気高く居るにも体力が必要です。(前篇)
CREA WEB / 2025年1月7日 17時0分
「私は幽霊というものをほとんど見たことがない」――なのに、毎晩のように襲いかかってくる原因不明の金縛り。調べるうちに、以前から憧れていた「気高さ」や「品」をキープするには、不断の努力によって勝ち得た体力が必要なのだと気づくことに。
約一週間の青森旅行から帰ってきて以来枕元から遠ざかっていた嫌な気配が、数日前からまた顔を出すようになっていた。私が周囲の人々に「最近金縛りがひどくて」と漏らすと、彼らは口々に「部屋になにかいるんじゃない?」と言っておびえた顔をした。旅行から帰ってきて、すっかりそれがいなくなったという顛末を、私は冗談交じりに「悪霊は青森に置いてきちゃったみたい」と話していたが、その青森に置いてきたらしい悪霊は、どうやら執念深く、私の寝室を探して戻ってきてしまったようだった。あそこからここまで徒歩で帰ってきたとしたら、かかる時間はちょうどこのくらいだろうか。それにしてはずいぶん、のんびりと戻ってきたようにも思える。さては、道すがらの岩手でわんこそばでも食べて、日光で温泉にでも浸かっていたのではないのか。ありがた迷惑な律義さで帰ってきたばかりか、はじめたばかりのひとり暮らしの部屋まで突き止めてしまうなんて、まるでしつこい元カレみたいなことをする。
ザーザーという激しい耳鳴りとともに今夜も目を覚ます。あ、きた、と思っているうちに身体はみるみるうちに硬直して、私はしばらくのあいだシーツのなかで一生懸命にもがく。少しでも抵抗する姿勢を示しておかないと、耳鳴りはどんどん大きくなって、私は得体の知れない力に押しつぶされそうになる。実際、この一連のようすが現実で起きていることなのかどうかはわからない。もしこれが現実のことで、一緒に眠っていた誰かがこの姿を目撃したとしたら、きっと私は凄まじい形相をしているだろう。首が意思とは関係なく上へ引き上げられ、自分が徐々に白目を剥いていくのがわかる。本当に悪霊に憑かれているみたいだ。数分間の格闘の末にやっと身体が自由になると、私は枕元の水を飲み、深く息を吸いこんだ。
私は幽霊というものをほとんど見たことがない。たったいちど、家のなかで自衛隊のような恰好をした男が匍匐前進でこちらに迫ってきたことがあるが、なにせ幼い頃の記憶で、今になってみると本当に見たのかどうかも怪しかった。金縛りにかかっている最中も、それらしきものを見たことはない。幽霊を信じていないわけではないが、私は「見えない側の人」で、見たいとも思っていない。知り合いに見せてもらった“呪いの人形”や“覗くと死ぬ鏡”なんかも、なんの抵抗もなく平気で抱っこしてみたり覗いたりしてみたものの、私は呪われなかったし、不慮の事故で死んだりもしなかった。今のところは。
グーグルで金縛りの原因について調べてみると、たいていのサイトには「不規則な生活」「ストレス」と書いてある。不規則な睡眠時間に、不安や、急な仕事量の変化……残念ながらどれも心当たりしかない。規則的な生活には向いていないと、自ら進んではぐれ者のような生活を送ってきた。最近は仕事の期日に日々頭を悩ませるようになって、いよいよこの自由気ままな生活に身体が悲鳴をあげ始めたのだろう。運動はしたくない、好きなものだけ食べて、好きな時間に寝起きして、酒もたばこも好きに呑む。こんな調子で年老いて死ぬまで逃げおおせるほど、やはり人生は甘くないのである。
壊れているのは機械ではなく私だった
最初の金縛りに悩み始めたのと同時に、私は自分の胸の鼓動に違和感を覚えるようになった。夜眠ろうとすると、それまで規則的だった心臓の動きが、数回にいちど胸を殴られたように大きく響く。そのあと心拍一回分の音が抜けて、またもとの鼓動に戻る。なんどもなんどもそれを繰り返す。痛みは特にないが、なにか良くない事態が起こっていることは明らかだった。私の脳裏に「突然死」という言葉がよぎる。世間でちょっとばかり評価され始めた矢先に夭折する若い作家の話は昔からよくある。彼らの作品は、その命の短さも含めて評価が上がり、その儚い生涯は美しい物語に昇華される。気軽に泣ける感動的な話。当の本人たちからすればたまったもんじゃないだろう。もしや、私もそのコースに乗り始めているというのか。いや、美談になるにも人気が中途半端すぎる。全然まだ死にたくない。そう思って病院で検査を受けた。
胸にいくつかの吸盤をくっつけられて、仰向けになってじっと天井を見つめる。心電図の機械をいじっている看護師のようすがおかしい。「あれ? あれ?」と言いながらあちこちのボタンを押し、私の足首につけたクリップのようなものを外したりつけたり、いちどつけた吸盤を取ってまたくっつけてみたりを繰り返している。看護師は私にペコペコと謝って検査室を出ていき、それからまた数人の看護師を連れて戻ってきた。
「機械の調子が悪くて」
「おかしいね。電源入れなおしてみてよ」
「充電切れてるんじゃない? そんなことないか」
「このバッテンの表示はなに? 見たことないよ」
どうやら心電図が表示されないらしい。あーでもないこーでもないと言いながらまた別の看護師が集まって、最終的に私の周りで5人ほどの看護師が、なかばおびえながら心電図を見守っていた。どうやら、壊れているのは機械ではなく私のようだった。
「こんなのはじめて。録画して録画」
「とっても冷たい。大丈夫ですか?」と足をさすられながら聞かれた。手足が冷たいのはいつものことで、べつに体調が悪いというわけでもなかった。結果的にやはり不整脈があるという診断を受け、大学病院に紹介状を書いてもらって今に至る。最近以前にも増して体力が落ちたとは思っていたが、まさかこんなことになるなんて。全力疾走できる距離が短くなったとか、徹夜ができなくなったとか、そういうことで「体力がなくなった」と思ったわけではない。私は最近、姿勢が悪い。私はたぶん、気高く佇む体力を失ったのだ。
伊藤亜和(いとう・あわ)
文筆家・モデル。1996年、神奈川県生まれ。noteに掲載した「パパと私」がXでジェーン・スーさんや糸井重里さんらに拡散され、瞬く間に注目を集める存在に。デビュー作『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)は、多くの著名人からも高く評価された。最新刊は『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)。
文=伊藤亜和
イラスト=丹野杏香
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