彼らは人生における大いなる煩わしさから解放されている。小林聡美が“美しく毛深い全裸”の猫を羨む理由
CREA WEB / 2024年5月26日 11時0分
コロナ禍前から半分隠居状態、同居の猫とも少々ディスタンスあり気味な関係。たまに出かけることもあるが、基本的にひとりで過ごす。事件と呼べるほどのことは何も起きない極めて平穏な日々。
そんな生活の中でふと見つけた「茶柱」のような、ささやかな発見や喜びを綴った、小林聡美さんの新刊『茶柱の立つところ』。
本書の中から、猫好きとして知られる小林さんが、猫への憧れを明かしたエッセイ「猫の毛皮」を特別に公開します。
猫の毛皮
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ユニクロのセーターが何十枚も買えるくらいの値段のセーターを買ってしまった。
「買ってしまった」というくらいだから「やっちまった」という気持ちも少なからずあるのだろう。ここ数年、服を買うために店を渡り歩くのが億劫になってきているところに、新型のウィルスが流行してから人と会わない生活が続き、はっきり言って、もう、服、いいだろう、という気分で過ごしていた。久しぶりに足を踏み入れたきらびやかな百貨店の雰囲気に、逆上してしまったのか。こういうのもリベンジ消費というのか。店員さんも、うまかった。
「わ。ベイジュもお似合いでしたけど、このグリーンも、わ、すごくお似合いです」
「ホント。こういうグリーンはお顔がくすんでしまうかたもいらっしゃるんですけど、お客さま、お色が白くていらっしゃるから、ホント」
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マスクをしたまま試着室の前で棒立ちの私を二人がかりで褒めちぎる。普段だったら入らない高級なお店だが、とにかく逆上していたので、陳列されたいかにも品物の良いセーターの前に立ち止まり、うっかりナデナデしてしまったのがこの顚末だ。逆上しているもんだから、そのうち褒めちぎる店員さんたちに勝負を挑まれているような気分になってきて、私の中のいらぬ負けん気が頭をもたげ、
「じゃ、グリーンで」
と、いっそ勝負をつけるようにギラリと財布からカードをだした。おかしい。明らかに頭がおかしくなっていた。そのセーターは確かに肌触りも良く、色も素敵で、まあ冷静に見たところ私に似合っているといえば似合っていた。しかしだ。いってみればたかがセーターだ。その金額は私の中では、セーターに支払う金額ではなかった。家に帰って袋を開けたら、そこには肌触りの良いきれいなグリーンのセーターが一枚、ただあるだけだった。年齢を重ねていくにつれ、自分の着たい服がなかなか見つからなくなり、もう、一体何が着たいのか、何が似合うのか、よくわからなくなっているところにきて彷徨う百貨店は、きわめて危険地帯だ。
あまりに美しい「毛深い全裸」
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常々、猫は羨ましいと思う。生まれてから死ぬまで、一枚の毛皮で通す暮らし。それも自分で選り好みしたわけではなく、生まれたそのままの毛皮だ。うだるような暑い夏の日などは、鼻の頭と肉球くらいしか地肌の出ていない体で大丈夫かと心配になることもあるけれど、冬は太陽のぬくもりをたっぷりとその毛皮に蓄えてほかほかしている。ときどき、なにげなく触ると、アっツっ!と火傷しそうなくらい熱くなっている時もある。すごい蓄熱性だ。
自分で選んだ毛皮ではなくとも、おそらく彼らに不満はないだろう。それ以前に自分の毛皮の、複雑な模様や魅惑的な色の全貌を生涯気にすることもなかろう。それだけで人生における大いなる煩わしさから解放されているといえるだろう。朝起きて眠るまで、眠っている間さえも、一枚の毛皮のみ。何を着ようか、どう着ようか、という問題に悩まされることは彼らにはないのだ。見方によっては「毛深い全裸」ともいえるが、あまりにも美しい毛深い全裸だ。
いっそ私も着るものの煩わしさから解放されてのびのびと全裸で暮らしたいくらいだが、毛深くもないので全裸の冬は間違いなく致死必至。特に、寒さに弱い私は、真冬のちょっとした外出で顔や耳に蕁麻疹ができる。寒冷蕁麻疹というやつだ。これには三十代後半から悩まされ続けている。顔や頭を暖かくガードしていても、気がつくと足先や太ももに発疹が。だから冬の服装は、何をおいても暖かさ重視ということになる。着ぶくれという言葉は私のためにあるのでは、というほどレイヤー命である。マトリョーシカか私か。
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できれば、冬の外出は上下ダウンのセットアップが理想だ。ダウンの軽さと温かさは、もしかしたら猫の全裸に匹敵する快適さかもしれない。さすがに東京のお洒落な界隈を上下ダウンのセットアップでうろうろしているのは気が引けるが、近所の買い物は決行することもある。特に下半身にダウンのパンツをはいて歩いていると、まるで何もはいていないような身軽さで、一瞬「はき忘れた?」と不安になるほどだ。しかしダウンのセットアップとは。あまりに色気がない。そんな恰好は、南極観測隊か冬山登山隊くらいしかしないだろう。でも、もし、ほどよいボリュームのお洒落なダウンのセットアップがあったとしたら、是非購入して冬の間中それで過ごしたいくらいだ。
お洒落に我慢は必要、とはいうものの、体を壊してまでお洒落に心血注ぐのは十代まで。真冬に生足でソックス、体育の授業は半袖にブルマー、という中学時代が信じられないが、若さとはそういうものなのだろう。中には体質的に暑がりで、私くらいの年齢でも真冬にセーターから胸の谷間をのぞかせているご婦人もいるが、そういうご婦人には私のように着ぶくれている人間はとてつもなく野暮に見えるに違いない。いや、男性から見ても不気味だろう。だがそこは私も譲れない。寒いのは嫌だ。
そんなことを言っていたら、着たい服がどんどんなくなってきて、探すのにくたびれてきて、もう、服、いいだろう、となって、百貨店にて逆上、ということになったのだった。久しぶりに「やっちまった」セーターだが、セーターそのものに罪はない。やっちまったことを、負の気持ちに落としたままそれを着たのでは、私もセーターも浮かばれない。せっかく私のところに来たのだから、愛着の一枚になるほどに着倒して、気がついたら、猫の毛皮くらいにいつも着てるよね、と自分で思うくらい楽しみたいと思う。
小林聡美(こばやし・さとみ)
1982年、スクリーンデビュー。以降、映画、ドラマ、舞台で活動。主な著書に『ワタシは最高にツイている』『散歩』『読まされ図書室』『聡乃学習』『わたしの、本のある日々』など。
[衣装クレジット]
ブラウス 63,800円、ジャケット 82,500円、パンツ 63,800円/すべてミナ ペルホネン(03-5793-3700)
文=小林聡美
写真=佐藤 亘
ヘアメイク=福沢京子
スタイリング=藤谷のりこ
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