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「私には異母きょうだいが6人いる」「お父さんが複数の女性と交際して…」“毒親育ち”の元ヤンチャギャル(28)が明かす、子ども時代に抱えていた“複雑な想い”

文春オンライン / 2025年2月8日 11時0分

「私には異母きょうだいが6人いる」「お父さんが複数の女性と交際して…」“毒親育ち”の元ヤンチャギャル(28)が明かす、子ども時代に抱えていた“複雑な想い”

インフルエンサーのYunaさん ©細田忠/文藝春秋

 YouTube登録者数35万人超を誇るインフルエンサーのYunaさん(28)。日本、中国、アメリカで過ごし、3か国語を操る彼女は、一見すると華やかな経歴の持ち主だ。

 しかし、幼少期は複雑な家庭環境で育ち、20歳で母親と絶縁する。また、異国で文化や言葉の壁にぶつかり、自分の存在意義を見失った彼女は“荒れた学生時代”を過ごしたという。

 Yunaさんはいったい、どんな子ども時代を過ごしたのか。さまざまな困難に直面しながら、どのように乗り越えてきたのか——。著書『 北京・ハワイ・LAに移住してたどりついた どんな逆境もホームにする生き方 』(KADOKAWA)を上梓した彼女に話を聞いた。(全2回の1回目/ 2回目 に続く)

◆◆◆

妹のほかに、6人の異母きょうだいが…複雑な家庭で育った幼少期

――Yunaさんは日本、中国、アメリカの3か国で暮らしたことがあるんですよね。

Yunaさん(以下、Yuna) そうです。父も母も国籍は中国なのですが、私が生まれた頃は父が日本で仕事をしていたので、6歳までは日本に住んでいました。

 両親からは「そのうち中国に戻る」と言われていて、その言葉通り、小学校入学と同時に中国に行くことになったんです。そこからしばらくは北京に住んでいたのですが、その頃には、父と母の関係が修復不可能な状態になってしまって。

 私が10歳のとき、父のことを諦めた母と一緒に、母の親族のいるハワイに移住しました。大学卒業まではハワイで過ごして、就職と同時にロサンゼルスに引っ越して。2024年5月に日本に戻ってきました。

――「父と母の関係が修復不可能な状態」になったのは、なぜでしょうか。

Yuna うちの家は、“表向き”は父と母、私と妹の4人家族です。でも父には、母以外にも複数の女性がいて。だから私は妹のほかに、6人の異母きょうだいがいます。

「あなたの夫は、ほかにも女と子どもがいる」と母宛に電話が…

――その事実は、小さい頃から知っていたのですか?

Yuna 私が小学生の頃、知らない電話番号から母宛に「あなたの夫は、ほかにも女と子どもがいる」と電話がかかってきたんです。それで父の女性関係を知りました。

 きっといろんな家庭を渡り歩いていたんでしょうね。「私のお父さんは、日によってパートナーや子どもをとっかえひっかえしている、シェアオフィスを擬人化したみたいな人なんだな」と思っていました。

――家にもあまりいなかった?

Yuna 日本に住んでいるときから、父とは一緒に住んでいなくて。週に1回泊まりに来る程度でしたね。北京に行ったあとも父とは別々に住んでいましたし、会う頻度も多くありませんでした。

「ずっと寂しかった」中学時代に友だちの家で涙が止まらなくなったワケ

――お父さまがほとんど家にいないなかで、お母さまとはどんな生活を送っていたのでしょうか。

Yuna ハワイに引っ越すまでは、父から充分な生活費をもらっていたので、お金で苦労することはありませんでした。ただ、母は家事をほとんどしない人だったんです。

 基本的にお昼すぎまで寝ていたので、私は物心ついた頃から、母が起きてくるまで部屋に置いてあるお菓子などを食べて過ごしていました。

 私や妹の幼稚園がある日は、なんとか起きて送ってくれるのですが、その後また寝てしまうから、帰宅時間になってもうちの母だけお迎えに現れない……なんてこともよくありましたね。

――当時、寂しい思いもしたのでは。

Yuna ほかの家のことを知らなかったので、特に寂しいとも、うちの家庭が変だとも思っていなかったですね。

 ただ、中学生のときに、友達の家に泊まらせてもらう機会があったんです。友達のお父さんとお母さんが私のことを歓迎してくれて、家族みんなで温かいご飯を食べていたら、なぜか涙が止まらなくなってしまって。

――自分の家との違いに気づいてしまった。

Yuna いま振り返ると、自分で気づいていなかっただけで、ずっと寂しかったんだと思います。

「恋愛は人をダメにする」恋愛面に強く干渉してくる母親

――お母さまは普段は子どもへの関心が薄い一方で、強く干渉してくることもあったそうですね。特に恋愛面に厳しかったとか。

Yuna 中国では「恋愛は早めにするものじゃない」という考えが強いんです。母から「恋愛なんてだめだ」「人をダメにする」と言い聞かせられていたから、私も「恋愛はいけないことなんだ」と思うようになってしまって。

 結局、高校を卒業するまで恋人と呼べるような人は1人もいませんでした。初めて付き合ったのは、大学時代のバイト先の上司でしたね。

――「恋愛禁止」だったのは、ご両親のルーツも関係している。

Yuna 中国で「学生時代は恋愛禁止」と言われて育つ子は、日本より多いと思います。ただ、多くの家庭では「勉強に集中できないから」という理由で、子どもの将来のために禁止することが多いように思います。

 でも、うちの母親の場合、子どもの成績にまったく興味関心がないのに、やたら恋愛に関して厳しかったんです。

 おそらく、母が父との間で嫌な思いをたくさんしてきたから、恋愛そのものに嫌悪感を持っていたのかなと。私が恋愛ソングを聞いていただけで、「そんなの聞いて気持ち悪い」と言われたこともありましたからね。

「怖い、お断りしよう」大学時代に年上の男性と初交際するまでの経緯

――大学時代に初めてできた恋人とは、どんなきっかけで付き合うことになったのでしょうか。

Yuna 相手からの告白です。上司で年も離れていますし、それまで誰かと付き合ったことがなかった私には「付き合う」がどういうものか全く想像がつかなかったので、「怖い、お断りしよう」と思いました。それなのに、彼がものすごくプッシュしてくれて、その熱意に折れて付き合うことになりました(笑)。

 彼ができたことで、私の中で変化があって。自分の中にあるカラカラだったコップが、少し潤った気がしたんです。

――それはどういう意味でしょうか。

Yuna 小さい頃から、母は私との関わり方が不器用で、父はほとんど家にいない。そんな家庭環境で育ったから、「Yunaが一番だよ」と言ってくれる人を無意識に求めていたように思います。

「友達」とは違って、「恋人」という椅子は1つだけ。誰かの特別になることにこだわりを持っていた10代の私は、「誰かの恋人」という椅子に座ることで、友達との関係では満たせない部分を満たせることに気づいたのです。

 ただ、どれだけ愛をもらっても、私の心が完全に満たされることはありませんでした。

「私の地元だ」と思える場所がないのもコンプレックスだった

――なぜ満たされなかったのだと思いますか?

Yuna 両親からの愛情や普通の家庭環境だけではなく、私にはアイデンティティが欠けていたんです。

 たとえば、いまは3か国語を話せますけど、昔は中国語も英語も中途半端でしたし、「これが私の地元だ」って思える場所がないのもずっとコンプレックスでした。

――いわゆるアイデンティティ・クライシスに陥っていた。

Yuna でもコンプレックスに思っているだけじゃ何も変わらないから、「母国語がないなら、これが私の母国語だと思えるくらい話せるようになろう」「母国と思える国がないなら、ナビを使わないでも1人でどこにでも行けるくらい、街に詳しくなろう」と、1つ1つ乗り越えていって。いまではすべてが母国語で、すべてが母国だと思えています。

 それに、信頼できる仕事相手や大好きな親友、慕ってくれる仲間たちがいて、私らしくいられる仕事や居場所もある。だから最近は、コップが満たされているなって思います。

「あいつ日本人らしいぞ」北京で移住後、同級生にイジメられ…

――3か国で暮らしたからこその苦労も多かったのですね。

Yuna 両親が中国人なので、日本にいたときからなんとなく中国語を聞き取ることはできました。だから北京に引っ越したときも、同級生との会話で大きく困ることはなかった。

 でも当時は、いま以上に反日教育がすごかったのもあって、「あいつ日本人らしいぞ」という理由でいじめられて。両親が中国人の私は生粋の中国人なのに、おかしな話ですよね。

 生まれ育った大好きな街やそこに住む人達の悪口を毎日のように言われたり、「日本から来た」という自分の力じゃどうしようもない理由でいじめられたりするのは、ものすごくしんどかったです。

 ただ負けず嫌いな性格だったから、子どもなりに試行錯誤して少しずつ友達と呼べる子が増えていって。気がついたら、クラスをまとめるリーダーになっていました(笑)。

中学時代は同級生や先輩と喧嘩を繰り返していた

――北京に住んでいたのは6歳から10歳までなんですよね。

Yuna もともと日本から中国に渡った理由は、父と母が正式に結婚するためでした。でも、仕事が忙しいうえに、うちのほかにも複数の家庭を持っていた父は、結局私たち家族のもとには戻らなかった。

 私が10歳のとき、やっと母は父と離れる決意をして、それと同時に北京も離れることになったんです。それから大学生までは、母の親族がいるハワイに住んでいました。

――ハワイでの学生時代、特に中学時代は荒れていた時期もあったそうで。

Yuna 荒れていたといっても、大したことはしていないんですよ(笑)。ただ、複雑な家庭環境に思春期が重なって、いつもイライラしていて。いま考えたら、本当に些細なことで同級生や先輩と喧嘩を繰り返していました。

――どんな喧嘩をしていたのでしょうか?

Yuna 敵対するグループの子たちと、殴り合いの喧嘩をしたときもありましたね……。ただ私は、よく喧嘩をする一方で、学校では先生や事務員さんのお手伝いを積極的にしていたんですよ。

 普段から大人と仲良くしていたから、ひどい喧嘩になりそうなときは相手より先に学校に報告して、停学や休学は免れていました。

 無鉄砲に喧嘩はするけど、大人には気に入られようとする。一見矛盾しているかもしれませんが、両親に頼れない私が異国の地で生きていくために、必死で編み出した生き方でした。

撮影=細田忠/文藝春秋

〈 中学時代はケンカ三昧→高1で先輩を殴って停学処分→20歳で母親と絶縁…ヤンチャだったギャル(28)が語る、人気インフルエンサーになるまでの道のり 〉へ続く

(仲 奈々)

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