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展望台から約70メートル下はいきなり濃い色の海! どことなくフレンチ・カントリーの趣がある勝浦灯台

CREA WEB / 2024年12月20日 11時0分


千葉県の勝浦灯台(千葉県勝浦市)。

 現在、日本に約3,300基ある灯台。船の安全を守るための航路標識としての役割を果たすのみならず、明治以降の日本の近代化を見守り続けてきた象徴的な存在でもありました。

 建築技術、歴史、そして人との関わりはまさに文化遺産と言えるもの。灯台が今なお美しく残る場所には、その土地ならではの歴史と文化が息づいています。

 そんな知的発見に満ちた灯台を巡る旅、今回は2003年に『星々の舟』で第129回直木三十五賞を受賞した村山由佳さんが千葉県の勝浦灯台を訪れました。


千葉県南房総の灯台巡り


村山由佳さん。

 さて、二日目である。

 当初、灯台を巡る旅の提案をいただいた時点では、千葉県南房総の灯台三基を二泊三日で、という計画だった。ところが、筆の遅い私がそれだけの日数を確保できなかったせいで、行程は一泊二日の間にぎゅぎゅっと押し込められることとなった。幸い天候には恵まれたけれども、番組ロケ隊の皆さんにまで無理を強いてしまって本当に申し訳なかった。

 ここでちょっとだけ言い訳をさせてもらうと、ムラヤマ、筆そのものは遅いわけではないんである。書き出してしまえばけっこう速い。気分が乗るとぐいぐい進む。ただ、いざ取りかかるまでに時間がかかって、何かが降りてこないと書き出せない。つまり、正しくは〈筆が遅い〉というより〈仕事が遅い〉だけなのだ。

 ――ぜんぜん言い訳になっていないじゃないか。

 ともあれ。一日目の午前中に安房鴨川(あわかもがわ)の海岸をそぞろ歩くシーンを撮り、お昼をはさんで野島埼(のじまさき)灯台を訪ね、てっぺんまで上ってまた下りてきた私たちは、このあと周辺の景色や海に沈む夕陽を押さえてから撤収するというロケ隊と別れ、翌日に備えて勝浦(かつうら)方面へと移動することとなった。

 私と、文藝春秋「オール讀物」の編集長と、同じく文春所属のカメラマン氏、の三人。東京からずっと、編集長がハンドルを握ってくれている。

 千葉方面に土地勘のない読者のために軽く説明しておくと、野島埼灯台は房総半島の最南端にあり、そこから太平洋に面した東側の海岸線を北上してゆけば、千倉(ちくら)、鴨川、勝浦、御宿(おんじゅく)、いすみ……と辿るかたちになる。今は亡き私の両親が暮らしていた家は千倉にあり、私自身は十年以上鴨川に住んでいた時期があり、その間は勝浦にもしょっちゅう遊びに行ったので、このあたりの道は熟知しているといってよかった。

 その晩のホテルは御宿に取っていた。海岸線を走る道路は快適だけれど、移動距離は長い。編集長の趣味で車内にはクラシック音楽と甲斐バンドが流れていて、後部座席でうつらうつらするうち、はっと目を開ければ日はとっぷり暮れていた。

 車は、なぜか御宿の町なかをぐるぐる巡っているようだ。

イレギュラーな体験こそが旅の醍醐味


千葉県の勝浦灯台。大正6年初点灯。高さ21メートル、白タイル張り八角形の威容は、遠くからでもよく見える。

「ナビに住所入れて、言われた通りに走ってるんですけど」

 編集長は困惑した様子で言った。

「案内される先が、なんか違ってて……」

 折しもナビが、

 〈目的地に到着しました〉

 と高らかに宣言する。しかし窓の外を見やると、巨大な廃墟。おそろしく荒れ果てた七階建てのホテルだかマンションだかが、草の蔓に覆われ、濃紺の夜空を背景に黒々とそびえているだけだ。

 再び国道へ出てやり直しても、また同じ廃墟へと連れて行かれ、

 〈目的地に到着しました〉

 ……やだ、怖い。

 とうとう、あたりを三周する羽目になった。この世ならぬものの力が働いて、私たちをなんとしてでもその廃墟に取り込もうとしているみたいに思えてくる。ホラー系の話がとにかく苦手な私はこの時点で全身鳥肌、ナビを一切無視することでようやく正しいお宿にたどりついた時には、今だから言うけれどちょっと泣きそうだった。残る二人も、後ろのトランクから荷物を下ろしながら、ひどく疲れた顔をしていた。

 とはいえ、こういうイレギュラーな体験こそが旅の醍醐味(だいごみ)であることもちゃんとわかってはいるのだ。アクシデントとまではいかない、ハプニング程度の出来事。その時限りの特別な記憶がフックとなり、時間がたった後でもその前後のあれやこれやを引っ張り出してまた味わうことができる。

 なまぬるくだらしない潮の香りや、浜辺の宿の枕元に夜通し届いていた波の音や、夜明けとともに黄金色に輝きだした海面の眩しさや……。

 あの晩、三人で食べに出かけた地元のお寿司は、とてもとても美味しかった。

高台の展望広場へ


波と風に浸食された岩肌が延々と連なる。

 翌朝もみごとに晴れた。

 後出しじゃんけんのようだが、〈晴れ女〉としての実績は着実に積み重ねてきた自負がある。人生において、雨傘というものをさす頻度が極端に少ない。

 肌に痛いほどの陽射しの下、この日いちばんに訪れたのは、太平洋に突き出た岬の突端にある八幡岬(はちまんみさき)公園だった。

 上ってゆく遊歩道の右手の崖は切れ落ち、その下に海が広がる。波と風に浸食された岩肌が延々と連なる様子は、アイルランドあたりの茫漠とした風景を思わせ、けれど波間に浮かぶ岩には小さな鳥居が立っていて、ここがまぎれもなく日本であることを教えてくれるのだった。

 まち歩き観光ガイドの石嶋健司(いしじまけんじ)さんと落ち合い、高台の展望広場へと案内してもらった。お年を召していらっしゃるのに、歩きづらい木の階段を先に立ってすたすたと上って行かれる。

 五分ほど歩くと、ぱっかーんと眺望がひらけた。水平線はゆるやかに湾曲し、視界のほとんどが海と空の青に埋め尽くされる。

「よくわかるでしょ。地球が丸いということが」

 石嶋さんが言った。


八幡岬公園に建つ「お万の方」の像。岬にはかつて勝浦城があり、落城に際してお万の方は断崖から白い布を垂らして海へ逃れたという。

 広場の端には、尼の姿をした女人の銅像が立っていた。上総の戦国武将にして勝浦城主であった正木頼忠(まさきよりただ)の娘で、のちに徳川家康の側室となった〈お万の方〉だ。孫は水戸光圀、曾孫は将軍吉宗。石嶋さんはごく自然に「お万(まん)の方さま」と呼んでいた。

 十四の頃、城を攻め落とさんとする家康の手勢から逃れるため、彼女はこの東側の崖に白いさらし布を長々とたらし、片側を松の木に結びつけた。そうして母親や弟とともに布を伝って海に下り、待っていた家臣の小舟で親戚のいる伊豆へと逃れたという。

 崖のてっぺんから海までの高低差は三十七メートル。言い伝えが本当であるなら、少女の頃から肝の据わったひとだったことが窺(うかが)える。

 鴨川に住んでいた頃にもいろいろと耳にしたが、このあたりには歴史上の人物にまつわるこうした伝承がじつに多くて面白い。源頼朝とか、日蓮聖人とか、八犬伝でおなじみの里見氏とか……。

入江をはさんで向こう側にせり出したもう一つの岬の突端に見えるのは……


岬の突端からは灯台が見える。

 と、ディレクターの合図で、石嶋さんが私を促した。

「じゃあ、お万の方さまの後ろに何があるか見てみましょうか」

 根っから素直な私は台座の裏側へ回り、〈お万の方さまの後ろ〉、つまり銅像の背中をまじまじと見上げた。朝日に照らされてつるりぴかりと光っている。

「えーと、そうじゃなくて」

 石嶋さんが困惑げに指さしたのは、銅像が背にしている東の海の方角だった。目の上に手をかざしたとたん、わあ、と声がもれる。

「ここから、見えるんですね」

 直線距離にして一キロくらいは離れているだろうか。弓なりの入江をはさんで向こう側にせり出したもう一つの岬の突端に、白い灯台が立っている。離れているぶん小さくて、ケーキの上に飾ったロウソクみたいに見える。

 しかしどう考えても、私が今いる八幡岬のほうが海へと長く突き出しているはずだ。どうしてこちらに灯台を作らなかったのか。

「高いんですワ、向こうのほうがだいぶ」

 お万の方が崖を伝い下りたこの八幡岬は、先にも述べたとおり標高三十七メートル。向こうのひらめヶ台は五十三メートル。そこに灯台を建てたおかげで灯高は七十一メートルとなり、周囲に遮(さえぎ)るものがないため、遠くまで光を届ける事ができる。灯台単体の背丈は野島埼灯台に比べると八メートル低いのに、光達距離は十キロも長く、四十一キロメートルにも及ぶという。

「おまけに岩盤もしっかりしてますのでね。関東大震災の時にもびくともしませんでした」

 眩しさのせいか、あるいはまた誇らしさからか、石嶋さんは目尻に深い皺(しわ)を刻みながら遠くの灯台を眺めやった。

 くねくねと曲がる崖っぷちの道、覆いかぶさる照葉樹林をくぐり抜けるようにして、車で灯台の近くまで移動する。

 そこで待っていてくださったのは、勝浦市長の照川由美子(てるかわゆみこ)さんだった。小柄だけれど華やかでパワフルで、お声がとても良く通る。


照川由美子勝浦市長の案内で灯台を探訪。勝浦の魅力を紹介する団扇が飛び出し、勝浦によく遊びに来ていたという村山さんと思い出話に花が咲いた。

 最初はテレビカメラの前での〈お約束〉、出会いのシーンを撮る。え、市長さんでいらっしゃるんですかー、初めましてー、どうぞよろしくお願いしますー。

「それでは、我が街・勝浦の代表的な観光スポット、勝浦灯台。今日はわたくしがご案内させていただきましょう」

「はい、ぜひ」

 並んで歩きだそうとした時だ。

「その前に!」

 と照川さんが言った。ふり向けば、墨文字の書かれた団扇(うちわ)がジャジャン! とかざされたところだった。

「『100年ゼロ!』―勝浦には、この百年間で一日も猛暑日がないんです」

 なんと、それは羨(うらや)ましすぎる。てか、その団扇、今どこから出しましたか。

 再び、ジャジャン!

「『430年以上!』―勝浦の朝市は、長~く受け継がれています」

 おお、懐かしい。日本三大朝市のひとつ、歴史ある青空マーケット。たしか水曜日以外は毎日、生活に根ざした様々な市が立ったはず。

 三たび、ジャジャン!

「『全国有数の!』―勝浦漁港は、鰹(かつお)の水揚げ量では関東で一番なんですよ」

 怒濤(どとう)の勢いでご当地アピールを済ませた頼もしき勝浦市長は、団扇を元どおり紙袋にしまって秘書の方に渡し、私に向き直るとニッコリした。

「さ、まいりましょうか」

どことなくフレンチ・カントリーの趣がある灯台


高さ二十一メートルのすっきりと端正な八角形の勝浦灯台。ふだん灯台の敷地内は立入禁止だが、周辺は日の出を眺められる人気スポットとしても知られる。

 前日訪れた野島埼灯台は広大な緑地の中に立っていたけれど、勝浦灯台は舗装された敷地の奥に、わりとこぢんまり佇んでいた。

 それもそのはず、何しろ岬の突端で、周囲はほぼ垂直に切れ落ちる崖だ。土地に余裕などない。そこをぎりぎり必要なだけ整地して基礎を作り、ほぼ灯台だけが立っているという状態。

 ふだんは手前の門扉(もんぴ)が施錠されており、ふらりと訪ねてきた人が近付くことはできない。それだけに、青空を背にして立つ純白の灯台は、黙って孤独に耐え続けているかのように凜として見えた。

 初点灯は大正六年、日本人の設計だそうだ。明治二年に千葉県で初めて建てられた野島埼灯台はフランス人技師の、明治七年に初点灯の犬吠埼(いぬぼうさき)灯台はイギリス人技師の設計だったが、県内三番目となる勝浦灯台の建つ頃には、日本にもようやくそれだけの技術を持つ技師が育っていたということなのだろう。

 高さ二十一メートルのすっきりと端正な八角形。少し離れて相対したとき、視界の中におさまるくらいのサイズ感が心地いい。

 丸い帽子をかぶったようなてっぺんにはシンプルな十字の風見が据え付けられ、外壁は全面が白いタイル張り。一つのタイルが三十ミリ角と小さいため、どことなくフレンチ・カントリーの趣がある。


丸い帽子をかぶったようなてっぺんにはシンプルな十字の風見が。

 今現在の姿は昭和五十八年に改修されたものだそうで、記録によれば、第二次世界大戦の最中は何度も爆撃を受けたらしい。平時、沖をゆく船の安全のために役立つ灯台は、戦争の際には敵にとって最も不都合な存在になるということか。

 ああ、嫌だ嫌だ。この美しい空と海に、そういう恐ろしいものを持ち込まないでほしい。

 何しろふだんは上れない灯台だから、ここでも海上保安庁の方に付き添っていただいた。銚子海上保安部の桜川正人(さくらがわまさと)さん、挨拶を交わすより先に目の奥から笑いかけてくださる気さくなおじさまだ。


海上保安部の桜川正人さんの案内で螺旋階段を上っていくと、意外と小さめの光源が。

 施錠されている入口ドアを開け、螺旋(らせん)階段を三人で上ってゆく。狭いところをぐるぐる上るものだから途中で目が回る。

 昨日学んだフレネルレンズが、ここにも使われていた。おなじみ、薄緑の目玉おやじ。野島埼は第二等、こちらは第四等と、私より背が低いくらい小さめだが、分厚いレンズがブラインドのように重なる構造は同じだった。

約七十メートル下はいきなり濃い色の海! いよいよ展望台へ


断崖絶壁に建つ灯台は周囲に遮るものがなく、展望台より見下ろすと海しか見えない。村山さんの口からは思わず悲鳴が。

 続いて、展望台に出てみる。三六〇度、ほんとうに遮るものが何もない。風が強く、約七十メートル下はいきなり濃い色の海で、思わず「ひゃっ」と変な声が出た。吹きさらしのゴンドラの屋根に上ったかのように足がすくんで、手すりを握りしめたまましゃがみ込みそうになる。

 手前の入江には黒々とした岩がそこかしこに突き出し、打ち寄せる白波を散りぢりに砕いていた。おそらくはもっと沖のほうにも、見えないだけで沢山の岩が沈んでいるのだろう。

 水平線を見やり、桜川さんが言った。

「おかげで漁場としては豊かですが、船にとっては恐ろしい難所なんですよ」

 野島埼と犬吠埼の間の暗い海を照らすため、勝浦灯台がどれだけ切望されていたか、その役割の重さが迫ってくる。

「でもほら、素晴らしい眺めでしょう?」

 照川さんが海岸線を指さす。

「〈日本の渚(なぎさ)百選〉に選ばれている鵜原(うばら)・守谷(もりや)、鴨川、江見(えみ)……」

 きれいに晴れていたから、ほんとうに遠くまで見渡せた。昨日、房総半島の最南端からこちらへ向かって走ってきた道筋のほとんどすべてが一望のもとだ。

「子どもの頃は地元の友だちと、あのへんの岩場にもよく潜ったの」

 照川さんが、手すりから身を乗り出すようにして見おろしながら言った。

「どれだけ息が続くか競争したりしてね。海も緑も人も豊かで、冬は暖かなのに夏は過ごしやすくて。こんなところ、他にない。私はこの街が大好きなんですよ」

 心の底から湧き出てくる言葉に胸を打たれた。


お洒落な灯台を見てペンをとった村山さん。あっというまにスケッチが完成

「航路標識協力団体」という名称を初めて聞いた。航路標識の中には、もちろん灯台も含まれる。

 海上保安庁のホームページを見ると、こう書いてあった。

「航路標識の維持管理等の活動を自発的に行う民間団体等を『航路標識協力団体』に指定し、その活動を支援します」

「協力団体の指定は、要件を満たす団体を広く募集し、航路標識協力団体としての活動を適正かつ確実に行うことが認められる法人等に対して行います。これにより、海上保安庁と連携して活動を行う団体に位置付けられます」

 勝浦市は、これに選ばれたそうだ。

 灯台の維持に伴う工事、草刈りや掃除。灯台の歴史に関する情報を収集・保管したり、一般に向けたイベントを通じて知識の普及に努めたり、あるいは夜間のライトアップなどを工夫することで灯台を愛してもらい、同時に啓蒙活動を推し進めたり……。選ばれたからには、果たさなくてはならない役割がたくさんある。

 初点灯から百年以上。

 ずっと現役で周辺の海を照らし続けてきた灯台が、これからは、海辺の街の未来を照らす光にもなってゆく。

勝浦灯台(千葉県勝浦市)

所在地 千葉県勝浦市川津1090
アクセス 勝浦駅より徒歩で25分
灯台の高さ 21m
灯りの高さ※ 71m
初点灯 大正6年
※灯りの高さとは、平均海面から灯りまでの高さ。

海と灯台プロジェクト


「灯台」を中心に地域の海の記憶を掘り起こし、地域と地域、日本と世界をつなぎ、これまでにはない異分野・異業種との連携も含めて、新しい海洋体験を創造していく事業で、「日本財団 海と日本プロジェクト」の一環として実施しています。
https://toudai.uminohi.jp/

◎灯台を基に海洋文化を次世代へ

日本財団「海と灯台プロジェクト」では、灯台の存在価値を高め、灯台を起点とする海洋文化を次世代に継承していくための取り組みとして、「新たな灯台利活用モデル事業」を公募。この度、2024年度の採択15事業が決定しました。灯台×星空の鑑賞ツアー、灯台を通じた地域学習プログラム、灯台の下で開催する音楽フェスティバルなど、バラエティに富んだ内容となっています。詳しくは公式ホームページをご参照ください。

文=村山由佳
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2024年11・12月特大号

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