知ってはいたつもりだったけれど… 上野千鶴子が初めての“転倒事故”で身に染みた“他人の親切”
CREA WEB / 2024年11月28日 17時0分
社会学者上野千鶴子さんが、その感性を低く静かな「大人の音色」で奏でたエッセイ『マイナーノートで』。目標を持たない学生が研究者となるまでの過程から、チョコレート好きな一面、老いへの不安や、他界した先達への哀悼などを綴った随想だ。同書より、「転倒事故」を抜粋して紹介する。
追い抜かれていく、次から次へと。早足で歩く長身の若者はもとより、重い荷物を抱えた女性、子連れの若い母親にも。こんなはずではなかった。人並み以上に足の速いことを自負していたわたしは、連れの友人たちから、しょっちゅうこう言われていたのだ、「ちょっと待って、もう少しゆっくり歩いてよ」と。
お年寄りが杖をついてゆっくり歩くのを追い越すたびに、わたしもいずれこうなるのか、と予想はしていたが、まさかこんなことになるとは。痛めた腰をかばいながら歩くので、どうしてもスピードが出ないのだ。
不測の事態で転倒事故を起こし、腰を強打した。久し振りに出かけた先の新幹線の昇りエスカレーターでのことだ。引きずっていたキャリーバッグの重さに引っ張られてバランスを崩し、真後ろに転倒した。立ち上がることもできず、そのままエスカレーターに仰向けになって頭を下にしたまま、ずるずると上昇していった。
天井を見あげながら、このままいくとわたしはどうなるのだろう、とぼんやり考えた。エスカレーターの先にギロチン台が待っているような不穏な予感がしたが、身動きできない。最後まで上がりきると、その場にいた見知らぬ男性が両足を持って引きずりだしてくれた。痛みとショックで脂汗が滲んだ。
コロナ禍で長いあいだ、引きこもっていた。最近になってリアルでイベントを開催するから出てきてほしいという依頼が増えていた。新幹線にもずっと乗っていなかったので、どうやって乗るのか忘れたような気もしたほどだ。そんな出張先でのことだった。
現地で整形外科を受診してレントゲンをとってもらった。圧迫骨折の可能性があると言われた。直後に講演の予定が入っていたので、コルセットでぎりぎりと締め上げ、鎮痛剤の坐薬を押しこんで務めは果たした。幸いに頭を打っていなかったので、アタマとクチのほうはだいじょうぶだった。
だが演壇に車椅子で登場した姿を見た聴衆は、びっくりしたようだ。テーマは「おひとりさまの老後」。みなさんもいずれこうなります、と演題にふさわしい登場だったが、実際に自分がそうなってみるまで、リアリティがなかったことに気がついた。
「これであなたも転倒組のお仲間入りね」
聴衆に看護師さんがいて、さんざん脅かされた。「痛みは今日より二日後、三日後につよくなります」「頭を打っていないといっても脳内出血してあとから麻痺が出てくることもあります」「帰ったらもう一度受診してレントゲンをとってもらってください」……そのとおりにした。
腰椎圧迫骨折の診断を受けた。整形外科の医者に、「飲み薬の痛み止めは効かないでしょ」と言われて「はい、効きません」と答えた。知ってるのなら処方するな、と思ったが、代わりに坐薬の処方箋をもらった。それが効いているあいだだけ、正気でいられた。骨折に医者ができることはほとんどない。コルセットと湿布薬と鎮痛剤、この三点セットで日にちぐすりを頼りにするだけだ。
「どのくらいかかりますか?」「三週間はかかります」、そう言われてちょうど三週間めの外出だった。あまりに気持ちがうっとうしいので、秋晴れの午後、近くの花屋までリハビリがてら花を買いに行こうと思ったのだ。そろそろと歩きだして、手すりがない街路をおそるおそる歩く。段差がないか注意深く目配りし、ひとにぶつからないか不安が募る。そのわたしのそろそろとした足取りを、後ろから来たひとたちが、老いも若きもつぎつぎに追い抜いていくのだ。
いずれは、と言いながら、その「いずれ」はわたしの想定のなかにはなかった。このけがが腰椎骨折や頸椎骨折のような致命的なもので、下半身麻痺などでこの先二度と動けないとしたらどれほどの絶望感だったろうという思いがちらりとよぎる。
覚悟も何もできていなかった。治ると言われてそれを期待できることが、どんなに幸運だろうか。予約した今年のスキー場のシーズン券が頭をかすめる。今年はスキーができるだろうか? 快晴の秋天を見て、暑くなく寒くなく、いまがいちばんお散歩にいい季節なんだけどなあ、とウォーキングシューズをうらめしく眺める。
周囲の友人たちにこの転倒事故の話をすると、わたしも、わたしも……と転倒経験がつぎつぎに出てくることに驚いた。年上の女性からは「これであなたも転倒組のお仲間入りね」と宣告された。そうだったのか、いずれは誰もがたどる道とは。
転倒はいつでもどこでも予期せぬところで起こる。室内でも起こる。カーペットの0.5ミリの段差でも起こる、すわっているだけで圧迫骨折になることもある。骨を折ったの、腰をねじったの、手をついて肩を痛めたの、前のめりに倒れて顔を打ったのと、転倒百貨店の品ぞろえもさまざまだ。
痛みは気持ちを萎えさせる
それにしても痛みは気持ちを萎えさせる。視界にもやがかかったように気持ちが晴れない。眉間に縦皺が寄っているのがわかる。食欲もなくし、入浴する元気もなくなった。靴下を穿くにも難儀した。寝返りを打つたびにうめいた。これが続けばどんなにか神経がまいるだろうと思った。聞いてはいた、知ってはいたつもりだった。
だが他人の痛みはしょせん他人の痛みだった。あのとき、あのひとはこの痛みに耐えていたのか、ガン末期のあのひとは、鎮痛剤を使いながらわたしに会いに来てくれたのか、とあれこれのシーンを思いだす。
しごとはほとんどオンラインに切り換えてもらった。「アタマとクチはだいじょうぶですから」と応じたが、どうしてもテンションは下がる。「あなたの場合は、ちょっと下がったぐらいがちょうどいい」と言うひともいる。いろんなひとがいろんな忠告をくれた。「いったいどうしたの?」と訊かれて、「説明するのもつらいから言いたくない」と答えたら、「あら、言えばラクになるわよ」と言われた。そのとおりだった。
言いふらしたわけではないのだが、たくさんのひとに助けてもらった。「食べてますか?」とレトルト食品の宅配便が届いた。お買い物も手伝ってもらった。手作りのポトフを届けてくださる方もいた。鮨折りの差し入れもあった。カルシウムを摂りなさいと手製の絶品ちりめん山椒が届いた。漏れ聞いた元教え子からスイートなお見舞いが来た。腰痛に苦しんだことのあるひとから、愛用しているというクッションが通販で届いた。気分の上がる華やかな盛花も届いた。
「だいじょうぶ?って尋ねたら、あなたはきっとだいじょうぶ、って答えるから、今回は病人でいなさい」と言われて「病人モード」で過ごすことにした。「だいじょうぶ?」って訊かれたら、「だいじょうぶじゃない」と答えることにした。病人になってみると、他人の親切が身に沁みた。そして自分がこんなに周囲に恵まれていることに感謝した。
今日でちょうど転倒から三週間である。この骨折はいずれ治るだろう。痛みは退いてきてこのところ鎮痛剤を使わずにすんでいる。だが、次に再び転倒するのはいつだろう。そうやって転倒をくりかえしてやがて回復しない転倒が来るのだろうか。それはいつのことだろう。この転倒はその予行演習のような気がする。
文=上野千鶴子
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