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“縄文時代の六本木ヒルズ”なのに...南関東最大級の縄文遺跡がイマイチ有名観光地になれない「残念すぎる理由」とは

文春オンライン / 2025年2月8日 6時10分

“縄文時代の六本木ヒルズ”なのに...南関東最大級の縄文遺跡がイマイチ有名観光地になれない「残念すぎる理由」とは

「下野谷遺跡」。パネルの設置など、見やすいように工夫しているのだが……(筆者撮影)

 東京・西東京市に、「下野谷(したのや)遺跡」と呼ばれる南関東最大級の縄文遺跡が存在する。都内にあって、国の史跡にも指定される歴史的価値のある遺跡……なのだが、まったくと言っていいほど知られていない。

 昭和の宅地開発の波を回避すると、平成にその価値が見直された「下野谷遺跡」。令和のいま、観光資源として再活用された数奇な遺跡は、どのような場所なのか。そこには、縄文遺跡ならではの“観光資源化”の難しさが眠っていた。

◆◆◆

縄文時代の〇〇ヒルズ? 公園に生まれ変わった「下野谷遺跡」

 西武新宿線・東伏見駅から、左手に早稲田大学東伏見キャンパスを望みながら進んでいくと、石神井川が現れる。その高台に、「下野谷遺跡」はひっそりとたたずんでいる。

 縄文時代は狩猟、漁撈(水産物をとること)、採集などで生計を立てるため、食料を獲得し、定住できる川沿いの高台は超優良立地となる。現代人が「〇〇ヒルズ」に住みたがるように、縄文人も高いところが好きだったのだ。

「下野谷遺跡」は、今から4000~5000年前の縄文時代中期に存在した南関東最大級の環状集落だ。東京ドームおよそ3個分となる約13万4000平方メートルの広大な敷地に、東西2か所の大きな集落があったという。墓とみられる穴(土坑墓)のある場所を囲むように住居跡が見つかり、この一帯が石神井川流域の拠点となる巨大集落であったことが推測される。

 と言っても、現在、「下野谷遺跡」は「したのや縄文の里」という愛称で呼ばれる「公園」として生まれ変わっているため、見渡す限り“野っ原”が広がっているだけ。西東京市教育委員会の文化財係に問い合わせると、

「園内にある竪穴式住居は復元したものです。土器片や住居跡などはそのまま土中に保存されている状況になります」

 と返答するように、縄文時代のガチの名残は目に見えないのだ。「ここに縄文人が暮らしていたんだなぁ」「どれくらいの人数がいたんだろう」などと想像するしかない。イマジン・オール・ザ・ピーポーである。

消失しやすい材料で作られている日本の遺跡

 縄文遺跡は難しい。海外の遺跡は、石で作られているケースが多く、残存しやすい。そのため、「おぉ~立派だな」などと一応それっぽいことを言うことができる。一方、日本の遺跡は木材をはじめ消失しやすい材料で作られているため、形として残りづらい。

 例えば、青森県にある日本最大級の縄文集落跡である特別史跡「三内丸山遺跡」を訪れても、同様のイマジンを要求される。復元した6本柱が圧倒的な存在感を誇るものの、「見晴台」「モニュメント」「日時計」と諸説あるため、「結局これはナニ?」というイマジンと向き合うしかない。国内には、環状列石など目に見える縄文遺跡もいくつかあるが、その多くは土中に埋まっているため、難解な海外のドキュメンタリー映画を観てしまったような、咀嚼できない読後感を味わうことになる。

 目の前に広がる「下野谷遺跡」も、訪れる者の嚥下力……いや、想像力を試しているかのようだ。グーグルの口コミを見ると、「トイレが立派だった」という身もフタもない感想を真っ先に挙げる人が目立つように、観光地としてはあまりに地味。遺跡のキャラクターである「しーた」(男の子)と「のーや」(女の子)の目も、どこかうつろげだ。

巨大な縄文遺跡が残ること自体が稀有なこと

 だが、「下野谷遺跡」をトイレが立派な場所で片づけてはいけない。2015年3月11日の産経新聞朝刊27面には、こう綴られている。

〈 “開発が進む首都圏にある遺跡が発掘・開発されずに残されるのは極めて珍しい”〉

 そう。都内にあって、南関東最大級と称される巨大な縄文遺跡が残っていること自体が稀有なのだ。その背景を、土中から掘り起こしてみたい。

「下野谷遺跡」の周辺は、戦前から畑の耕作時などに縄文土器の破片が多く発見されていたという。当時は、「坂上遺跡」という仮称で呼ばれており、その歴史的重要性は十分に認知されていなかったそうだ。

 昭和25年(1950年)に、考古学者の吉田格氏によって紹介されたものの、やはり大きな扱いはない。同じ縄文遺跡であり、西東京市に隣接する東久留米市にある「自由学園遺跡群」は、1936年(昭和11年)4月21日の朝日新聞朝刊上で「あらッ石器よ!」という見出しで、発見の様子が伝えられている。一方、「坂上遺跡」の文字は新聞にはおどっていないことからも、「下野谷遺跡(坂上遺跡)」は影の薄い縄文遺跡だったことがうかがえる。

 だが、高度経済成長期になると風向きが変わる。日本各地で宅地開発が行われると、さまざまな場所から土器片や住居跡が見つかり、縄文遺跡や弥生遺跡が多数眠っていることが分かった。その半面、イケイケドンドンの時代背景から開発を進め、消失してしまう遺跡群も少なくなかった。そのため、国内で本格的な発掘調査へと発展するケースが相次ぎ、1972年(昭和47年)、「下野谷遺跡(坂上遺跡)」周辺の地域住民も消失の危機感から声を上げ、「むさしの台地研究会」を創設。遺跡が所在する当時の保谷市(2001年/平成13年に、田無市と保谷市が合併して西東京市が新設)へ調査の実施を提言し、翌年、初となる本格的な発掘調査が実施されることになる。

 その結果、東西に2つの集落があり、いずれも縄文時代の構造をよく表す保存すべき価値の高い大きな集落であることが分かってきた。「下野谷遺跡」と名称が変更されたのは、調査が進む1975年(昭和50年)のことだった。

 現在、「したのや縄文の里」と呼ばれる公園部分は、「下野谷遺跡」全体の一部に過ぎない。これにも理由がある。

「下野谷遺跡」は直径150mの大規模環状集落のため、一帯は文化財保護法で定められた「周知の埋蔵文化財包蔵地」(以下、文化財包蔵地)となる。文化財包蔵地となると、その土地を掘削するために国に「届け出」が必要となり、教育委員会の調査員が現地の調査などを行うことになる。本格的な発掘調査が必要と判断された場合、開発工事着工が大幅に遅れる可能性があるだけでなく、その費用(調査や保存)を開発業者が負担するケースが一般的だという。そのため、負担を拒否するケースもあり、調査が進まない場合もある。

 興味深いのは、本調査の結果、文化財包蔵地での建設・開発が許可されるケースがあるということだ。例えば、遺跡の記録を残すことを条件に開発許可が下りる場合などである。実際、千代田区一番町の英国大使館跡地で弥生時代の竪穴式住居跡などが発見されたのち、「記録保存」を実施することでマンション建設を再開した三菱地所レジデンスの例などがある。

辛抱強く地域住民と市が見守り続けてきた下野谷遺跡

 下野谷遺跡の東半部(東集落)は、第1種中高層住居専用地域に該当した。そのため、中高層のマンションなどの開発が進み、上記、記録保存調査の後に消滅することになる。しかし、遺跡の西半部(西集落)は第1種低層住居専用地域に当たり、保護を要する範囲にはすでに低層の住宅が建設されていたことから大規模な開発を免れた――という背景がある。開発事業者の手が及びづらい用途地域だった「運」もあって、この遺跡は残り続けることになる。

 もちろん、開発がされずとも、地権者の土地利用に制約が生じることはある。そのため、史跡の候補地となりうる土地の住民たちと対話しながら市は保全活動をしなければならない。1973年から始まった「下野谷遺跡」の本格的な調査は平成期に入ってからも継続され、1997年(平成9年)には5棟の柱穴を発掘。幾度となく住民説明会を開いた様子が、市の議事録(PDF)からも確認できるように、辛抱強く地域住民と市が遺跡を見守り続けてきたことは想像に難くない。

 2005年(平成17年)、西東京市は西集落の一部を買い取り、07年度には「下野谷遺跡公園」として整備し公有地化。ついには、規模の大きさや保存状態の良さから、同遺跡は2015年(平成27年)、国の史跡に指定されるまでになった。1973年の発掘開始から50年の月日を経た2023年には、イベントを開催するなど観光地として再活用する動きも活発化している。「下野谷遺跡」は、地域住民と市政、さらには運も味方につけたことで生き残った、“極めて珍しい”遺跡なのだ。

古墳のように「そこにある」と分かればいいのだが…

 開発バブルに沸いた昭和の時代、文化財保護法の間隙を突く形で強行突破をする開発事業者もいただろう。たくさんの遺跡が語られることなく消失する中で、そのツケともいえる見直しの平成期を経て、「下野谷遺跡」はリボーンした。都内にあって、これほどまでに大きな縄文遺跡が、人知れずひっそりと残り続ける。まるでそれは、昼夜開発を繰り返す東京に向けた静かなる遺訓のようでもある。小さな背中が、とてつもなく大きく見えるように、何の変哲もない“野っ原”が、大きな意味を持つ。だが、結局はそれさえもイマジン……。オール・ザ・ピーポー、リビング・ライフ・イン・ピース。

 せめて古墳のように、「そこにある」と分かればいいのだが、縄文遺跡は土の中にしまわれている。そのため、昨今はVRをはじめとしたテクノロジーを利用するなどして、新しい遺跡の見せ方も広まりつつある。西東京市も、縄文時代にタイムスリップできる「VR下野谷縄文ミュージアム」なる公式アプリを作っているのだが、VR先でもイマジンなのだ。縄文遺跡は、かくも難しい。

「遮光器土偶」がライトアップされる青森県の木造駅

 遺跡が発掘された別の自治体では、こんな取り組みもある。世にも奇妙な遮光器土偶が駅舎にめり込むJR木造(きづくり)駅(青森県つがる市)はそのひとつだ。市内に、遮光器土偶が出土された亀ヶ岡遺跡があるとあって、町全体が遮光器土偶を推している。駅舎は、故・竹下登総理大臣(当時)発案のもと、各市町村に1億円が配られた、通称・ふるさと創生事業によって建てられた筋金入りの土偶だ。夜になると遮光器土偶はライトアップされ、違う世界に連れていかれるような妖しさを演出する。

 やはり目に見えるものがあると楽しい。大きな土偶を作ってほしいと言っているわけではない。縄文遺跡は目に映りづらいからこそ、目視できる分かりやすいものがなければ観光化は難しい。「下野谷遺跡」を訪れると、それを痛感する。だが、都内に現存する極めて稀な巨大縄文集落跡だ。5000年のときを経て、今にその姿を残そうとした地域住民と西東京市(保谷市)の思いは、せめて見えるようにしてもいいのではないか。「下野谷遺跡」は、もっと評価されていいのだから。

(我妻 弘崇)

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