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みんなで橋幸夫の名曲を聴きながら 沼津の地で独自の生態系を保つ あんかけスパゲティを食べよう

CREA WEB / 2024年9月19日 11時0分

●CREA Traveller編集部だより Vol.003
Bridges|ミルトン・ナシメント

ここでしか味わえないパスタを堪能

 こんにちは。新加勢大周こと、CREA Traveller編集部スーパーバイザーのヤングと申します。


CREA Traveller 2024 Vol.3の表紙を飾るのはプロチダ島の美しいパノラマ。イモトアヤコさんはどこにも隠れていないので、「世界の果てまでイッテQ!」のファンのみなさんは安心してください。

 CREA Travellerの最新号「イタリア 理想の休日」の制作過程において現地取材に派遣されることのなかった筆者は、せめてもの代償行動として、イタリアにちなんだ看板を掲げた都内の店舗を歴訪、〈「イタリア」を「伊太利亜」と漢字で表記したくなる欲望からなぜ私たちは逃れられないのか〉という記事をものした。「伊太利亜」なり「伊太利」なりを名乗る店は、本当に多いのだ。



麻布台にある「伊太利亜亭」と浅草にある「伊太利亜のじぇらぁとや」。本来は片仮名で表記されるイタリアを漢字化し、こちらもまた本来片仮名で表記されるカフェテラスやジェラートは平仮名化している。

 そのリサーチの延長線上で、「伊太楼」なるスパゲティ専門店の存在を知った俺は、いてもたってもいられず、東海道新幹線に飛び乗った。なぜなら、この店は、静岡県の沼津にあるのだから。


JR沼津駅北口にある「伊太楼」。南口の「ボルカノ」と並び、沼津あんかけスパの歴史を紡いできた名店。

 ネットを駆使してもろもろ調査を続けると、南インド料理店「エリックサウス」の総料理長、稲田俊輔氏の発言にたどり着いた。氏は、数々の著書で知られる食文化研究家でもある。氏によれば、何でも、「伊太楼」をはじめとする沼津の数店には、名古屋発祥のあんかけスパの原初形態が残っているらしい。

 実は、名古屋においては、ある時期、ドラスティックな革命が起こり、あんかけスパは当初の姿からすっかり別物に変容。オリジナルのレシピをそのまま継承する店は、消え失せてしまったのだという。だが、距離のある沼津まではその影響が及ばなかった。稲田氏は、沼津のあんかけスパを、オーストラリア大陸でのみ生き残った有袋類に譬えている。


レバー、椎茸、玉ねぎをのせた、伊太楼の「カルーソ」1,100円 オペラ史上に残るテノール歌手、エンリコ・カルーソーが、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の近くにあったレストランでこのパスタのルーツとなる一皿を頻繁に食したことから、この名がつけられたという。

 スパイシー方面に進化した名古屋のあんかけスパに対し、「伊太楼」のそれは、あんかけのあんかけたる所以である甘辛さを保っている。茹で置き麺の食感も、アルデンテ至上主義に無言の異議を唱えているようでちょっと痛快である。まさに、和製洋食の粋。

 イタリアに対する日本、名古屋に対する沼津、その二重のガラパゴス的価値転倒が、この店の存在意義をことのほか高めざるを得ない。

伊太楼から伊太郎、そしてイタロへ

 ところで、「伊太楼」なる響きを耳にして、昭和の音楽愛好家がまず想起するのは、橋幸夫のデビュー曲「潮来笠」に違いない。つまり、潮来の伊太郎。


1960年にリリースされた「潮来笠」は、売上120万枚の大ヒットを記録。なお、最初にこの曲名を目にした橋は、「しおくるがさ」って何だろうと思ったそうである。確かに潮来(いたこ)はなかなかの難読地名である。筆者は子どもの頃、この歌の舞台は恐山だろうかと勘違いしていた。

 次いで、イタロディスコ。80年代のイタリアで生まれたユーロ感覚の濃い、すなわち水商売っ気が匂い立つダンスミュージックのジャンルである。その俗っぽさ、軽さ、いなたさゆえ、どうにも癖になってしまう魅力を有している。


左:D.D.サウンドのアルバム『1-2-3-4 ギミー・サム・モア』。ラ・ビオンダという姓の兄弟によるプロジェクトである。表題曲は日本でもヒット。このアルバムにも収録された「カフェ」は、東京パフォーマンスドール時代の篠原涼子がカバーしていたりする。
右:マッチョのアルバム『アイム・ア・マン』は、とにかく何かに急き立てられるかのごとく全編がエモーショナルだ。表題曲は、スペンサー・デイヴィス・グループの名曲をイタロ色に染め上げた名カバー。ユニット名とジャケットから伝わってくる通り、「Y.M.C.A.」でお馴染みのヴィレッジ・ピープルにも通ずるセンスを感じる。

 ここでふと思う。伊太郎=イタロという地口に導かれる形で、橋幸夫は、「潮来笠」をイタロディスコ化する構想を一瞬でも抱くことはなかったのだろうかと。

 70年代晩期のディスコブームは、我が国の歌謡界の大御所たちをミラーボールきらめくダンスフロアへと引っ張り出した。その最大の成功例が、三橋美智也である。代表曲「夕焼けとんび」「達者でナ」をディスコ化したシングル「Mitchie Fever」は、『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・トラボルタを気取ったジャケットが素晴らしすぎる。


三橋美智也「Mitchie Fever」。プロデュースを手がけたのは、テリーこと寺内タケシ。マルちゃん「激めん」のCMでは、この白いスーツ姿で「激れ! 激れ!」と叫んでいた。ミッチーは民謡三橋流の家元でもあり、細川たかしは、その弟子としては「三橋美智貴」を名乗っている。

 結論から言えば、橋幸夫が余計な色気を出してイタロそのものに触手を伸ばすことはなかった。しかしながら、ディスコサウンドは、別の形でちゃっかり採り入れている。それが、「股旅’78」。


橋幸夫「股旅’78」。近田春夫は、このシングルのリリース当時、「POPEYE」の連載コラムにおいて、その衝撃がいかほどのものであったかを詳述している。

 江戸時代のいわゆる渡世人が現代の東京にタイムスリップするという奇想天外な設定は、ピンク・レディーの諸作において荒唐無稽なSF的物語をお茶の間に届けてきた阿久悠ならでは。


CREA Traveller的観点からおすすめしたいピンク・レディーのアルバムが『ピンク・レディーの不思議な旅』。全曲の作詞を手がけた阿久悠の異能が大爆発している。ブラジル、フランス、アメリカ、エジプトなど、世界一周しながら恋をする女性の成長を描くコンセプトアルバムだ。ここに収録されたヴァージョンの「波乗りパイレーツ」は、ビーチ・ボーイズのブルース・ジョンストンがプロデュースを行い、ブライアン・ウィルソンらがコーラスに名を連ねている。

マカロニがヒップホップに与えた影響とは

 橋幸夫は、三度笠と合羽に長ドスを差しながらボトムスはパンタロンというエクレクティックな出で立ちで、四つ打ちのリズムにのせてこの物語を歌い上げる。まずはとにかく、YouTubeで検索して、このパフォーマンスを目撃してほしい。

 この楽曲の参照項としては、恐らく、「木枯し紋次郎」がある。市川崑が、西部劇のテイストを股旅物時代劇へと導入したこのTVドラマは、ウェットな情感を排したドライなテクスチャーが受け入れられ、大ヒットを記録した。ニヒルな主人公を演じた中村敦夫にとっても、一世一代の当たり役となった。


フジテレビ系にて72年に放送された「木枯し紋次郎」の主題歌「だれかが風の中で」。上条恒彦が歌うこの曲は、市川崑の妻である脚本家、和田夏十が作詞を手がけ、フォークシンガーの小室等が作曲を行っている。

 このドラマ放映の翌年に当たる73年、市川崑が監督したATG映画『股旅』が公開される。萩原健一、小倉一郎、尾藤イサオの3名を主演に据えたこの作品には、アメリカンニューシネマに通ずるひりついたリアリティがある。そもそも、「紋次郎」は、この映画のための予算を蓄えるため、また股旅物の撮影を予習するため、企画されたのだという。

 さて、井上忠夫、すなわち後に井上大輔と改名するブルー・コメッツ出身の作曲家が紡いだ「股旅‘78」のメロディーを聴けばおおよそ見当がつこうが、この曲には、本場アメリカの西部劇というよりも、イタリアの資本下、ヨーロッパにおいておびただしい本数が製作されたマカロニウエスタンの劇伴の影響がダイレクトに反映されている。

『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』など、エンニオ・モリコーネの手がけた映画音楽に象徴されるマカロニ風サウンドをディスコ化した先例といえば、インクレディブル・ボンゴ・バンドが72年に発表した「アパッチ」が挙げられよう。

 この曲は、そもそも英国のエレキインストバンド、シャドウズが60年に発表したヴァージョンがオリジナル。その時点でこの曲がモチーフとしたのは、54年に西部劇の本国アメリカで製作されたバート・ランカスター主演の『アパッチ』であった。

 しかし、60年代を通じてのイタリア製西部劇の一大ブームを経て、インクレディブル・ボンゴ・バンドによる新ヴァージョンは、スマートなシャドウズの演奏には感じられなかったマカロニウエスタン特有の荒々しさをまとうこととなった。


インクレディブル・ボンゴ・バンドが73年にリリースしたアルバム『ボンゴ・ロック』。「アパッチ」は、ここに収録されている。インクレディブル・ボンゴ・バンドは、ボンゴやコンガによってリズム面に極端なブーストを施し、それが、後世のミュージシャンからの評価を受けることになる。パリパラリンピックの閉会式におけるブレイキンのパフォーマンスでも、BGMに使われていた。

 匿名的なこのプロジェクトが演奏したこの「アパッチ」は、クール・ハークやシュガーヒル・ギャングを始め、草創期から現在に至るヒップホップのレジェンドたちにカバーされたり、ブレイクビーツの材としてサンプリングされたりしまくってきた(今まで気づかなかったけど、調べてみたら、エイフェックス・ツインやゴールディー、ミック・ジャガーもサンプリングしてるのね)。

 アフリカ・バンバータ曰く‟ヒップホップ国の国歌”とまで称揚されるこの曲のフィーリングに「股旅’78」は限りなく接近している。


ヒップホップのパイオニアたるアフリカ・バンバータといえば、クラフトワークの「ヨーロッパ特急」をサンプリングした「プラネット・ロック」が有名であるが、ここは、ジャケットのインパクトを優先して、ジェームズ・ブラウンとコラボレーションを行ったシングル「ユニティ」を挙げておこう。ちなみに俺は、四半世紀前、友人が関わっていた「TV Bros.」の取材現場に呼ばれ、当時まだシーモネーターと名乗っていたSEAMOと山本晋也監督がこのジャケットのポーズで2ショットを撮るところに立ち会ったことがある。

 なお、筆者は、99年にアフリカ・バンバータが来日した際、当時まだ新宿にあったリキッドルームで行った彼のDJプレイに掟ポルシェが乱入し、ステージ上でダンロップのゴルフバッグから取り出した日本刀(もちろん模造刀)を振り回すパフォーマンスを目にしたことがある。あれは、今考えれば、「股旅’78」をアップデートする試みだったのかもしれない(たぶん違う)。


ロマンポルシェ。の掟ポルシェが弊社こと文藝春秋より02年に上梓した奇書『説教番長 どなりつけハンター』。ここでも日本刀を構えている。うっすら察しつつある方も多いかと存じますが、私が編集に携わっております。ちなみに、装丁はグルーヴィジョンズ。

「チャン・ギハと顔たち」による達成

 マカロニウエスタンのサントラへの憧憬を自らの作品に焼き付けるという意味で、21世紀において最も着実な成果を挙げたのは、韓国のバンド、チャン・ギハと顔たちだと思う。彼らは、さまざまな音楽ジャンルを横断する広義の歌謡性というニュアンスの勘所をしっかりと押さえている。


チャン・ギハと顔たちが09年に発表したファーストアルバム『何事もなく暮らす』。3曲目の「オヌルド ムサヒ (今日も無事に)」は、「アパッチ」的な雰囲気に満ちた名曲。残念ながら18年に解散してしまったが、そのキャリアの途中からは、日本人ギタリストの長谷川陽平が正式メンバーとして加入した。俳優、竜雷太の息子である。

 このグループを率いたチャン・ギハは、韓国映画『密輸 1970』に最高の劇伴を提供しているので、ぜひご覧いただきたい。なお、チャン・ギハは筆者が愛してやまないIUと3年にわたって交際していたことがある。うらやましい限りである。


ケレン味に溢れた『密輸 1970』は、海女映画史上において、白都真理主演の『人魚伝説』と並ぶ傑作と評したい。個人的には、今年の韓国映画は本作と『ソウルの春』が2トップ。

 話が長くなった。すなわち、橋幸夫は、一つのジャンルとして確立されたイタロディスコへの安易なアプローチにこそ手を染めなかったが、結果として、イタリアにルーツを求めることができるディスコサウンドを、見事に換骨奪胎していたのだ。

 潮来の伊太郎を歌う股旅歌謡「潮来笠」でデビューを果たし、その後、股旅ルネッサンスを通過した「股旅’78」でうっすらとイタリアを遠望させた橋幸夫は、伊太郎=イタロという円環を見事に完結させた。ちょっと感動する。


橋幸夫は、いわゆる企画物にも理解がある。2009年にリリースされた「ゆるキャラ音頭」の作詞は、もちろん、みうらじゅん先生。作曲は、我が国におけるドラムンベースのパイオニアであるDr. YSことサワサキヨシヒロ。なぜこの曲のコンポーザーとして招かれたのかといえば、サワサキ氏は、以前、みうらじゅん事務所でマネージャーを務めていたことがあるからである。

 これまで183枚(!)ものシングルを発表している橋幸夫だが、筆者が推薦したいベストの一枚は、70年にリリースされた「俺たちの花」。


作詞の橋本淳、作曲の筒美京平作曲といえば、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」、平山三紀「真夏の出来事」、オックス「ダンシング・セブンティーン」などを手がけた盟友コンビ。この2人による橋幸夫のシングルとしては、「俺たちの花」以外に、「京都・神戸・銀座」「東京-パリ」がある。

 こちら、作詞は橋本淳、作編曲は筒美京平という最強のタッグによるナンバーである。曲調は、同じ時期に筒美がペンを執った「サザエさん一家」(あの番組のエンディングテーマ)に近い。

 つまり、ブラジル北東部にルーツを持つバイヨン風のリズムをベースに、同時代のR&Bを咀嚼した16ビートの感覚が全体を貫き、ハーブ・アルパート&ザ・ティファナ・ブラスに想を得たであろうアメリアッチの風味が加わって高揚感を否応なく高める。

 そしてこの曲では、そこに、和風の主旋律と鉦や太鼓がにぎやかに鳴り響くお囃子が融合。その背景では、筒美が愛したバート・バカラックのごとき流麗なストリングスと女声スキャットが洗練美を添える。聴く者は、この上ない幸福な祝祭感に包まれる。

 和洋のマリアージュによるモダニズム歌謡の一つの極致であると讃えたい。戦前において、マキノ雅弘がミュージカル映画『鴛鴦歌合戦』でスクリーンに顕現させたものと同等のサウンドスケープが、ここには広がっている。

 ところで、問題は、現在の橋幸夫である。彼は、2021年10月、約1年半後に歌手活動からリタイアすることを表明し、全国119カ所で華々しく引退興行を行い、23年5月3日、80歳の誕生日をもって、63年間のシンガー人生から身を退いたのであった。

橋幸夫の引退をめぐるドタバタ劇

 ……が、驚くべきことに、橋幸夫は、引退から1年も経たぬ24年4月に、歌手への復帰を電撃的にアナウンスしたのだ。ファンの涙だってまだ乾いていやしないタイミングだ。


2021年の師走、歌手・橋幸夫の花道を飾るラストシングルとして発売された「この道を真っすぐに」。数年後にUターンしてくるとは予想もしなかった。そういや、フランク・シナトラも、「マイ・ウェイ」をリリースした後の71年に引退したが、2年後には復帰した。大物が「道」を歌う時は警戒が必要なのかもしれない。

 腰を抜かしたけれど、まあ、それはいい。歌謡界のレジェンド中のレジェンドによる決断に、外野も外野でしかない俺が容喙する資格は微塵もないであろう。

 だが、橋幸夫の引退を受け、派手に売り出されたあの3人は、一体どこに身の置き所を見つければいいというのか。そう、「二代目橋幸夫hY2」なるトリオである。

 現在、橋幸夫が所属するあの(!)夢グループは、二代目橋幸夫を発掘するオーディションを大々的に敢行、その結果、4名の二代目橋幸夫が選出された。


二代目橋幸夫yH2のデビューシングル「恋のメキシカン・ロック」。初代橋幸夫が60年代に切り開いたリズム歌謡というジャンルを代表する名曲のカバーである。ジャケットに写る3人のうち、後ろの2人は夢グループの社員だという。しかし、yH2という字面を目にすると、脳内に「想い出がいっぱい」が鳴り響くバグが生じますね。

 俺が何言ってるのか理解しかねる読者も多かろうが、悪いけれど肝心の俺も事態を理解しきれていない。どうやら、二代目橋幸夫とは、特定の個人を指す固有名詞ではなく、4名の人物から構成される抽象概念へと進化を遂げたらしいのである。

 まさに「橋を継ぐもの」! 観念的なハードSFとして、この顚末をジェイムズ・P・ホーガンに小説化していただきたいところだ。


ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』(創元SF文庫)は、衝撃のどんでん返しで有名。近年、星野之宣が漫画化したコミックスも刊行されている。日本では不朽の名作として扱われているが、英米ではさほど知られていないというから、ちょっと意外だ。

 4名が団体として襲名することとなった二代目橋幸夫だが、感激のあまりオーディションの結果発表の場で大号泣までしていた最年少メンバーが、デビュー前に学業優先を理由としてあっさり脱退してしまったことにはちょっとびっくりした。あの涙は何だったのか。そういうわけで、二代目は3人となった。

 合格を発表する記者会見の場では、4人それぞれが、例えば「橋幸雄」「橋幸生」など、元祖の「夫」の部分だけを別の漢字に変え、グループとしては「橋幸夫ズ」を名乗る構想が語られていたのだが、まあ、意味不明だったからか、有耶無耶になった。

 筆者の知人は、構成員の一人一人が「新橋幸夫」「浅草橋幸夫」「参宮橋幸夫」などと、実在の橋にちなんだ芸名を名乗ればいいのにと言っていた。名案だと思う(その場合、新橋幸夫はフランスにおいて「ポンヌフ幸夫」と呼ばれるだろう)。

 結局、2024年の日本において、橋幸夫は初代と二代目が共存している(しかも合わせて4人)。いや、考えてみれば、いったん跡目を譲ったのだから、元祖橋幸夫は、今後、三代目を名乗るのが筋ではないのか。三代目Bridge Happy Husbandとして、夢グループからLDHに移籍してもいいだろう。夢を後にし、愛・夢・幸せへ! いつでも夢を!

 股旅は放浪者、ゆえに大雑把に英訳すればEXILE。つまり、とうの昔から、橋幸夫 from EXILE TRIBE!

 いっそのこと、これを機に、今後の橋幸夫は、囲碁将棋の世界を見習い、特定の人物がその称号に安住するのではなく、実力制に移行すべきではないか。そして、連続5期あるいは通算10期、実力制橋幸夫を務めた者には、永世橋幸夫の称号が与えられるのだ。

 次代の橋幸夫の座をめぐる争いは、もちろん歌唱力で決着をつけてもよいが、このご時世、それだけではエンタテインメントとしての魅力に欠けるかもしれない。SASUKEとか、ホットドッグの早食いとか、「プレバト!!」よろしく俳句の巧拙だとか、バラエティに富んだ種目を加えて橋幸夫を決めるのもいいだろう。きっと、橋幸夫界の活性化につながるはず。

 今、ふと思い出したが、筆者は大学生の頃、アニエスベーのスナップカーディガンとボーダーT、そしてベレー帽を愛用する渋谷系リスナーの友人に「ブリッジのライブがあるから観に行かないか」と声をかけたことがある。会場の浅草公会堂に着いた瞬間、それが橋幸夫のリサイタルであることを悟った彼は踵を返してスッと立ち去り、それ以来音信不通である。風の噂では、スウェーデンで暮らしているらしい。


加地秀基(現カジヒデキ)がベーシストを務めていたバンド、ブリッジのセカンドアルバム『PREPPY KICKS』は94年7月リリース。俺は、マリメッコのワンピを着ていた女子に「カジ君のCDを貸してあげる」と言って「恨み節」「修羅の花」などが収められた梶芽衣子のベスト盤を差し出したところ、それ以来疎遠になったこともあった。人生はいろいろある。

 まあ、梨園では、七代目尾上菊五郎と八代目尾上菊五郎も並び立つことだし、今後は複数代が仲良く活躍することが普通になるのかもしれない……という結論にもならないゆるい結論で記事を締めてみる。

 ということで、イタリアを特集したCREA Traveller 2024 Vol.3をお買い求めください! そして、今年の初代=Vol.1はパリ特集、二代目=Vol.2はオーストラリア特集。橋幸夫さん同様、雑誌市場では併存しております。まだまだ入手可能なので購入をご検討いただければ幸甚に存じます!

 なお、最後に書き添えておくと、今回の記事の見出し〈みんなで橋幸夫の名曲を聴きながら 沼津の地で独自の生態系を保つ あんかけスパゲティを食べよう〉は、71年にリリースされた『伊丹十三です。みんなでカンツォーネを聴きながらスパゲッティを食べよう。』というアルバムにオマージュを捧げたものである。


『伊丹十三です。みんなでカンツォーネを聴きながらスパゲッティを食べよう。』は、「ルパン三世」でお馴染みの大野雄二とそのグループが奏でるエレガントかつグルーヴィーなサウンドをバックに、伊丹十三がスパゲティに関する蘊蓄を傾けるアルバム。各種サブスクリプションでも配信中。

ヤング(やんぐ)

元CREA WEB編集長、現CREA Travellerスーパーバイザー。大学の卒業論文は、「家族風呂の研究」。

文・撮影=ヤング

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