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台湾人日本兵の運命を描き高評価の傑作ドラマ「聴海湧」、誕生の裏側

cinemacafe.net / 2024年12月15日 18時30分

今年台湾で、太平洋戦争末期に日本に徴兵されて東南アジア戦線に送られた台湾人日本兵の運命を描いたドラマ「聴海湧」が放送されて話題を呼んだ。戦争という深刻なテーマを扱った作品ながら、ネットには「一気に見た」「涙が止まらない」という感想があふれ、「今年最高の台湾ドラマ」とそのクオリティを評価する声も多い。


評判を聞き、主人公らに過酷な運命を強いた日本人としては複雑な気分になることも覚悟して視聴したところ、どんな立場の登場人物も表面的に描くことのない内容に驚いた。5話というミニシリーズながら、サスペンスの要素も盛り込みつつ、一気に見せるストーリーテリングも秀逸だ。


どうしてこんな作品づくりが可能だったのか? 台湾で開かれた「TCCF クリエイティブコンテンツフェスタ(Taiwan Creative Content Fest)」取材の機に、本作の孫介珩(スン・ジエホン)監督にインタビューを実施。お話から見えてきたのは、歴史、戦争、アイデンティティーというセンシティブなテーマに正面から向き合い、ドラマで自分たち台湾人の物語を語ろうという姿勢。日本でも、過去を語り継ぎ未来につなげるために映像作品で何ができるか、考えるきっかけになるマスターピースではないだろうか。


きっかけは表情の読めない
台湾人の写真


孫介珩監督

――「聴海湧」の主人公は、日本軍に徴兵されてボルネオに送られ、捕虜の監視員となる台湾人日本兵の三兄弟。彼らは思いがけず虐殺事件に巻き込まれ、戦犯として裁かれることになります。台湾人、日本人、戦犯を裁くオーストラリア人、中華民国の外交官、さらにボルネオの原住民に至るまで、どの立場のキャラクターについてもしっかり調べて描き込まれたことが分かるすばらしい作品だと思いました。まず、このドラマを製作したきっかけから教えてください。


孫介珩監督(以下、孫)台湾では、中学、高校の歴史の授業で台湾光復(日本による統治が終了し、中華民国の統治下に入ったこと)について学ぶ時、必ず目にする写真があります。台北の中山堂で、日本と中華民国が降伏文書を取り交わしている場面です。


写真を見て、戦争に負けて降伏する日本人がつらかったのは想像できます。向かいにいる中華民国の代表は当然、うれしかったでしょう。8年におよぶ戦争の末、台湾を取り戻したのですから。しかし、彼らの背景に写っている、式典の参列者はどうでしょう? ぼやけていて表情は分かりません。笑っているのか、泣いているのか、想像もできません。


その日、式典に参列するまで、彼らは日本人でした。式典が終わって中山堂を出た時には、中華民国の国民になっていた。国籍も、身分も、社会で使用する言語も、法律や制度も、すべて変わってしまったのです。でも、人は簡単に変われない。何もかもが急に変わってしまったあの時、台湾人は何を思い、どんな経験をしたのか? 彼らのどんな思いが、その後数十年にわたって続く台湾人のアイデンティティーの問題につながっていくのか、とても興味が湧きました。


――ドラマの構想を練り始めたのはいつ頃ですか?


5年前、VRのイベントに参加するため中山堂に行った時です。建物の保存状態がよく、学生の頃にここの写真を見たことがあると思い出しました。第二次世界大戦後の世の中の変化に、台湾人はどのように直面したのか?中山堂に立ち、あらためてそれを考えたことが、このドラマを作るきっかけになりました。


いろいろな資料を読むと、さまざまな職業の人が、この頃、どんな変化を経験したのか書いてありました。たとえば作家は日本語から華文へと使う言語を変えなくてはいけなかった。庶民も同じで、異なる背景を持つ台湾人が、それぞれ異なる変化の問題に直面していました。その中に、非常に珍しい職業がありました。それが台湾人日本兵です。中には、捕虜の監視員をしていた者もいた。それがこのドラマの主人公です。


戦争が終わった時、彼らはほとんどが外国、つまり東南アジアにいました。そして捕虜の監視員たちは、戦時中に日本軍の命令で捕虜を監視・虐待したため、そのまま現地で戦争犯罪に問われたのです。東南アジアで開かれた裁判は、すべて英語で進められました。日本人の弁護士は日本語を話しましたが、英語も日本語も台湾人日本兵にとって母語ではありません。台湾語で自分を弁護することは不可能でした。


しかもその時、彼らの国籍は日本なのか中華民国なのか分からないという異常な状況でした。これは極端なケースですが、なぜ台湾人の間でアイデンティティーの問題が生まれ、今日に至るまで長い間議論されているのか、ドラマという形で視聴者に理解してもらうには、いい例だと思いました。


ドラマで“台湾の物語を語る”意義


――歴史ドラマ、特に戦争を扱ったドラマは、台湾でも人気のジャンルとは言い難いと思います。資金集めなど企画段階で苦労はありませんでしたか?


資金集めは確かに大変でした。まず、題材が特殊です。しかも、台湾人のアイデンティティーという、現在でも議論を呼ぶテーマを扱っている。この問題を語りたくない人たちが出資してくれることはありません。次に、コストのかかる歴史ドラマ、しかも戦争ドラマであるということ。この2つの理由で、資金を回収できるのか不安を覚えた人は多かったと思います。


キャスティングについても、三兄弟は10代から20代の若い俳優に演じてもらいたかったのですが、この年齢層で実力のある俳優は台湾には少ない。かといって年齢層を上げて名のある俳優を起用するつもりはなかったので、出資者を見つけるのは簡単ではなかったのですが、なんとか公共電視(台湾公共テレビ)に出資してもらえることになりました。


第二次世界大戦後、台湾では戒厳令が布かれたため、その後、数十年にわたって台湾人日本兵の話を語ることができなくなりました。しかも、台湾で教えられる第二次世界大戦の歴史は、中華民国の立場から見た歴史――つまり中国大陸における抗日戦争の歴史だったのです。台湾に50年におよぶ日本統治時代があったことは、何世代にもわたって台湾の人々が記憶している事実であり、戦時中20万人もの台湾人が戦場へと動員されましたが、数十年もそのことを語ってはいけなかった。特に、戦争経験のある台湾人日本兵たちは、生き残って台湾に帰っても経験を語ることはできず、当時の国民党政府に管理されました。軍事訓練を受けた者が行動を起こすことを恐れたためです。「第二次大戦中、日本人のために戦った」などと言うことは、もっと不可能でした。


1990年になってやっと、中央研究院や学者たちが生き残った台湾人元日本兵を訪ね、急いで当時の出来事を記録し始めましたが、すでに長い年月が過ぎて記憶も細切れになっています。このドラマのスタッフたちの中にも、祖父母の世代は家で当時のことを語ったことがないという人が多かったですね。あえて語らなかったのです。でも、何があったのかを知りたいという理由で、製作に参加してくれた人も多くいました。


台湾ではいわゆる教育改革を経て、台湾の歴史、地理、社会が教科書に記載されるようになりました。私はそんな教育を受けた第一世代です。大人になり、台湾で起きたことを作品として語るべきではないか、第二次世界大戦や、過去の歴史に対する認識をもっと多様にするべきではないかと思ったのです。


――何十年も語ることができなかった話だということでしたが、公共電視が出資したというのは、そのような題材を扱う作品であることが評価されたからでしょうか?


確かにそういう面はあると思います。公共のテレビ局として「聴海湧」のようなドラマをサポートし、異なる立場、異なる考えを示すことで、国民に自分と違う立場の人がどんな考え方を持っているのか理解しようとしてもらおうという考えから、最終的に出資しようと考えてくれたのだと思います。



立場の違う人々の視点を大切に描く


――公共電視の公式サイトで公開されていたこのドラマのメイキング・ドキュメンタリーを見たのですが、脚本家をはじめ、スタッフが若くて驚きました。皆さんで日本語の書籍を調べたり、専門家の方に話を聞きに行ったりするなどして、脚本執筆に取り組む様子が収められていましたね。脚本開発の過程について教えてください。


脚本執筆には、調査や資料探し、専門家への取材も含めて3年かかっています。時間をかけたのは執筆以上に、そこに取りかかるまでの準備でした。台湾人の視点だけで語りたくはなかったからです。


台湾人の口述、回顧録はもちろん大事な史料ですが、オーストラリアの裁判所を尋ね、当時の台湾人や日本人の戦犯に対して行われた裁判の記録を読みました。日本やオーストラリアの戦争の記念館、ボルネオの森、原住民の集落など、物語と関係のある様々な場所に赴きました。できるだけ違う立場の人々から話を聞き、史料を集め、それらを検討してドラマのストーリーとして描けそうな内容を選び出したのです。


――膨大な材料の中から、全5話にストーリーをまとめるのは大変な作業だったと思います。必ず語りたかった軸は何でしょうか?


一番大事にしたのは、もちろん主役の三兄弟の運命です。「主人公は1人でいいじゃないか」「1人にフォーカスしたほうがイメージしやすい」という意見もあったのですが、当時の台湾人の姿は1種類ではありませんでした。


3人の中で一番年長の新海輝(しんかい・あきら)は小さい頃から日本人に囲まれた環境で育っているので、日本に対する親しみが強いという設定。歴史的に台湾には、彼のような人が大勢いました。ドラマでは、輝の父親は日本人が経営する製糖工場で働いており、そこで育った輝は、いつか自分も本物の日本人になりたいという気持ちを持っているという設定にしました。一番年下の木徳(きとく)は、家が貧しかったという単純な理由で従軍を志願した設定です。当時の台湾の水準に比べてかなり高給だったうえ、政府は連戦連勝だと宣伝していたため、危険も少ないと考えた。真ん中の志遠(しおん)は少し特殊で、好きな女性が日本人だったために志願したという設定です。娘が台湾人と一緒になることを望まない彼女の家族に自分を証明したいという個人的な理由で志願します。


国のため、家族のため、誰かのため。3人を主役にすることで、当時の台湾の若者の姿を反映させることができました。そして最後に伝えたかったのは、どんな劣悪な環境でも、信念を持っていれば、人は善良さを保つことができるという願いです。


――毎話エンディングにかけて緊迫感が増し、どんどん次のエピソードが見たくなりました。演出やストーリーテリングの部分でこだわったことはありますか?


おっしゃった緊迫感というのは、脚本の段階で工夫した面もあるのですが、俳優たちの演技が担った部分が大きいと思います。


田中という日本軍指揮官を演じた塚原大助さん、弁護士の渡辺を演じた松大航也さんは、日本から来て出演してくださった俳優です。撮影現場では、私はカットをかけるたび「どう思う?」「どうだった?」と聞き続けました。監督1人の視点で作り上げた役を演じるのではなく、俳優も一緒に役を作ってもらいたかったからです。


このドラマには、日本人、台湾人、オーストラリア人など、さまざまな人が登場しますし、立場が全員違います。私はこの作品を、俳優の口をとおして監督の思いを語らせるようなドラマにはしたくありませんでした。


印象深かったのは、最後の法廷シーンの撮影です。26分間ワンカットで撮影したのですが、最後には俳優たちが皆、泣いていました。その後、皆さんがおっしゃっていたのは、1つの法廷の中でお互いが影響し合う、演技の魔法のようなものを感じたそうです。


――このドラマを見て一番印象深かったのは、どの立場の人物の主張も、それぞれ筋が通っていると感じられたことでした。


それが脚本執筆の段階から、視聴者に伝えたかったことです。戦時下では、多くの人がやむを得ない状況に追い込まれていました。


日本軍の指揮官として、上層部の命令に従うしかなかったという言い分も正しい。大勢の仲間が捕虜となって殺害されたのだから、オーストラリア人が監視員たちを恨むのも正しい。では、台湾人はどうだったのか? 何か間違ったことをしたのだろうか? 俳優ひとりひとりが自分の役に入り込んで演じてこそ成立する場面だったと思いますし、やり場のない感覚に、視聴者も胸がしめつけられたと思います。


主演俳優が1か月東京に滞在
“日本の社会で暮らす台湾人”を体験


――メイキングのドキュメンタリーを見ると、三兄弟を演じた3人は、日本で語学などのレッスンなどを受けていらっしゃったようですね。


撮影が始まる前、1か月間、東京の狛江に滞在してもらいました。結構な出費になるので、行かせる価値があるかどうか何度も話し合いましたが、劇中の5分の3から5分の4は主役である彼らが話す場面でした。もちろん、植民地である台湾と内地の差はあるとはいえ、学校でも家の外でも使っていた言葉は日本語。丸暗記しただけのたどたどしい日本語ではよくありません。少なくとも、俳優たちには自信を持ってセリフを言ってほしかったので、東京で生活しながら先生のもとで学んでもらうことにしました。現在の狛江と80年前の台湾は全然違いますが、日本の社会で暮らす台湾人の感覚を体験してほしいという狙いもありました。


ちょうどコロナ禍が終わったばかりで、航空券も宿も安いいいタイミングでした。とても価値のある投資だったと思っています。


――日本では台湾旅行や台湾の食べ物などが大人気です。交流が盛んになるのは喜ばしいことですが、どんな歴史の延長線上に今の台湾と日本があるのか、知らない人が増えていると感じます。このドラマが日本でも視聴できるようになり、改めて歴史を知るきっかけになればいいと思います。


台湾人の話ではありますが、日本軍の指揮官、弁護士などを通して、当時の日本人の戦争に対する見方をある程度は盛り込んだつもりです。今、台湾と日本はとても友好的な関係にあり、観光も好調ですし、文化交流も盛んです。80年前はどうだったのかというと、双方の関係はもっと特別で、戦線では同じ側で戦っていました。その後、歴史の流れで分かれてしまいますが、当時の台湾と日本の関係が現在とどのように違うのか、ぜひドラマを見ていただければと思います。


――最後に、あらためて日本の読者にメッセージをお願いします。


戦争とは、人類の社会における極めて異常な災難です。戦争を経験した人々の深い悲しみを鎮めるには、何世代にもわたる長い時間がかかります。第二次世界大戦のあと、台湾ではそれまで違う陣営にいた人々が努力して1つの島で生きてきましたが、戦争によって生まれたアイデンティティーの問題は、今なお激しい議論を呼ぶテーマです。そこで、聞かずにはいられません。日本ではどうでしょうか? あの戦争は今日の日本の社会に何を残しましたか? 原因について、過程について、結果について、戦争経験者とその子孫たちについて。「聴海湧」には異なる経歴を持つさまざまな人物が登場します。日本の皆さんにも、その中に、ご自身の家族の物語を見つけていただけたらと思います。


現時点で「聴海湧」の日本における放送・配信は未定であり、プラットフォームを探している最中とのこと。また、台湾では劇場で全5話を一気に鑑賞するマラソン上映が「没入感がある」と観客に好評とのことで、終戦から80年となる来年2025年に日本で同様の企画上映が実施できないかどうか、劇場や美術館など関心を持ってくれる上映施設とのコラボレーションを希望していると語ってくれた。



孫介珩監督 プロフィール


歴史学の学士号と政治学の修士号を取得し、修了後はニューヨークで映画制作を学ぶ。2019年にドキュメンタリー「恁」、2020年に短編映画「第一鮪」を発表。後者は新人の育成を目的にした短編映画賞「金穂奨」で最優秀脚本賞を受賞、台北映画祭で最優秀短編映画賞と最優秀助演男優賞にノミネートされた。


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