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「ひさびさに来たよ、京平さん」筒美京平が眠る鎌倉で、松本隆が語ったこと

CREA WEB / 2024年11月16日 11時0分

松本 京平さんとの思い出というといろいろあるけど、なんと言っても南米旅行だよね。七九年の二月だったと思う。二人でどこかに旅行に行こうってことになって。まるまる一か月。

筒美 ちょうど桑名(正博)くんをやってた頃(編集部注:「セクシャルバイオレットNo.1」。作詞:松本隆、作曲:筒美京平)。リオのカーニバルが中心なんだけどね。当時、アマゾンまでは個人旅行では行けないからツアーに入って。意外とね、松本くんが自然とかがダメでね。

松本 意外とじゃなくて、全然ダメだよ(笑)。

筒美 ジャングルの中でね、蚊帳みたいなものの中に寝泊まりしたことがあったんだけど、ある夜、「わーっ!」ってすごい声がしてびっくりしたら、松本くんがトイレで「虫がいた!」って震えていた(笑)。

――松本隆対談集『KAZEMACHI CAFÉ』(2005年刊)より抜粋

 ここは鎌倉。緑豊かな丘陵地帯にある霊園。松本さんと一緒に訪れたこの日、週末の日曜日とあって、たくさんの墓参客で賑わっていた。

「ひさびさに来たよ、京平さん」

 墓前に跪いた松本さんは、そうポツリとつぶやくと、赤いバラを一輪手向けた。墓石には「一粒の麦」という言葉と、五線譜に書かれたメロディーが9小節分刻まれている。なんの曲だろう。

「歌ってみてごらん。すぐにわかるから」

 ラララララララ……ああ、そうだ、この曲は「街の灯りが とてもきれいね ヨコハマ ブルー・ライト・ヨコハマ~♪」。

「そう。京平さんがいちばん最初に1位を獲得した曲。詞は橋本淳さん。残念ながらぼくじゃないんだけどさ」と松本さんがいたずらっぽい笑みを浮かべた。


筒美京平さんは東京で生まれ育ったが、湘南の地にも家があり、鎌倉を愛したという。2020年10月7日没。享年80。


 松本さんと筒美京平さんが出会ったのは1973年。松本さんは24歳、筒美さんは33歳。筒美さんは、「ブルー・ライト・ヨコハマ」(歌:いしだあゆみ)、「また逢う日まで」(歌:尾崎紀世彦)、「17才」(歌:南沙織)、「わたしの彼は左きき」(歌:麻丘めぐみ)といったヒット曲を連発する気鋭の作曲家で、松本さんは職業作詞家としての道を歩み始めたときだった。

「はっぴいえんど解散後、初めて書いた詞がチューリップの『夏色のおもいで』。その曲がスマッシュヒットした。すると、京平さんから『あの曲の詞が気に入ったから、松本隆っていう作詞家に会ってみたい』と声がかかったんだ」

細野さんが「この曲を作った筒美京平という人は天才だよ」と

 当時、筒美さんは国立競技場そばの小高い丘の上に建つマンションに住んでいて、「玄関ホールだけでも暮らせる」ほど広く豪華な部屋だった、と松本さんは振り返る。「ぼくもヒット曲をたくさん書けばこんなところに住めるのかなと思ってさ(笑)」。


チューリップは1971年にデビュー。『夏色のおもいで』は73年10月にリリース。作曲は財津和夫。

 後年、筒美さんは、松本さんの第一印象について聞かれたときに、「なんだか学生っぽくて書生さんみたいな人だなあと思った」と答えている。松本さんは、初めて対面するヒットメーカーに、少々緊張しながら、「ぼくが詞とプロデュースを手がけたアルバムです。聴いてください」と、南佳孝のファーストアルバム『摩天楼のヒロイン』(73年)を差し出したという。

「京平さんは、ぼくのレコードを一聴すると、こう言ったんだ。『こういう好きなことをやって、ずっと食べられるならいいよね』って。ショックだった。あまりにも図星でさ。はっぴいえんどにしても佳孝にしても、売れるに越したことはないし、売れたいとは思っていた。でも、いいものを残したい、という思いのほうがぼくは強かった。初めて書いたチューリップの曲もそうだったと思う。

 だけど、歌謡界で職業作詞家になる、というのはそれじゃダメ、売れなくちゃいけない、プロフェッショナルとはそういうことなんだよ、と先制パンチを食らった気分になったんだ」


1本の映画を作るように制作された南佳孝のアルバム『摩天楼のヒロイン』。リリースから50年以上経ったいまも聴き継がれているシティポップの名盤。

 ところで、松本さんが筒美さんという作曲家を初めて認識したのはいつでしたか?

「大学生の頃。細野(晴臣)さんが教えてくれた。ある日、細野さんの家に行ったら、西田佐知子の『くれないホテル』がかかってて。『この曲を作った筒美京平という人は天才だよ』って言ったんだ。

 もちろん、それ以前に『ブルー・ライト・ヨコハマ』がヒットしていたから耳にはしていたんだ。でも、意識をするようになったのはそこから。ぼくらは洋楽一辺倒だったし、細野さんが歌謡曲を聴いたりしてるなんて思いもしなかったから、驚いたというのもある。

 それでぼくの心に『筒美京平』という名が刻まれた。でも、京平さんと仕事をするようになってから、『くれないホテル』が素晴らしい曲だと思うという話をしたら、『ああ、あの売れなかった曲ね』って苦虫を噛みつぶしたような顔をしたんだよ(笑)。とにかく、彼にとって、『いい曲』とは『売れる曲』という絶対条件があったんだ」

 しかし筒美さんはなぜ、「青二才」の松本さんに興味を持ったのだろう。単に「詞が気に入った」だけでは家に呼んだりしないだろう。

「いまだにアルフィーに会うと、あのときはごめんという気分になっちゃうんだ」

「バンドで元ドラマーだったヤツが作詞家になった、という経歴に引っかかったんじゃないかな。当時の歌謡界にそういう人はいなかった。それに、京平さんは当時、フォークや、後にニューミュージックと呼ばれる人たちの曲を作りたいと思ってたんだ。彼はいま何が流行っているのか、どういう音楽が若者たちに人気があるのか、そういったことにすごく敏感だったし、アンテナをものすごく張っていた。それでぼくに接近したんだと思う。そして京平さんは、『今度、アルフィーっていう新人バンドがデビューするから詞を書いてほしい』とぼくに言ったんだ」

 アルフィーとは、そう、THE ALFEEのこと(注:デビュー時はALFIE)。デビュー曲「夏しぐれ」(74年)は、筒美&松本コンビによる最初期のシングルとなった。がしかし。

「全然売れなかった。だから、いまだにアルフィーに会うと、あのときはごめん、という気分になっちゃうんだ。50年も前のことなのに(笑)。でも、なぜ売れなかったんだろう。京平さんの曲も、ぼくの詞もよかったと思う。『いいものを残したい』というぼくの思いが、京平さんの『売れなくちゃダメ』を上回ってしまったのかもしれないな。

 いい曲といえば、話は脱線するんだけど、アルフィーの曲を書いていた頃、リバティ・ベルスという東大生のグループにも詞を書いていたんだ。アルバム用に何曲か書いたんだけど、途中でプロジェクトが頓挫してしまった。メンバーたちが『やっぱり学校をちゃんと卒業したい』と、バンドを解散してしまったからだと記憶しているけれど、『幸せがほしい』(注:カップリング曲は「やさしい関係」。ともに作曲:樋口康雄)という曲だけはシングルで発売されたんだ。

 実は、そのときのディレクターが酒井政利さんだった。酒井さんはとても義理堅い人だったから、その後、山口百恵のアルバム『花ざかり』(77年)でそれらの曲を使ってくれて、日の目を浴びることにはなったんだ(『陽のあたる坂道』『飛騨のつり橋』『あまりりす』の3曲)。

 そして、リバティ・ベルズの宮田茂樹くんは、大学卒業後にレコード会社に就職、竹内まりやのディレクターになり、ぼくは『SEPTEMBER』(79年、作曲:林哲司)の詞を書くことになる。ついでに、リバティ・ベルズのために書き、百恵さんが歌った『陽のあたる坂道』(作曲:佐藤健)は、虎ノ門の霊南坂をイメージして書いたんだけど、霊南坂教会はぼくが少年時代に参加していた『ボーイスカウト東京4団』のホーム。

 そこでは後に、百恵さんが三浦友和さんと結婚式を挙げることになる。不思議な縁だよね……って、京平さんの話をからだいぶズレちゃったよね」

 はい。話をもとに戻しましょう。


1974年8月にリリースしたアルフィーのデビュー盤「夏しぐれ」。B面の「危険なリンゴ」も筒美&松本コンビの曲。デビュー時は4人組だった。

スランプの時期の京平さんに言ったこと

 筒美さんと松本さんの仲が急速に深まったのは、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」(75年)からだったと松本さんは言う。

「太田裕美はデビューのときから京平さんと一緒にプロジェクトを組んでいたんだ。デビュー曲『雨だれ』(74年)からシングルを3枚、アルバムを2枚作って。どれもそれなりにヒットはするけど、中ヒット止まり。なかなか大ヒットにつながらない。

 京平さんと『このままだとダメになっちゃうから、なんとか火を点けたいね』と3枚目のアルバム(『心が風邪をひいた日』)を作っていたとき、ぼくは京平さんに提案したんだ。いつものように京平さんが作った曲に合わせて詞を書くのではなく、ぼくの詞に合わせて曲を作ってくれないか、って。つまり、詞を先に書きたいと言ったんだ。ぼくがはっぴいえんどでやっていたように。それでできたのが『木綿のハンカチーフ』だった。

 当初はアルバムの中の1曲だったし、そのくらいの冒険をしてもいいと思った。曲を先に作ることを歌謡曲で一般化させたのが京平さんだったということもあったから、さあ、京平さんは、細野さんや、大滝(詠一)さんや、(鈴木)茂のように、ぼくの詞に曲をつけられるの? ってメジャーに対する挑戦のような気持ちもあったと思う」

 そして、松本さんは、歌謡曲の定石を逸脱する長い詞を書き(「アメリカのフォークソングのように10番ぐらいまである長い詞を書きたかった」とは松本さんの弁)、それに驚いた筒美さんは、詞を短くするようにとディレクターに文句の電話をしようとするも深夜だったために繫がらず、締め切りも迫っていたのでしぶしぶ曲をつけはじめ、朝には「名曲ができた!」と大喜び──というのは有名なエピソード。


故郷を離れ都会へ出ていった男性と故郷に残った女性の遠距離恋愛の歌。歌詞は4番まであり、男性目線と女性目線と交互の気持ちが歌われる構成が斬新だった。

「それからは、ぼくと一緒に作るときは、『詞を先に』と言われることが多くなっていったんだ。すっかり宗旨替えしちゃったのは、70年代の終わり頃。その頃、京平さんは中原理恵のデビューアルバムを作っていたんだけど、どうにもこうにもスランプに陥ってしまい曲が書けなくなってしまった。

 それまでは、書く曲書く曲、どれもベスト10入りをしてたけれど、その勢いに翳りが出てきて、『作曲家なんてもうやめたい』と弱音を吐くようになった。それで、当時、京平さんを担当していたディレクターの白川(隆三)さんに頼まれ、一緒に家へ行ったんだ。『そんなことを言わないで、続けてみようよ』って。

 でも、京平さんは譲らない。『ヒット曲なんてもう書けない』と。それで、ぼくが『やめてどうするの?』って聞くと、京平さんは『ジーンズ屋さんをやりたい。ジーンズのほうがいっぱい売れる』って(笑)。京平さんにとって、曲は『売れる』ことが大事。そしてそれを自分に課すから、どんどん重くなってしまい、背負っているのがつらくなってしまう。

 だからぼくは、『もうちょっと羽目をはずそうよ』って言ったんだ。『1位なんか獲らなくていい。ヒットもしなくていい。好きな曲を好きなように作ったらいいと思うよ』って。それで『東京ららばい』(78年)の詞を書いて渡したんだ」

1曲だけあげるなら…

 曲は大ヒット。中原さんはその年のレコード大賞新人賞を、筒美さんは作曲書を受賞した。


1978年3月にリリースした中原理恵さんの「東京ららばい」。筒美さんが自信を取り戻すきっかけとなり、翌79年には「魅せられて」(歌:ジュディ・オング/作詞:阿木燿子)、「セクシャルバイオレットNo.1」で1位を獲得。

 筒美さんと松本さんが一緒に作った曲は400曲近くに及ぶ。答えに窮すると思ったけれど、あえて、どの曲がいちばん印象に残っているか尋ねてみた。

「やっぱり、太田裕美の一連の楽曲だよね。1曲だけあげるなら、『煉瓦荘』。『ELLEGANCE』(78年)というアルバムに入ってて、京平さんと生前最後に会ったときの思い出の曲。京平さんが亡くなる数年前の2014年。太田裕美のコンサートを観に、渋谷のホールへ行ったんだ。彼女の40周年記念公演ということもあって、京平さんも来ていたけれど、体がずいぶん弱っていて、白川さんに支えられながら歩くような状態だった。

 コンサートでは太田裕美が何十年かぶりに『煉瓦荘』を歌ってくれたんだ。売れない詩人が主人公の曲。実を言うと、ぼくはその曲を書いたことを、コンサートで聴くまですっかり忘れていたんだ。でも、京平さんと一緒に聴くうちに、なんだか胸がいっぱいになって、気づけば涙があふれていたんだ。

 終演後、みんなで京平さんの行きつけのイタリアンレストランで食事をして、『煉瓦荘』の話になったとき、『なんていい曲なんだろうね』と京平さんに言ったら、京平さんは『あの売れない詩人は松本くん自身のことなんでしょ』って」

あれからは詩を書き続けた
哀しみにペン先ひたして
想い出で余白をつぶした
君の名で心を埋めた
井の頭まで行ったついでに
煉瓦荘まで足をのばした
運良く君が住んでた部屋が
空室なんで 入れてもらった
煉瓦荘 売れない詩人とデザイナーの卵
煉瓦荘 窓まで届いた林檎の木の香り

――『煉瓦荘』(作曲:筒美京平)

 筒美さんの墓石に刻まれている「一粒の麦」とは「一粒の麦は地に落ちることで多くの実を結ぶ」というイエス・キリストの言葉の一節。人を幸福にするために自らを犠牲にする人のことを指す言葉でもある。


松本隆(まつもと・たかし)

1970年にロックバンド「はっぴいえんど」のドラマー兼作詞家としてデビュー。解散後は専業作詞家に。手がけた作品は2,000曲以上にもおよぶ。

文=辛島いづみ
撮影=平松市聖

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