ここでは死神は、サラリーマンか何かのように、「調査部」員として、人間の世界に派遣されてくる。そして死すべきと定められた人間を一週間にわたって観察し、死を「可」としてよいか、それとも(こちらは稀だが)「見送り」とするか、報告し、「可」とした場合は、8日目の不可避の死を見届けるというのが、彼の仕事なのである。面白いことに、この死神は決して全知全能ではなく、どういう基準によってどういう方針で死すべき人間が選ばれているのかは、彼にはわからないし、人間の世界に関しても彼にはわからないことだらけだ。
『死神の精度』とトルストイ作品の共通点
その結果、生じるのは「異化」効果である。異化というのはロシア・フォルマリストたちが言い始めて普及した文芸用語だが、要するに、非日常的な視点からものを見ることによって、普通のものを見慣れない、奇妙なものにしてしまうという手法である。すぐれた文学はつねに異化効果をもたらすものだともいえるが、特にこの手法を得意とした作家に、ロシアの文豪、トルストイがいる。たとえば彼の中編『ホルストメール』は、なんと馬の視点から語られていて、本来自分のものであるはずのない土地や動物を私有する人間たちの社会の約束事が「異化」され、人間というものはなんてばかげたことをする生き物かという驚きが読者に突きつけられる。『死神の精度』の死神も、全知ではない性格づけのおかげで、人間のやることなすことにいちいち不思議がり、その結果、似たような異化をもたらしているといえるだろう。
たとえば、死神は言う。「人間というのは実に疑り深い。自分だけ馬鹿を見ることを非常に恐れていて、そのくせ騙されやすく、ほとほと救いようがない、と私はいつも思う」。「人間は不思議なことに、金に執着する。音楽のほうがよほど貴重であるにもかかわらず、金のためであれば、たいがいのことはやってのける」。ちなみに、二十世紀ロシア文学最高の小説の一つ、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』は、モスクワに現れた悪魔とその一味が町中を大混乱に陥れるという物語だが、そこでも悪魔は、人間はいつの時代だってお金を愛してきた、要するにあさはかなのだ、とうそぶいている。
可笑(おか)しいのは、伊坂幸太郎の死神は、人間の言葉にも習熟しておらず、よく理解できない概念が多く、ごく普通の単語の意味を確認しようとしては、人間たちに変なやつだと思われる。彼にとって「雪男」は「雨男」と似たようなものであり、「甘く見てると意外に、吹雪、長引くかもしれねえよな」と言った男に真顔で「甘い? 吹雪に味があるんですか?」と聞き返す。そして、「旅行」とはどういう行動かとか、ステーキについて「死んだ牛はうまいか」「どうして、人間は、人を殺すんだ?」といった質問を連発し、ふだん人間たちが考えもしない生の根源に関わるような、その種のナイーヴな質問を通じて、逆に作品で描かれる人間たちやその社会の「リアルさ」が浮き彫りになるのである。
伊坂幸太郎の死神は、徹底的にクールだ。彼は死すべき人間の調査はするが、人間の死そのものには興味がない、と繰り返しいう。だから、死を直前に控えた人間に対して特別なサービスもしない。この死神、仕事の対象に応じてそのつど姿を変えて現れるのだが、20代の好青年であることが多く、カッコいいのである。しかし、それと同時に、どことなく可笑しみもあり(ナイーヴさゆえに、人間によく笑われるわけだし)、親しみももてる。なにしろ仕事をするときに晴れたことがない、という「雨男」で、無類の音楽(彼の言い方を借りれば「ミュージック」)好きときている。CDショップの試聴機に異様に熱心に聞き入っている男がいたら、ひょっとしたらこの死神かもしれないのだ。
だから、人間ばなれした非情な存在のようでいて、結局はどことなく人間くさく、それがなんとも言えない魅力になっているのではないだろうか。彼は「人間が作ったもので一番素晴らしいのはミュージックで、もっとも醜いのは、渋滞だ」という偏見と独断に満ちた警句を好んで口にし、雪景色を見て「これは美しいな」と思わず声に出し、「人間というのは、眩しい時と笑う時に、似た表情になるんだな」と学んで面白がる。なかなかいい死神ではないか!
いま引用したいくつかのフレーズからもすぐわかるように、これはクールな死神の口調であると同時に、伊坂幸太郎という作家の稀有の才能を示す文体でもある。『死神の精度』は、伊坂の他のどの作品にも増して(おそらく死神のキャラクター設定のおかげだろうか)、見事な比喩や心に残る名科白が多く、引用してみたいところは数え切れないほどあるのだが、ほんのいくつか試しにあげてみよう。
「彼女の声は、濁った沼の表面で泡が破裂する音のような、じめじめとした小声なので……」
「足元で、地面が舌なめずりをするかのような音が鳴る」
「雨の雫に濡れながらも、その上にある暗い空を丸ごと背負っているかのような、落胆を滲ませている」
そして、短く言い切る警句風の表現がまた冴えている。たとえば、「床屋が髪の毛を救わないように、私は彼女(死すべき予定の女性─沼野註)を救わない。それだけのことだ」。
ねらいすました「精確」な短編集
おもに異化と文体という側面から、『死神の精度』の魅力について説明を試みてみた。いままで意図的に触れなかったのは、それぞれの短編の物語構成の巧みさである。それを解説するといわゆる「ネタバレ」になるので、具体的に書くことは控えるけれども、この作品集に収められた一編一編のプロットに、精妙な仕掛けがあって、読者は死すべき予定の人間の身辺を「調査」する死神とともに、彼らの人生にまつわる謎に踏み込んでいく。苦情処理の電話応対係に言い寄る不快なストーカーの正体は? 敵のアジトに乗り込んでいく任侠の男の運命は? ハンサムなのに、わざと「ダサい」メガネをかけている青年の「片思い」の結末は? 母を刺したうえ、路上で見知らぬ男を刺し殺した凶悪犯が秘めていた幼時のトラウマとは? そして、美容院を一人で営む老女が、死期を悟って最後に死神に持ちかけた奇妙な依頼の意味は? そのすべては、本書を読んでのお楽しみ。いずれも簡潔で精緻に構成された短編ながら、謎解きの醍醐味も味わえる仕上がりになっていることは保証できる。
最後にこの本の構成について、一言だけ触れておこう。『死神の精度』は、基本的には短編集と読んでよい作品で、一つ一つの作品を独立したものとしても味わえるけれども、いかにも伊坂幸太郎らしい連関の網が張られていて、全体の構成もよく考えられている。他の作品にかつて登場した人物がちらりとこちらに出てくるというのもおなじみの手法だが(第五話「旅路を死神」に登場する、塀に落書きする青年は『重力ピエロ』の春という人物のようだ)、『死神の精度』の内部に限ってみても、一度出てきた人物が後でじつに意外な形で登場することがわかる。
そして最後まで読み通してみると、この作品集では第一話から第六話までの間にはるかな歳月が流れていることになるのだが、不思議とそういった時間の飛躍を感じさせず、全編が同時代的なリアルな雰囲気のうちに進行する。おそらく、死神が卑俗な時間を超越した存在だからなのだろうか。なにしろ、彼は「人が生きているうちの大半は、人生じゃなくて、ただの時間、だ」という言葉を、「二千年ほど前」仕事で会った思想家から聞いたこととしてこともなげに引用するくらいなのだ。この思想家とは、『人生の短さについて』を書いた古代ローマのセネカだが、人生の短さについての伊坂幸太郎の寓話集の語り手が、時間を超越した死神だという設定もにくい。文体もプロットも構成も設定も、ねらいすました「精確」な作品集だと思った。
(沼野 充義/文春文庫)
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