武田信玄の武勇伝、上杉謙信の美談は嘘だった?謙信、“利益のない”戦いをひたすら続けた謎

Business Journal / 2015年7月8日 23時0分

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 上杉謙信――。

「好きな戦国大名は誰ですか?」という人気ランキングなどでは常にベスト10入りする、国民的ヒーローといっても過言ではありません。もちろん実在の人物ですが、今回はできるだけ「等身大の謙信」を紹介したいと思います。

 プロイセン王国の軍人、カール・フォン・クラウゼヴィッツが著した『戦争論』に次のような言葉があります。

「戦争の勝敗はその戦争目的を達成したか否かが問題であって、戦闘そのものの勝敗は関係ない」

 要するに、その戦いで目的が達成できれば戦いそのものは負けでもよいという意味ですが、この点は謙信のライバル、武田信玄がハッキリしていました。

 両者が戦った有名な川中島の戦い。信玄が謙信に負けて引き揚げた戦いもあるのですが、それは関東地方に攻め込んだ上杉軍を引き揚げさせるために川中島に攻め込み、同盟国であった北条氏康を助けるという目的だったので、戦いそのものは「負け」であったとしても、信玄にとっては「勝ち」であったことになるわけです。

 江戸時代に流行した「甲州軍学」は、クラウゼヴィッツ型の戦争論でした。

 甲州軍学は幕府の旗本、御家人、譜代大名の間で流行しましたが、それもそのはず、徳川家康の家臣団には三河以来の家臣以外にも、旧武田家配下の武士たちが多く、それ以外の家来たちと張り合う意味もあって、「おれたちのご先祖さまは家康公も一目置く信玄公の家臣だったのだ」というのを自慢していたからです。

 興味深いことに、この甲州軍学に対して越後軍学というのも江戸時代に流行します。こちらは謙信の家臣、宇佐美定行の子孫を自負する宇佐美定祐が始めました。彼は紀州藩の家臣です。8代将軍に紀州藩の徳川吉宗が選ばれると、紀州藩で始まった越後軍学は甲州軍学と対抗して広がるようになります。有名な「川中島合戦図屏風」が和歌山にある理由が、ここにあります。

●リスペクト合戦

 ここから両派による、信玄と謙信のリスペクト合戦が始まります。

 甲州軍学派は、信玄だけでなく謙信も名将として描きます。謙信がとても強いほうが、信玄の値打ちも上がるためです。逆の理由で越後軍学派も、謙信だけでなく信玄も名将として描きます。

 こうしてお互いに相手の「すごさ」と「強さ」を強調していくようになり、現在に伝わる「信玄イメージ」と「謙信イメージ」が完成していきました。信玄・謙信の両ファンには申し訳ないところですが、両者の戦いに関する数多くの逸話は、虚構ではないですが、かなり誇張して描かれています。実際、2人の合戦史料の多くは江戸時代、しかも吉宗時代である18世紀に記されたものが多いのです。

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