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「心の傷はいつまでたっても鮮烈なまま」直木賞作家・千早茜はなぜ傷に心を奪われるのか。

CREA WEB / 2024年5月10日 7時0分


作家の千早茜さん。

「傷」をめぐる忘れ得ぬ記憶や痛み……。千早茜さんの『グリフィスの傷』は、回復と癒しを描く10編からなる短編集です。千早さんが得意とする繊細な心理描写と官能的ですらある情景描写に陶然とすること請け合い。本作誕生の秘密をうかがいます。


心のコンディションと違って体の傷は治癒の過程がわかる


作家の千早茜さん。

「もともと傷や傷跡が好きで、編集さんに『傷の短編を書きたい』と、何年も前からずっと相談していたんです。でも『しろがねの葉』で直木賞をいただいたこともあり、エンタメの小説誌に求められる内容とか分量とか、どうしても『透明な夜の香り』や『マリエ』のような長編の依頼が多く、なかなか書けずにいました。そんな中で、『じゃあ、純文学系の「すばる」がいいかもね』ということになり……。一話一話が独立した短編集って本当に久々な気がします。もちろん、傷跡といったくくりはあるのですが」

 傷や傷跡は、確かにどこかセンシュアルで、一種のフェティシズムをくすぐるようにも思う。

「自分に、ちょっとした傷……打撲とか切り傷とか火傷とかが出来ると、その損傷の変化を毎日写真に撮って、観察するのが好きなんですよ。自分の心って、コンディションがいい日も悪い日もあって、傷ついた後に治癒していくさまが目に見えるわけではないですよね。でも体は心の状態に関係なく、淡々と、自分で自分を癒やしていくんだなというのを確認出来るからすごい楽しくて。あと、医学書や標本の本とかも好きなんです。折に触れて読んだり眺めたり。傷はどんなふうに治療するのか、傷跡として残ったらどうなるのか、つい調べてしまうんですね。この連載でも、毎回『この傷にしようかな』と医学書を参考にしていました」

 各編のモチーフに使われている傷や傷跡はいろいろだ。最初の短編「竜舌蘭」に出てくるのは、語り手の女の子が負った太ももの切創。「この世のすべての」では顔のひきつれた男が、「結露」には性行為後にシーツについた血を見て焦る男性会社員が、登場する。「まぶたの光」で扱った〈先天性眼瞼下垂〉の手術は、自分の大腿筋の筋膜を移植して行われるのだが、主人公の〈あたし〉は三歳のときにその手術を受け、そのせいで〈ふとももの内側に目をこらさなくてはわからないくらいの傷〉がある。

「先天性眼瞼下垂の原因は、眼瞼挙筋というまぶたを開く筋肉や神経の発達異常があげられるそうです。今回、形成外科の先生に取材させてもらったんですけれど、傷を治すためにはどこかを傷つけなくてはいけない可能性が出てくる。皮膚移植して、大きな傷を治しても採皮された場所には傷が残ってしまう。形成外科の技術で目立たなくすることは出来ますが、ゼロにはならないんですよね。表題作の『グリフィスの傷』で描いたリストカットの傷跡についても調べたら、レーザーとかで修復して薄くは出来るものの、完全に消せるわけじゃないそうなんですよ。出来るだけ傷がないように見せたければ、自分の皮膚を目立たない場所から採って移植するしかない。傷を治すためにつく傷があるというのも複雑だなと。あと、処女膜再生手術というものがあることも知りました。性加害を受けて、せめて体だけでも元通りになりたいって人もいるらしくて。なるほど、需要があるから存在してる治療もあるのだなといろいろ考えさせられました」

「目に見える傷を描くということは目に見えない心の傷につながっていく」


作家の千早茜さんは「メモ魔」としても知られる。取材中もペンを使い分けて、メモをとっていた。

 いじめと傷、自傷行為と傷、戦争で受けた古傷など、傷は人間の営みと不可分なのかもしれないと思えてくる。

「暴力や自傷行為によって出来た傷を持つ人の前で『傷が好き』とは、さすがに言えないので物語で描こうと思いました。第二次世界大戦のときに戦傷による症例が増え、創傷治療と形成外科手技が発展したそうです。今ある治療の技術が戦争という大きな暴力によるものもあるのかと思うと皮肉に感じます。私自身は、傷と傷跡は少し違うものと思っています。今回、カバー写真に石内都さんの写真を使わせてもらったんですね。石内さんは傷跡を美しいものとしてとらえていて、『Scars』や『INNOCENCE』といった人の体の傷を撮った写真集を出版しています。傷って、たとえば、ある傷が原因で亡くなってしまった場合、そのぱっくり開いた傷は永遠に治らないですよね。でも、傷跡になるということは、その体が生きようとした証なんですよ。それはやっぱり私にとっては命の強さ、美しさだなと感じるんですね。生きていたらネガティブな出来事は絶対にあるし、いじめや暴力の被害者、あるいは自分が思いがけず加害側になるときもあるわけです。そういう痛みを体は飲み込んで生きていくんだなと。心はそれが結構難しいんですけど、体だけでも飲み込んで生きてきたんだというひとの歴史として、本作が描けていたらいいなと思います」

「からたちの」では、傷跡ばかり描く画家が登場する。その画家が、生傷は描かないのかと言われて、こんなふうに答える。〈私が描きたいのは生き延びたあかしだから。死体の傷口というのはひらいたままだ。(略)だから、これらは生者の勲章だ〉。

「その画家の主張は、私の主張と被るところは大きいです。彼が祖母の言葉を一度引用したあとに、否定しますよね。〈祖母が言ったんだ。男の傷は勲章、でも女の傷はただの傷。私は違うと思った〉と。女性の傷は、昔で言う“きずもの”の傷ですよね。実際、女性の傷と男性の傷では周りの扱いが違ったりしませんか。『慈雨』でも、お父さんが娘が小さかったときに傷を負わせてしまった罪悪感を引きずっている。お母さんなら、娘の体を同じ女性として見られるけれど、お父さんは男性だから、無自覚に女性の体に対して違う意識が働く。どうしてもジェンダー的なものが絡んできてしまうんだなと」

 10編には、見える傷も見えない傷も、両方描かれる。

「この連載を始めるに当たって、いろんな人に『傷はありますか?』と聞いてみたのですが、みんなあるんですよね。それが面白くて。ただ、気にしてない人が多かったです。ずっとあるから、いつの間にか慣れていく。見える形の傷って、そういう風に慣れていけるんだなって思って。一方で、目に見える傷を描くということは、結局、目に見えない心の傷につながっていくのだなと、書き進めるうちに理解していきました。見えない傷は、ふとしたときに蘇って痛みはいつまでも鮮烈だし、『本当は、あのとき、私、傷ついていたんだな』と、うんとあとになってから初めて気づくこともありますしね」

千早茜(ちはや・あかね)

2008年『魚神』で第21回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2013年『あとかた』で第20回島清恋愛文学賞を、2021年『透明な夜の香り』で第6回渡辺淳一文学賞を、2023年『しろがねの葉』で第168回直木賞を受賞。食にまつわるエッセイも人気。
X:@chihacenti

文=三浦天紗子
撮影=平松市聖

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