「人形劇は一つの宇宙」藤城清治100歳の“原点”
CREA WEB / 2024年12月26日 17時0分
影絵作家の藤城清治さんは、2025年4月17日に101歳を迎えます。長きにわたる創作活動の原点はどこにあるのでしょうか。絵を描くことが好きだった幼少期、学徒動員に駆り出された学生時代、そして雑誌『暮しの手帖』での仕事など、影絵の道を切り開いた歩みをうかがいました。
慶應義塾の学びが創作の源となった
――さまざまな作品を制作してきた藤城先生ですが、その原点はどこにあるんでしょうか。
藤城 やっぱり学生の頃に美術部のパレットクラブに所属して、並行して児童文化研究会で人形劇を始めたのが土台だったね。
僕は慶應義塾普通部(中学校)に入学したんだけど、油絵を教えてもらったり、版画のエッチングを作ったり。造形の先生が大工用具を揃えてくれてカンナをかけるとか、椅子や戸棚を作るとか、いろんなことをやらされたね。
デッサンもしっかりとやって、さらに趣味的に人形を作っている感じだった。僕の根本的な部分にある創作の源は、そういう学校の学びが形作ったと言えるかもしれない。それで慶應義塾の創業者である福沢諭吉の独立自尊の精神が結びついたのかもしれないね。
――充実した学生生活だったのですね。
藤城 友達にも面白い子がいてね。パレットクラブで知り合った子は、幼稚舎から在籍していて、庭にアトリエを持っていた。仲良くなると、「なかなか手に入らない日本産の赤色の絵具だよ」と見せてくれたり。自転車に乗ってみんなでデッサンしに行くこともあったよ。うちの母屋の床の間で人形劇をやったりね。
人形劇は、小さな要素が集まって一つの宇宙を創る
――その頃から人形劇の魅力に気づいていたのですね。
藤城 人形劇は人間の10分の1くらいの大きさで、色んな人が関わるから面白いね。絵は一人でできるけど、人形劇は普通の演劇とも違うから。幕は横に開くのか、下から巻き上げるのか。音楽は美しい音とか雨が降る音とか。光はどう当てるとか。そういう一つ一つが相当大きな要素として、一つの小さな世界に命というか、世界、宇宙そのものを作っていく。
しかも人形劇は子どもに見せるというだけじゃなくて、古いものから各国の人形までいろいろ種類があって、人形そのものの良さみたいなものがある。学生の頃は、よく各国の人形について調べたり、観たりすることもたくさんやったね。
けれど1942年から学徒動員に駆り出されて、1カ月、2カ月と農家の畑で土木工事をするようになって、いろんな農家に泊まってね。高校の先生だけじゃなくて、大学教授も駆り出されてみんなであっちこっちへ行ったんだ。その時にフランス文学や歌舞伎の教授から、専門的な話を聞くのがとても面白かった。みんな正式な授業はないから、そういう話ばかりするんだよ。当時、30代くらいの教授だったと思うけどね。
特攻平和館で見つけた友人の名前
――光さすメルヘンの世界を描いていた藤城先生ですが、80歳を過ぎた頃から、自らの戦争経験の蓋を開けられます。鹿児島県の知覧にある「知覧特攻平和館」では、慶應の同級生で親友だった「舟津一郎さん」の名前を見つけ涙されました。そして2016年に「平和の世界へ」という作品を制作されます。
藤城 僕も翌年には海軍予備学生に志願して、命がけ、というほどじゃないけど、いろいろあって。部下が少年兵だったから、一緒に人形劇をやったりもしたんだけどね。
――終戦後は、1947年に大学を卒業して、映画会社の東京興行(現・東京テアトル)に入社されます。
藤城 配属先は宣伝部で、テアトル銀座、銀座全線座の映画、パンフレットの編集を担当したんだけど、僕は何でも作るのがうまかったから、みんなに便利がられてね。でしゃばるタイプじゃなくて、どちらかというとくっついていくタイプだったから、余計使いやすかったんだと思う。
当時は日本で映画を作れるような状況じゃないから、どのアメリカ映画を配給するか試写をして決めるのが勝負でね。僕は最年少だったから、「若い子の意見を聞かせてほしい」とその試写によく連れていかれたんだ。社長とかごく少数の人しかいない場だったけどね。
花森安治からの誘い
――当時のパンフレットは、藤城先生のデッサン力が感じられる紙面です。その頃に『暮しの手帖』の初代編集長である花森安治さんと出会うのですね。
藤城 花森さんが大橋鎭子さんと一緒に暮しの手帖社の前身となる「衣裳研究所」を設立したころだった。僕が新橋駅近くの小さな映画館の小部屋で編集の仕事をしていて、そのビルの2軒隣が花森さんたちの入居するビルだったんだ。
花森さんに「どんなものを描いているの?」と聞かれたからパンフレットを見せて「これを全部やっている」と説明したら、とても驚いていた。それで花森さんが「来年、本を出そうと準備しているんだけど、一緒に作らないか」と誘ってくれたんだ。それが『暮しの手帖』だったんだよ。
『暮しの手帖』の最初の創刊号では人形劇の「ピータァ・パン」を載せた。うちの庭で写真を撮ったんだ。その後に2号に向けた打合せを狭い事務所でやっている時に停電が起きて、影絵の話で盛り上がった。それで花森さんと、「じゃあ影絵をやろう」となって、第4号からは本格的に影絵に転換していくんだけどね。
けれど、僕はもともと影絵を作っていた訳じゃなくて、影絵劇を作っていて、光を当てて動かしていたんだ。だから、『暮しの手帖』では、それを写真に撮って載せたんだよね。
『暮しの手帖』は当時、そこまで部数が出ているわけじゃなかったけど、花森さんは歳が離れていたのにすごく面白いことを言ってくれるし、気が合ったんだと思う。僕みたいな者の感覚を参考にしてくれている部分もあったから。
そう考えると、僕の物作りが偉いとかそういうのではなく、花森さんが僕を選んだのが偉いんだろう。偶然かもしれないけど、僕から何かを感じてくれたんでしょう。映画会社にいた頃も、僕を試写会に連れて行ったり、パンフレットを作らせたりしたのは、社長らしい。そう考えると、どの仕事も僕から「やりましょう」と言ったわけじゃない。いろいろとやっていると、必ずそういう道が拓かれて、いい人に出会えるんだ。
藤城清治(ふじしろ・せいじ)
1924年東京生まれ。1948年『暮しの手帖』で影絵の連載を開始。1956年には影絵劇『銀河鉄道の夜』にて、国際演劇参加読売児童演劇祭奨励賞、日本ユネスコ協会連盟賞受賞。1983年には絵本『銀河鉄道の夜』がチェコスロバキアの国際絵本原画展BIBの金のりんご賞受賞。2013年には藤城清治美術館那須高原をオープンするなど、精力的な活動を進めている。
文=ゆきどっぐ
写真=榎本麻美
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