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父の狂死、妹との近親相姦的関係…クリムトと同時代を生きた画家、エゴン・シーレの過激な半生

CREA WEB / 2024年6月19日 7時0分

 中野京子さんによる《名画×西洋史シリーズ》最新作がついに刊行! 本作『中野京子と読み解く クリムトと黄昏のハプスブルク』の舞台は、美とエロスと死の気配に満ちていた“ウィーン激動の時代”。クリムト、シーレ、ヴィンターハルターらの名画から、「良き時代の終末」を読み解きます。


ウィーンの暗部を描いたエゴン・シーレ


エゴン・シーレ『毛皮の襟巻をしたマリア・シーレ』(1907年 紙に鉛筆・水彩・ガッシュ・オペークホワイト 32.1×22.5cm)レオポルド美術館(オーストリア)

 1907年、クリムトのアトリエに痩せた十七歳の若者が訪ねてきた。今はウィーン美術アカデミーの学生だが、その前に一時ウィーン工芸美術学校にも所属していたことがあるのでクリムトの後輩だという。

 これがエゴン・シーレ(1890〜1918)だ。

 彼の持参したスケッチ帳に目を通したクリムトはその線描の巧みさに驚愕し、やがて展覧会への出品を促し、自分の雇っていたモデルも貸し、富裕なパトロンを紹介するなど、積極的援助を惜しまなくなる。

 二人の年齢差は二十八歳。親子ほど離れていた。シーレは実父を深く愛し、三年前のその死に激しい衝撃を受けていたので、クリムトの中に芸術の導き手というばかりでなく、愛した父の再来をも求めたのかもしれない。

 シーレのクリムトへの傾倒の好例は、同年に描かれた母親の肖像『毛皮の襟巻をしたマリア・シーレ』。少しやつれた感じの、だが美しい中年女性の横顔は、クリムトの初期作品と言われても通りそうだ。画面左上のサインまでウィーン分離派風を装っている。

 クリムトを崇拝し、そのスタイルを真似た作品ばかり描いていたため、シーレはクリムト・グループから「銀のクリムト」というあだ名をたてまつられてしまう。どうやらそのあだ名を気に入っていた節もあるが、次第に独自色を模索し、ついには際立った個性を獲得するに至る。

 それは黄昏のウィーンを煌びやかな黄金で飾ったクリムトとは対照的に、ウィーンの暗部、いわばクリムトが巧みに覆った側面をことさら強調するものだった。たとえばクリムトはオールヌードであっても性器をあからさまに描くことは決してなかったが、シーレはまるでそこが一番重要であるかのように剝き出しにしてスポットライトを当て、露悪的、暴力的、且つどこか病的に強調し続けた。

 現代人の目からは、シーレが同時代人だったことでクリムトはいっそう引き立つが、逆にクリムトによってシーレが引き立つようには感じられないのはなぜだろう?

父の死がもたらした肉体への執着


シーレ『着席した男性のヌード(自画像)』(1910年 油彩・オペークカラー・キャンバス)レオポルド美術館(オーストリア)

 シーレは、ウィーン北西30キロの距離にある古都トゥルンで生まれた(今ではエゴン・シーレ美術館がある)。

 父はトゥルン駅長で、一家は駅舎の二階に住んだ。鉄道は国営だったから父は関連の証券も保有し、比較的豊かな中産階級の暮らしを送ることができた。子どもは早逝した二人をのぞいて4人。シーレは姉二人妹一人にはさまれた唯一の男児だった。ハンサムでおしゃれな父は野外劇パレードでコスプレをしたり、一人息子を可愛がって汽車や馬車に乗せての小旅行など贅沢を教え、レール付きの大きな鉄道模型も与えた。日々、汽車の音を聞き、汽車を見て育ったシーレが模型に夢中になり、また鉄道の絵も飽きず描いたのは必然だろう。

 だが学校でのシーレの出来は芳しくなかった。勉学に興味はなく、友達もできない。絵だけは突出して上手いが、周りからは浮いていた。そのうち引きこもりがちになる。期待を裏切られた父が絵を描く時間を減らそうと、シーレの汽車の絵を燃やしたことさえあるが無駄だった。絵に対する情熱は誰にも止められず、題材の幅が広がっただけだ。

 父に異変が起きたのは、シーレが十二歳頃だ。結婚前から罹患していたと思しき梅毒が原因だった。ツヴァイクの『昨日の世界』によれば、当時のウィーンの若者の一、二割が梅毒に罹患していたというから、この時代は性病の時代でもあったのだ。

 ゆっくりと父の梅毒は脳へまわり、仕事ができなくなって退職した。一家は近くの町へ引っ越し、生活は暗転する。そしてシーレが14歳の時、ついに父は狂死した。大好きだった父親が全く別人格となって崩壊してゆく様を目の当たりにした思春期の少年に、それがどれほどの破壊力であったかは想像に難くない。

 同じような形で祖父と父を亡くしたデンマークの童話作家アンデルセンが、自分もいつか頭がおかしくなるのではと生涯怯え続け、その恐怖が「生きたままの埋葬」という強迫観念の形を取ったことが思い出される。アンデルセンは旅先のホテルへは常に脱出用ロープを持参し、ベッドサイドテーブルの上には「死んでいるように見えるかもしれませんが、まだ生きています」とメモを置くのを忘れなかった。

 シーレはといえば、彼が初めて自画像を描いたのは父の死の直後である。その後二百点もの自画像を描くことになるのだが、画中の彼は常に鋭い視線をこちらへ向け、その体は月日が経つにつれ痛みの記憶が鮮明になるかのように各部が針さながらに尖り、見る者をひりひりした感覚に陥れる。彼にとっては肉体、それも性器への執着は、父の梅毒と関係なしとは言えないだろう。

 父没後、母はシーレの画家志望にいっそう反対した。プロになっても自活できるとは思えず、鉄道エンジニアのような地道な職について一家を支えてほしかった。しかしシーレはそんな母の気持ちを逆撫でする行動を取る。15歳の時、2歳下の仲の良い妹ゲルトルーデと二人で泊まりがけの旅に出たのだ。

 以前から彼女をモデルに絵を描いていたが、この度はヌードモデルとして連れて行った。これに関して、兄妹は近親相姦的関係だったと考える批評家が少なくない。真相はわからないものの、二人とも普通の感覚と違っていたことは間違いあるまい。母親の心配と怒りも当然だろう。

 16歳でギムナジウム(進学校)を終えたシーレは首都に上り、工芸美術学校にしばらく在籍した後、ウィーン美術アカデミーを受験して最年少での合格を果たす。幸いにも裕福な叔父が後見人となってくれたので、想像するほど貧しいウィーン生活ではなかった。ちなみに前にも触れたが、この翌年の1907年に18歳のヒトラーが同校を受験して落ちている。翌年に再度挑戦し、また落ちた。倍率は4、5倍程度だったらしい。

スキャンダラスな生活の果てに


グスタフ・クリムト『ヌーダ・ヴェリタス』(1899年 油彩・キャンバス)オーストリア演劇博物館

 シーレがクリムトに接近したのは、アカデミーの授業に早々と幻滅してのことだ。学生はアカデミー外で作品展示をしてはならない、と禁止されているにもかかわらず、小規模ながら個展を開き、また1909年にはクリムト・グループの大展覧会である「第二回クンストシャウ」にも四作を出品した。

 残念ながらそれらの作品が話題になることはなかったが、同時に展示されたゴッホ、ムンク、ゴーギャン、マティスなど国外の新しい潮流にシーレは大いに刺激を受け、このままでいいのかと自作を問う良いきっかけになった。クリムトがマカルト様式から脱却したように、シーレもまたクリムト作品から抜け出ようともがき始めたのだ。

 この年、アカデミーを中退している。もうここで学ぶことは何もない。クリムト作品からも離れねばならない。それはできる。だがクリムト本人から離れるのはさらに二年近くかかった。クリムトの包容力によるものであろう。とはいえ、学校で孤立したように、クリムト・グループとの交流も居心地は悪かった。若すぎたせいもあるし、またきちんと古典美術を学んでいなかったため、彼らの芸術論に全くついてゆけないのだ。疎外感は募り、二十一歳を迎えた時、彼はとうとうウィーンを去った。

 一人でではない。クリムトのモデルだったヴァリ・ノイツェルとすでに恋人関係になっていたから、彼女を伴い、母の故郷クルマウ(現在はチェコだが、当時はオーストリア=ハンガリー帝国)に移住した。ところがわずか三か月後には石もて追われるごとく追放されるのだから、田舎の人々にとって彼らの日常の暮らしはよほど不品行に見えたのだろう。

 仕方なく二人はウィーン郊外のノイレングバッハに移る。ここはシーレの叔父の別荘がある町だった。どこへ移ろうとシーレは等身大の大鏡を持ち運び、それに自分を映して飽きることはなかった。自画像を描くばかりでなく、カメラでも己の姿を多数撮っており、まさにナルシシズム全開である。オールヌードはもちろん、自慰行為すら描く露悪趣味もまた、自己愛の裏返しなのだから。

 ヴァリのヌードも多数描いたが、彼のアトリエはなぜか地元の少女たちの溜まり場になった。自然にそうなるはずもないのだから、もしかするとヴァリが声をかけ、少女たちにわずかなお小遣いでヌードモデルをさせたのではないか。画面の彼女たちは彼の自画像同様、肉が削がれ、輪郭は尖り、壊れた人形みたいにぎくしゃくし、性器を露出し、異様なエロティシズムを醸し出している。シーレは生活のためにそれらをポルノ画として売りさばいていたのだろうか。そうだとしてもあまり驚かない。

 シーレの少女ヌードの過激さを見ると、クリムトの女性美がいっそう際立つ。彼はそもそも少女を裸にはしなかった。成熟した女性の得も言われぬ曲線や、なめらかでやわらかな肌を理想化した。男である自分とは全く違う不思議な美しい生きものとしての女性を愛した。『ヌーダ・ヴェリタス』のような女性ヌードは、自分に溺れた男には決して描けないだろう。

 さて、少女たちの溜まり場だったシーレのアトリエに、ある日、13歳の家出娘がころがりこんで来た。シーレの言い分によれば、祖母のもとへ送ろうとしていた矢先だというのだが、結局その子の父親が訴えて警察沙汰になってしまう。裁判が開かれ、「誘拐」「淫行」「猥褻」の罪が争われたが、前者二件は無罪、猥褻物陳列罪では有罪になり、シーレは三週間以上も拘留された。

 警察がアトリエにある作品の多くを猥褻物として燃やした時には、芸術家としての誇りは大いに傷つけられたかもしれないが、シーレのこのスキャンダル自体は、大いなる性の都ウィーンではさしたる問題にならなかった。

出所後シーレはウィーンにもどる。長男気質のクリムトは彼にパトロンを紹介し、優しさを見せている。クリムトにとってシーレは、どこか放っておけない可愛げがあったのに違いない。

中野京子(なかの・きょうこ)

北海道生まれ。作家、ドイツ文学者。2017年「怖い絵展」特別監修者。西洋の歴史や芸術に関する広範な知識をもとに、絵画エッセイや歴史解説書を多数発表。著書に『名画の謎』『運命の絵』シリーズ(文藝春秋)、『そして、すべては迷宮へ』(文春文庫)、『怖い絵』シリーズ(角川文庫)、『名画と建造物』(KADOKAWA)、『愛の絵』(PHP新書)、『名画で読み解く 12の物語』シリーズ(光文社新書)、『災厄の絵画史』(日経プレミアシリーズ)、『名画の中で働く人々』(集英社)など多数。

文=中野京子

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