開演1時間前の“ドタキャン騒動”大バッシングの風向きを変えた、沢田研二とファンの「関係」
CREA WEB / 2024年7月18日 7時0分
「己を貫く強い人」か「融通が利かない頑固者」か――。
歌手として一生懸命、自分の主義を貫くのにも一生懸命、仲間とつながり続けるのも一生懸命。評価が上がろうが下がろうが。
ジュリーの活動から「自分を更新する生き方」を考える『なぜ、沢田研二は許されるのか』(田中 稲著/実業之日本社)より、一部を抜粋し掲載します。(前後編の後篇)
プライドとモチベーションの位相
近年、沢田研二の存在を広く世に知らしめるきっかけになったのが、2018年10月17日に起きたさいたまスーパーアリーナでの“ドタキャン騒動”だった。
午後5時開演予定の公演で、7,000人のファンがすでに会場に集まり開催を待っていたにもかかわらず、4時頃に急きょ中止がアナウンスされた、というもの。まさに土壇場での公演キャンセルで、どう考えてもファンは気の毒、ジュリーにとっても、最悪のエラーとなるはずだった。
沢田研二は事前に所属事務所とイベント会社から9,000人の集客と聞いていたが、実際は7,000人程度しか入っていなかったという。しかも、座席(の一部エリア)が死角でもないのにつぶしてあったことをリハーサルでモニターを見て知り、最終的に自身で中止を決めたというのだ。開演の1時間前まで中止の告知がずれ込んだのは、公演をしてほしい事務所やイベンターとの押し問答が続いてしまったのが理由だった。
この出来事は大きなニュースとなり、世間を騒がせた。SNSでは「ただの強情」「観客が一人でも演じるのがプロ」という厳しい意見が飛び交った。後日ワイドショー番組でも数多取り上げられ、彼は注目を一身に浴びた。私もニュースを見て驚き、コメントを閲覧した。沢田研二の決断そのものより、「コンサートってこんなにギリギリで中止できるんだ」ということに先にビックリした人も多かった。
しかし、この騒動が興味深かったのは、擁護派も多かったことである。テレビでは、コンサートやイベントの経験がある多くのコメンテーターが、自身の体験と重ねて、観客が集まらない中でイベントをするつらさに言及し、沢田研二に理解を示した。さらに、落語家の立川志らくはTBS系列の情報番組『ひるおび!』で「文句を言っていいのは当日行ったお客だけ」と持論を展開した。
ビートたけしは、当時レギュラーを務めていたTBS系列の情報番組『新・情報7daysニュースキャスター』で、「まあね、我々みたいにジジイになったんだから、ワガママになるんだよ。年取って有名になって売れてくると、だんだん図々しくなるんだよ、我々。私もそうですけど」としながらも、「よくこれだけできるね。俺だったらとっくにやめてるよ、疲れちゃって」と、全66公演を回るライブツアー『沢田研二 70YEARS LIVE「OLD GUYS ROCK」』の内容に感心していた。
ゆっくりと坂を下りていくジュリーの哀愁
確かに沢田研二のツアーは公演回数がとても多い。さいたまスーパーアリーナも、7,000人分は売れているのである。決して不人気ではないのだ。普通に考えれば、そのまま開催したほうがダメージは少なかったはず。沢田研二は誰からも批難されないし、かなりの空席が出るほどチケットが売れなかったことも、コンサートに訪れたファン以外は気づくことがなく、さほど騒がれることはなかっただろう。
けれど、彼はキャンセルを選んだ。ファンだけでなく、自分にも大変リスキーな選択をしたように見えるが、だからこそ、良し悪しは別として、満席の中で歌うことにこだわる大スターのすさまじいプライドと覚悟を見せつける結果にもなったのだ。もちろん、この5年後にリベンジが成功したから前向きに思い出せるのではあるが。
沢田研二は翌10月18日、自宅前に集まった報道陣を横浜市内の公園に移動させ、そこで謝罪会見を行った。これはニュースでも流れ、久々にテレビで沢田研二の姿を見たという人も多かったようである。
大嫌いなマスコミの前に自ら出て正装で釈明、謝罪をすることを選んだことで、彼にとっても、キャンセルという決断が断腸の思いであったことが伝わってくる。
「僕にさいたまスーパーアリーナでやる実力がなかった。本当に申し訳なく思っています」
「ファンの方たちには甘えさせてもらっているのかもしれないけれども、初めて僕のコンサートを見に来られた方もたくさんいらっしゃると思うので、そういう方たちには本当に申し訳なかった」
「僕はやるのが目的ではない。いっぱいの観客の中で歌うのが目的と。やるならいっぱいにしてくれ、それが無理なら僕はやりませんと。そりゃ無理だというのなら断ってくれといつも言っている」
この直接の謝罪があるとないとでは、大きく印象が違っただろう。対面での謝罪は、表情や声からさまざまなことが伝わる。スポーツ報知ウェブサイト内のコラム「コラムでHO!」に掲載された記事(2018年12月21日配信)では、最初こそ「呆れた」としていた記者が、その27分間の会見を振り返り、感想をこう記している。
「録音したレコーダーを聞き返すと、弱々しいジュリーの声にはファンへの申し訳なさと自身の信念がにじみ出ている。会見を終え、ゆっくりと坂を下りていくジュリーの哀愁漂う背中は今でも忘れられない」
そして、ドタキャンから3日後に開催された10月21日の大阪狭山市SAYAKAホールで、沢田研二は冒頭のMCにて、改めてドタキャンに触れ「沢田研二の実力不足です」と謝罪しながら、次のような言葉でリベンジ宣言をしたのである。
「自分は厄介な人間です。あの日僕は立ち止まりました。神経が違和感を覚え、心が揺れ、体幹が大きくブレました。今回も僕の行動により、さいたまスーパーアリーナにお越しいただいたお客様に不快な思いをさせたのは事実です。これはすべて決断を下した沢田研二の責任です。(中略)僕は旗を揚げました。それは白旗ではありません。情熱の赤い旗です。もう一度さいたまスーパーアリーナの客席を満杯にするという新しい目標ができたことを嬉しく思っています。(中略)ここを新たな出発にして、これをモチベーションに、あと10年はやりたいです」
「席が埋まらなかった」という、アーティストにとって屈辱的な現状も含め、自分の言葉で説明、謝罪。さらに間を空けず、すぐにリベンジを大切な人(ファン)に宣言する。
「情熱の赤い旗」という言葉も、「ファンとの約束を忘れない」という意思表明の役割を果たすのに、非常に有効なキーワードとなった。
そして何よりも、「これをモチベーションに10年続ける」という、さらなる長い活動を約束する。これはどれだけ、ファンにとって頼もしい言葉だっただろう。
失敗をしたら、その再挑戦を次の目標にする。しかもすぐに。そうすることで、ネガティブな出来事は、一瞬にして、自身を駆り立てるモチベーションとなる。応援してくれる人のテンションも上げる。失敗が許されず、やり直しがきかないと思わされている今の時代、なんとも明るい切り替え方に気付かせてもらった気がする。
そういえば、彼は1985年のインタビューでも、こう答えていた。
「いつだって修正可能の人生だもの」(前掲『コスモポリタン』1985年12月20日号)
人生は、そう簡単に詰まないのだ。
理解者(ファン)との向き合い方
しかし、これらのトライ&エラーが多くの人を振り回しているのも事実。それでも沢田研二が「我が強い、面倒な職人気質のアーティスト」で終わらなかった最大の理由は、ファンとの強い信頼関係だ。
ドタキャン騒動では、1時間前の公演中止にもかかわらず、怒っているファンがほぼおらず、それどころか、ほとんどの人が「ジュリーが健康ならそれでいい」と安心する様子を見せたのだ。
ワイドショー番組でこの様子が流れたことで、激しいジュリーバッシングの風向きが変わった。彼の謝罪も大きな影響があったが、それ以上に、ファンたちの姿は世間を納得させる威力があった。そして、これほどまでにファンに許される沢田研二の歌手人生と現在の魅力について世間は強く関心を持つに至ったのである。
2018年11月28日のかつしかシンフォニーヒルズ・モーツァルトホールでのライブでは、
「さいたまスーパーアリーナに来た人たちが文句を言わないと信じられた。それを(信じられた)僕は嬉しかった。ライブで、肌で感じるファンの人の気持ち、あの場所に来てくれて、それを許してくれたファンが偉いと思う」
とジュリーがMCで語ったというが、本当にその通りだろう。プライドを貫いたのは、ジュリーだけではない。ファンでもあるのだ。
沢田研二とファンとの関係は、本当に不思議である。前述した通り、彼は客席に向けてきつい言葉で注意することも多いという。しかし、それは今に始まったことではない。ジュリーを追い続けてきた國府田(こおだ)公子の著書『沢田研二大研究』(青弓社)では、ソロデビューして間もない1972年のニューACBライブおいて、次のような発言が書かれている。
「またファンの人たちとの間にはね、許し合わないかんのやけど僕はそれをしとうないたちや。いまするといかんと思うわけなんや。近い将来っていうかね、もうちょっとたったらどんなことでも許し合える、そういうファンとの間柄になれると思うから、いまは一生懸命こうやない、こうやない、握手なんか関係ないんや、サインなんか関係ないんや言うとるわけ」
いわゆる“塩対応”タイプである。それでも、彼の才能、姿、歌声、パフォーマンスに惹かれ、50年以上応援し続けるファンも多い。その関係はもはや戦友のようだ。ドタキャン騒動でお互いを信じたあの展開こそ、1972年の頃から彼が目指した「許し合える関係」の一つの到達点といえるのかもしれない。
そして、リベンジ宣言から5年後の2023年、さいたまスーパーアリーナで行われた75歳の『まだまだ一生懸命』ツアーファイナル・バースデーライブは、見事1万9,000人分のチケットが完売。そのエネルギッシュなステージに大歓声が響き、5年前は痛烈な批判にまみれたTwitter(現・X)が、称賛の嵐で埋め尽くされていた。
沢田研二とグループ・サウンズ時代からの盟友であり、『時の過ぎゆくままに』をはじめ彼の名曲を作ってきた大野克夫は、彼の原動力は「音楽への尽きない愛」と語っている。「彼には、精神的な強さもある。なにしろ僕の前で弱音を吐いたり、不安を口にしたことがない。悩みやつらいこともあったはずだけど、自分のなかで解決していたのでは? 声帯も鍛えていたと思うけど、そういう姿は見せたこともないですね」(クレタ・パブリッシング『昭和40年男』2021年6月号)
本気で戦ってきた人がいくつになっても一生懸命自分を磨き、本音で丸ごとぶつかってくる。その迫力と誠実さを、軽んじたり無視したりできるわけがない。
妥協したほうが楽な場面もそれをせず、周りに合わせて立ち振る舞うより今の自分を素直に伝えることを選ぶ。強いこだわりを持つ人は正直面倒くさくもあり、実際親しい人にこのタイプがいたら、振り回されヘトヘトになりそうだ。けれど、そのこだわりによって生まれた素晴らしい結果を見せられると、ああ、この人のすることをもう少し見続けたい、と思ってしまう。
今もライブに通い続けることを生きる目的として、沢田研二にパワーをもらっている人は大勢いる。
好きなことを一生懸命する人がいる。それに惚れこんだ人は、面倒な部分も理解し、応援する。応援されている人は、自然とその人を信頼する――。そういったサイクルが長く続き、しかも大きくなり、結果、こんな幸せな大逆転につながるなら、年を取るのも悪くないな、と思えるのだ。
文=田中 稲
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