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キングギドラ、モスラをつくった怪獣造形師・村瀬継蔵が胸にとどめる円谷英二の金言

cinemacafe.net / 2024年7月26日 7時30分

アニメーション映画と並んで、日本が世界に誇る映画ジャンルである怪獣映画。時に恐ろしく、時にユーモラスでかわいらしい、個性豊かな怪獣たちが映画の歴史を彩ってきた。


デザイナーによってデザインされた怪獣を、様々な素材を用いて、アイディアと知識を駆使し、監督の望む質感で実際に具現化するスタッフが特殊美術造形――特に怪獣映画において“怪獣造形師”と呼ばれる職人である。そんな怪獣造形師の第一人者であり、『ゴジラ』シリーズにおけるモスラやキングギドラの造形など、数々の怪獣映画、特撮映画に携わってきた村瀬継蔵。今年の秋で89歳を迎える彼が、初めて“総監督”という立場でつくり上げた映画『カミノフデ ~怪獣たちのいる島~』が公開中だ。


半世紀近く前に香港映画『北京原人の逆襲』(1977年)に参加した際に、プロデューサーから依頼されて書き上げたというプロットをベースに、自らの経験や新たな要素も加えて再構築したという。本作への思いを語ってもらうと共に、怪獣造形師としての村瀬さんのこれまでの歩みについて話を聞いた。


「最初は怖いという気持ちしかなかった」


――村瀬さんが特殊美術造形、怪獣造形の世界に足を踏み入れることになったきっかけ、経緯を教えてください。


村瀬:私の兄が多摩美(多摩美術大学)におりまして、私は健康が不安定だったので東京に治しに来たんです。兄の家でブラブラしていたんですけど「お前、遊んでだってしょうがねぇだろ」と言われまして。


故郷の北海道にいた頃に『ゴジラ』(1954年)を見ていたんですが「すごい映画だなぁ。怖いなぁ」と思っていたんです。その話を兄貴にしましたら「俺の知ってる人に『ゴジラ』を作ってる人がいる。俺は学校があるからできないけど、お前、代わりにやってみるか?」と言われたんです。それで(東宝で造形を手掛けていた)利光貞三さん、八木(康栄/勘寿)兄弟のお手伝いに入ることになったんです。


そこでいろんな造りものをやったんですけど、これが非常に難しいんですね。師匠に言われて、金網でものをつくったり、ブリキを切ったりということをしながら造形のこともやるようになって、それから『ゴジラ』シリーズに参加するようになりました。正式に私が参加することになったのは『キングコング対ゴジラ』(1962年)からになります。


私はゴジラを造るなんて「怖いもんを造るんだなぁ…」って思ってね。最初は「面白い映画をつくる」という感覚よりも「怖い」って気持ちしかなかったです(笑)。でも、そうやって造形の世界に弟子として入って、いろんなことをやってきて、利光さんと八木さん、それから開米栄三さんという方たちと一緒にお仕事をさせてもらったら、だんだん「いやぁ、これはおもしろいなぁ」と感じるようになりました。


北海道で農業の仕事をやっているときの経験で、使えることがたくさんあったんですね。ゴジラにしても、金網で下地を作ったり、自動車のタイヤのゴムを焼いて加工したり、いろんな工夫を見てきて「これはおもしろいなぁ」と思いまして、八木さんの下で本格的に造形的なことをやるようになって「これを続けたら、子どもたちにいろんなものを見せられる」とも思いました。


モスラを造ったり、キングギドラを造ったり、それから、私にとって代表作と言えるのが『大怪獣バラン』(1958年)のバランですね。バランは「背中にとがった部分がほしい」と言われて、じゃあ、透明なビニールやのホースを切って使えばいいなと思って、円谷(英二)さんに「こうやったら造れそうです」と言ったら「そりゃおもしろい!」と言ってくれました。「でもそれだと穴が見えちゃうな」と言われて、半透明のビニールで覆ってふたをしました。


次に皮膚をどう造ったらいいかな? と考えた時、周りのスタッフさんが休憩時間に落花生の殻をむいてピーナッツを食べていたんです。それを見て、この殻の表面がすごくおもしろいなぁと思って、試しに粘土で殻を模した原型を作って円谷さんに見せたら「いやぁ、これはおもしろいな。植物が動物の皮膚になるなんて、考えたこともなかったよ」と驚いていました。


あの経験が私の造形の仕事の始まりですね。円谷さんが「君は次から次へと新しいものを考えて生み出してくれる。それをこれからも映画の世界でやっていってほしい」と言ってくださったのを覚えています。


――日本映画界における“特撮の父”ともいわれる円谷英二さんは、どんな方でしたか?


村瀬:円谷さんという方は、自分で原型を造ったり、「こうやるんだ」といった技術的なことを言うことが一切ない人でした。できたものだけを見て「良い」か「悪い」としか言わないんです。それだけじゃ僕たちは、そう簡単に造れないですよね(苦笑)。それを円谷さんに言ったら「いや、それで十分だろ」と言われました。


円谷さんが口を酸っぱくして言っていたのは「上に立つ人間が『これが良い』とか『こうやってやれ』と言ったら、君たちがやる仕事がなくなってしまう」ということ。監督・演出家は、うまく周りを動かして、それによって造形や美術ができあがれば、それでいいんだと。だから本当にできたものだけ見て「これはダメ」、「良い」としか言わない(笑)。でも、僕にとってはそれが力になりました。どんどん新しいものを考えてやるようになったけど、それは円谷さんがいなかったらできなかったと思います。


ゴジラの爪も歯も昔は全て金網で下地を造っていましたが、一度戦うと曲がってきちゃうんですね。それじゃダメだということで「じゃあ、合成樹脂で造ったらどうですか?」と言ったら「合成樹脂って何だ? そんな材料があるのか!」と。そうやって、次から次へとこっちから提案をすると「やってみよう」と受け入れてくださる人でしたね。



60年以上を経て再び撮影したヤマタノオロチのシーン


――本作『映画『カミノフデ ~怪獣たちのいる島~』では怪獣ヤマタノオロチが出てきますが、ヤマタノオロチと言えば村瀬さんも参加された『日本誕生』(1959年/監督:稲垣浩/特技監督:円谷英二)に登場する八岐大蛇が印象的です。


村瀬:あの映画では三船敏郎さんが須佐之男命(スサノオノミコト)を演じていて、八岐大蛇の上に乗って、剣を突き刺すというシーンがありました。でも、ただ刺すだけじゃおもしろくない。じゃあ、(刺したところから)何か吹き出す仕掛けにしようか? 金粉なんてどうですか? と言ったら、おやじさん(=円谷さん)は「いや、金粉じゃ生き物じゃないよ」という話になって、いろいろ工夫して、刺されたらパーッと血と金粉が吹くようなカットができまして、おやじさんも「これはおもしろい」と。


八岐大蛇のボディは直径1メートル50~60センチくらいあったかな? 三船さんがそこに乗っかって、剣を刺すんですけど、八岐大蛇の首や体をうまく動かす方法がないか? という話になりまして。操演技師の中代文雄さんという方がおられたんですけど、相談したら「ピアノ線で上から吊って動かそうか?」という話になって、テストして、それでOKになりました。みなさん、僕が八岐大蛇を造ったと褒めてくださるんですけど、決してそうじゃなく、裏には操演技術や円谷さんのアイディアとか、いろんなものが合わさって、ああいう動きの八岐大蛇ができたわけです。


八岐大蛇が酒を飲むシーンも、中代さんが「大きな桶に首を突っ込ませると、飲んでいる感じがよく出るんじゃないか?」と提案して、あのカットができたんです。


――60年以上を経て、今度はご自身が総監督という立場で、ふたたびヤマタノオロチのシーンを撮影されていかがでしたか?


村瀬:佐藤(大介/プロデューサー・特撮監督)くんに「昔の八岐大蛇はこんな感じだったよ」という話をして、佐藤くんからも「じゃあ今回はこんなのはどうですか?」という話をしてもらって撮ったんですけど、すごく良いものが撮れたと思います。


――(インタビューに同席した佐藤氏に)実際、撮影されていかがでしたか? 『日本誕生』の八岐大蛇の動きを参考にされた部分などはあったんでしょうか?


佐藤プロデューサー:『日本誕生』はもちろん資料として観ました。八岐大蛇はワイヤーで吊って首を操作した日本最初期の怪獣なんですよね。そういう意味で、まだまだ技術的には洗練されていない部分もあったんですけど、その後のキングギドラ(1964年公開の『三大怪獣 地球最大の決戦』で登場)では技術的な部分がかなり向上しているので、そちらを参考にさせていただいた部分はありましたね。


村瀬:キングギドラの首の動きは八岐大蛇をアレンジしてつくったんです。そこでも中代さんのアイディアが活きたし、(特殊技術の)撮影の有川貞昌さんのやり方もうまくいったと思います。ぬらぬらと首が動く感じがすごく上手に撮れたと思います。


――もうひとつ、『カミノフデ』の中で、怪獣造形師だったヒロインの祖父が、ある撮影でスーツアクターも務めて、火だるまになってビルから落ちるカットの撮影に参加したというエピソードが明かされますが、これも村瀬さんご自身が実際に経験されたことですよね?


村瀬:あれは香港の『北京原人の逆襲』(1977)の時の話ですね。北京原人のスーツアクターがいなくて、スタントマンに「君が火だるまになって落ちてくれ」と言ったら「保険をかけてくれればやりますけど、保険がないなら火をつけてビルから落ちるなんてできません」と言われまして。


そうしたら(特殊効果の)久米攻さんが「じゃあ、村瀬さん燃やしちゃおう」って言いまして…(笑)。それを聞いて「私を燃やしちゃう…?」って思ったけど、やっぱり造った自分がどこまで燃えても大丈夫かとか一番わかっているからね。もう、こうなるとしょうがないですよね。「じゃあ僕が入ります」と。


撮影の有川さんが「北京原人の皮は何枚ある? 最低3カットはあるからね」と聞くので「1カットで撮っちゃえばいいんじゃないですか?」「いや、3カットはほしい」って(笑)。結局、3カットで3枚の皮膚は全部使っちゃいました。


(製作のショウブラザーズ社長の)ランラン・ショウがラッシュ映像を見て「これは保険もなしに誰が火だるまになったの?」と驚いていて、「村瀬さんが自分でやったんです」と説明したら「いやぁ、すごい人だな」と言って、ランラン・ショウはその後、僕に金時計を贈ってくれました。自分で造って、自分で入って、燃やして、こんな立派なものをもらっちゃって良いのかなって思いましたけど(笑)。


撮影そのものは自分ではあんまり危険を感じることもなかったんですけど、久米さんが火をつけて落ちて…だいたい1カットで4~5秒かな? 有川さんが「いやぁ、村ちゃんだからやってくれたんだなぁ」と言ってたけど「いやいや、やらされたんだよ!」って(笑)。あれは本当にラストカットの大事なシーンでしたからね。やってよかったなと思いました。



経験や知識があるからこその“総監督”


――今回、総監督という立場で映画をつくられていかがでしたか?


村瀬:“総監督”という名前をつけていただきましたが、僕自身はそんなに重い立場にいるという感覚ではないです。ただいろんな経験や知識があるので、それをうまく活かして映画ができればという思いで、それをみなさんが「総監督」と呼んでくださるなら、それでいいかなという気持ちです。


――映画の中でゴランザという名の怪獣が登場しますが、デザインされたのは、村瀬さんとも様々な作品でご一緒し、長年「仮面ライダー」シリーズの美術デザイン全般を担当されてきたことでも知られる高橋章さん(2023年逝去)ですね。ゴランザはどのように誕生したのでしょうか?


村瀬:あれはね、香港から帰ってから高橋さんに「プロットの挿絵を描いてほしい」とお願いして、描いてもらったのが元になっています。彼の遺作になったけれど、良いものを描いてもらったなと思います。


――これから映画の世界、特に特殊造形を志す人たちに向けて、アドバイスやメッセージがあればお願いします。


村瀬:若い人たちがもっともっと伸びていって、腕を上げて、造形界を盛り上げていってくださったらいいなと思っています。


――最後に、村瀬さんのお気に入りの怪獣を教えていただけますか? これまでご自分で手掛けた怪獣でも、それ以外のもの、海外のものでも何でも構いません。


村瀬:僕は自分の仕事にずっと追われてきたので、海外の怪獣映画って『キングコング』くらいしか知らないんですね。自分で造った怪獣では、一番はやはりバランですね。私がこの造形の世界でやっていくことになったきっかけとも言える大事な怪獣ですからね。

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