「自分の弱点を見つめ直して毎回 フィードバックをすることが大切」 直木賞作家千早茜の執筆法
CREA WEB / 2024年5月10日 7時0分
千早茜さんの新刊は、傷や傷跡をモチーフにした短編集です。表題にもなっている「グリフィスの傷」という言葉を知ったことが、創作の大きなきっかけに。グリフィスの傷とは一体どのようなものなのか。
「小さな頃から傷跡に強い好奇心を持っていた」
「グリフィスの傷というのを知ったのは、10年くらい前。『透明な夜の香り』でカバーの作品を制作してくださったガラス作家の松本裕子さんに教えてもらいました。滑らかに見えるガラスの表面には、目に見えない微細な傷がたくさんついているそうなんです。理論上はガラスにはもっと強度があるはずなのに、無数にあるその傷のせいで、ちょっとした力で儚く割れてしまう。それがグリフィスの傷です。理系の人やガラス工芸の世界ではよく知られていることらしくて、でも私は初めて知って妙に惹かれたんですよね。いつかこれをタイトルにするんだ、と思って、メモにも残していました」
響きの美しい言葉と、傷へのフェティッシュな感情が掛け合わさると、こんなふうに世界が広がるものなのか。各短編で描かれている世界の繊細さにため息が出る。
「私という人間は、小さいころから傷に対して執着というか好奇心というか、すごく貪欲さがありました。かさぶたや蚊に刺された跡、膨れてどす黒くなった血豆……、そういうのが出来ると中がどうなってるか、気になってしょうがなかったんです。うおのめをカッターで開けてしまって、父にめっちゃ怒られました。開けたときに血が止まらなくなって、『お父さーん、血が止まらないー』と廊下に血の跡を点々とつけながら半べそで走っていくみたいなことをしていましたね。打ち身の色の変化や、切り傷から血ではないものがしみでてくるのも観察して楽しんでいました。本当は、いろんな人に『どこかに傷跡残ってる?』『その傷どうしたの?』と聞いて回りたいくらいなので、今回は、取材という名目でこれ幸いと、傷を見つけたら即、聞いたりして。みんな案外、どんなふうに負傷したかも忘れていないし、ケガや手術の状況も結構細かく記憶しているんだなあと、興味深かったです。もちろん、若干、罪悪感はあるんですよ。SNSでスイーツが好きとは書けるけれど、傷が好きとかは言いにくい(笑)」
読んでいて圧倒されるのは、傷や傷跡が、ストーリーに有機的に結びついているからだ。たとえば、「林檎のしるし」では、ヒロインは、ふとしたきっかけから同じ会社の既婚者男性と飲み歩くようになる。心の距離が近づいていくその矢先、男性は酔っ払って寝ている間に妻が用意した湯たんぽで低温熱傷に。それを機に、関係は変わり始め……。
「火傷というほど熱した恋心でもない。けれどぐずぐずしたダメージはあって、低温火傷みたいだなと思ったんですね。そんなふうに、連想ゲームのようにストーリーを練っていきました。どんな傷を取り上げるかは、医学書に首ったけで考えていきました。比較的軽い切創から始めて、だんだん複雑な症例を取り上げて……。わりと医学書の流れのままです。趣味と実益が重なったテーマなので、医学書を眺めていたら『こういう作品、永遠に書けるな』と思いましたね。唯一、書ける自信がなかったのは、美容形成の話です。取材にも行って、先生のお話はとても面白かったのですが、掘り下げていくと、私自身があまり肯定的な感情を持っていないなと気づいたんですね。でも、世の中には必要な人もいます。無理して肯定的に書くのも否定的に書くのも違うし……と迷った末に浮かんだのが、『あおたん』。入れ墨のおっちゃんの話ですね。そこから外見を変えることについて入り込めました。」
「料理をしているときが一番カリカリしている」
千早さんは、過去のインタビューでも、新作を執筆する際に必ず何か課題を設定するのだ、と答えている。本作では、何を自身の課題としたのだろうか。
「今回は、全編、主人公に名前をつけないで空白のまま書く、というのをまず決めました。誰の物語であってもいいように。やってみたら、結構書きにくいものだなと思いました(笑)。長編ではなく30枚くらいの短編だったから出来たことですね。あとは、自分の得意技を比較的抑えてみようというのがありました。よく“五感に訴えてくる文章”と言われるんですね。読んでいると、匂いがしてくるとか、お腹がすいてくる、色が見える……レビューにもそう書かれたりしますが、一編がこのくらいのボリュームしかないのに五感表現や描写ばかりに枚数を割くとバランスもおかしくなってしまうなと。フェティッシュに傷の描写全開で描きたいという我は抑えめに、そして出来るだけストレートに、切れ味を意識しました。今まで私の書き方を好きだと言ってくれていた読者の方は満足してくれるのかなという企みがあります。でも、血の匂いは誰でも、特に女性は知っているものですし、ケガしたことがない人も、体の痛みを味わったことがない人もいないので、細かく書かなくても伝わると思っています」
とはいえ、課題をクリアすることを至上命令のようにはしていないのだとか。
「クリア出来なかったら、出来なかった理由があるわけです。そうしたら次に、なぜ出来なかったかと考えて、自分はこういうところが弱点なんだなと理解する。ならばそこを克服するために、今度はこの作品でこうやってみようと、新しい課題を作るんです。課題の達成度より、そのフィードバックの方が大事だと思います。逆に言えば、振り返ったときに冷静に自分で判断出来ないというのは、作品に対しておかしな姿勢で挑んでいたり、視野狭窄を起こしている証拠なので、そこでまた軌道修正したり。書くという仕事はどこまでいってもひとり。ひとりで見つめ直すことが出来ないと、たぶん続けていけないんじゃないでしょうか」
「課題を作り、フィードバックをする」というスタイルで、書き続けてきた千早さん。ちなみに、小説以外にも同じ姿勢で臨むのだろうか。
「わりとそうですね。いちばんは料理。ちょっとのろけですけど、うちの夫が、私の料理をめちゃくちゃ褒めてくれるんです。『なんでこんなにおいしいの』って。『毎回、次はどうすればもっとうまく出来るか考えて作ってるからだよ』と答えると、『毎回ってすごいよ。ふつうは毎回なんて考えないでしょ』とまた褒めてくれる。私自身、惰性で料理をするというのに嫌悪感があって。惰性で作るなら作らない方がまし、食材にも失礼だしと思っています。現代は作らなくても食べる方法はいくらでもありますし、作るなら、作りたいという気持ちで真剣に取り組みたいです。
うち、猫がいるんですが、『遊べ』とか『おやつくれ』とかアピールしてきてしょっちゅう仕事の邪魔をしてくるんですね。でも、あまり気にならないんですよ。仕事中に、夫に話しかけられても全然平気なんですが、料理中に話しかけられるのはものすごいカリカリします。料理しているときの私がいちばんカリカリしてるんじゃないかな(笑)」
千早茜(ちはや・あかね)
2008年『魚神』で第21回小説すばる新人賞を受賞し、作家デビュー。2013年『あとかた』で第20回島清恋愛文学賞を、2021年『透明な夜の香り』で第6回渡辺淳一文学賞を、2023年『しろがねの葉』で第168回直木賞を受賞。食にまつわるエッセイも人気。
X:@chihacenti
文=三浦天紗子
撮影=平松市聖
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