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〈祝ゴールデングローブ賞受賞〉浅野忠信を育てた母・順子さん(74)が語る「家族の歴史」 米兵の父との別れ、元芸者の母との生活、“ハマに名を馳せた”10代…

CREA WEB / 2025年1月15日 18時0分

 ドラマ「SHOGUN 将軍」でゴールデングローブ賞助演男優賞(テレビドラマ部門)を受賞し、国際派俳優として注目される浅野忠信(51)。長女のSUMIRE(29)、長男のHIMI(25)もモデルやシンガーソングライターとして活躍中。そんな一家の面々を陰で支えてきたのが、浅野忠信の母、浅野順子さん(74)だ。

 順子さんは、戦後、日本に駐留していたアメリカ人調理兵の父と元芸者の母の間に生まれ、1960年代、山口小夜子やキャシー中島も所属し、横浜・本牧のディスコで華やかに遊ぶことで知られていた美少女グループ「クレオパトラ党」の一員だった。さらに、60歳を過ぎて出会った恋人に才能を見出され、画家デビューしたという特異な経歴を持つ。

 彼女と同時代を生きてきた畏友、ミュージシャンの近田春夫さん(73)を聞き手に迎え、稀代の女傑の半生を彼女のアトリエで掘り下げる。


浅野順子さん。対談は、彼女が日々創作に励むアトリエで行われた。本棚には、美術書がいっぱい。

24歳・米兵の父、39歳・元芸者の母のもとに生まれて

近田 浅野忠信さんのゴールデングローブ賞受賞、おめでとうございます。

浅野 ありがとうございます。あの日は1月6日で、私は明治神宮に初詣に行っていたんです。混雑を避けて、少し遅めにね。その帰り、車のハンドルを握っていたら、カーラジオから忠信が助演男優賞を獲得したというニュースが流れてきたから驚きました。

近田 めでたいね。初詣のご利益かな(笑)。お祝いのメッセージは送りました?

浅野 ええ、すぐに「ゴールデングローブ賞受賞、心からおめでとう。やったね。落ち着いたらみんなで食事しようね」というメールを送りました。そしたら、忠信からは「ありがとう。やったよ。本当に嬉しい。みんなのおかげ」という返事が戻ってきた。授賞式の当夜、東京にとんぼ返りしてすぐに別の映画の撮影に入ったから、まだ会えてはいないんですけど。

近田 母として、何か特別な感慨はある?

浅野 忠信は今、50歳だけど、このぐらいの年齢で受賞したことは、本当によかったなあと思います。

近田 そんな国際的俳優の母親である浅野順子さんは、生半可な映画やドラマよりも劇的な半生を歩んできたという。その噂を耳にして、これは深掘りしたいなと。同学年の人間として同時代を生きてきた俺は、ものすごく興味を惹かれました。


近田春夫さん。「浅野順子という人物の魅力をもっともっと世間に知らしめなければならない」という気持ちに駆られ、今回の対談を自ら企画した。なお、対談そのものは2024年夏から秋にかけて行われ、今回の記事掲載に当たって最新情報を加えたため、近田さんは半袖シャツを着ている。公開が遅くなりまして恐縮です。

浅野 私と近田さんが知り合ったのって、いつでしたっけ。

近田 十数年前、「サリーズ・バー」という店がホテルで開いたパーティーのチークタイムだったね。ダンスの相手として順子さんを誘ってみたら、快諾してくださいまして。その時は、この人があの浅野忠信のお母さんだとは知る由もなかった(笑)。

浅野 そうか。あれが初対面だったのね。付き合いは長いものの、確かにこれまで、私の生い立ちについて近田さんに詳しく話す機会はなかった。

近田 さて、1950年に誕生した順子さんだけど、生まれた場所はどこ?

浅野 横浜の弘明寺(ぐみょうじ)ってところ。

近田 ああ、京急の駅があるとこか。上大岡の隣だよね。その名の通り、由緒あるお寺があるんだっけ。

浅野 そうそう。ご本尊の観音さまは、国の重要文化財に指定されてる。


順子さんは1950年9月23日生まれ、近田さんは1951年2月25日生まれ。つまり同学年に当たる。

近田 順子さんは、日本人のお母さん、アメリカ人のお父さんの間に生まれたハーフだよね。ご両親のなれそめは?

浅野 父の名は、ウィラード・オバリング。進駐軍の料理兵だったのよ。横浜の施設に赴任している時に、母のイチ子と知り合ったってことみたい。初産で私を産んだ時、母は、もう39歳だった。

近田 当時としては、相当な高齢出産だよね。その時、お父さんはおいくつ?

浅野 24歳。

近田 15も年下か。かなりの年齢差があるね。

浅野 母は小柄だし、芸者をやってたぐらいで、それなりに綺麗だったから、アメリカ人の目には若く見えたんじゃないかな。

父はアメリカに帰国、母と一緒に日本に残ることに

近田 へえ、芸者さんだったんだ。

浅野 そう。母の父、つまり私の祖父が、満洲で芸者の置屋を営んでいたのよ。大連で生まれ育った母は、南満洲鉄道、いわゆる満鉄に勤める相手と結婚してたんだけど、その人とは離婚して、終戦後、ひとりで日本に引き揚げてきたらしい。


アトリエの壁には、次男である浅野忠信の写真も飾られていた。

近田 そして、運命の出会いに至ったわけだ。

浅野 ところが、私が4歳になった頃に、父は、進駐軍の引き揚げに伴って、アメリカに帰っちゃったのよ。

近田 じゃあ、お父さんと暮らした記憶は、あんまりないのかな。

浅野 覚えてるような、覚えてないような、そんな感じ。ただ、当時住んでいた家の向かいに横浜国大のグラウンドがあったんだけど、ある年のクリスマスイブに、そこにヘリコプターが着陸して、機内から、七面鳥と大きなもみの木のクリスマスツリーを抱えた父が出てきたことは鮮明に覚えてる。

近田 ずいぶんドラマティックな光景だねえ(笑)。お母さんと順子さんを連れて帰国するっていう選択肢はなかったわけ?

浅野 当時の日本人女性にとっては、生半可な覚悟で渡米することなんかできなかったんじゃないかな。まだまだ差別も激しかっただろうし。それであきらめたんだと思う。ギリギリまで迷ってたみたいだけど。


順子さんの愛犬、ビスケット。来客が大好きで、取材中はスタッフたちの足元にさかんにじゃれついていた。

近田 そもそもさ、二人の間の意思疎通はどうしてたんですか。英語なり日本語なり、共通言語はあったわけ?

浅野 それが、お互い、相手の母語はほとんどしゃべれなかったの。だから、父が帰国してからというもの、母は、近所に住む英語ができる人に、手紙を翻訳してもらってエアメールを送っていた。

近田 はいはい。渋谷の109の裏には、そういうラブレターを代書する店があったことから「恋文横丁」と名付けられた小道があったよね。

浅野 父からは、毎月お金が送られてきた。1ドルが360円という固定相場の時代だったから、結構いい生活ができたのよ。それを本町の銀行で受け取ると、不二家レストランで食事したり、デパートで買い物をしたり。楽しかったなあ。


米軍が駐留した終戦後の横浜ならではの思い出が、次々と鮮明に蘇る。

近田 他に、当時のことで印象に残っている記憶はある?

浅野 うちの母が、ソシアルダンスのチャンピオンだったのよ。美容院に行って髪を美しく整えてから、弘明寺の商店街にあったダンスホールで、着物を着て踊りの練習をするの。私は、それを座って見てたことを覚えてる。

近田 粋な和洋折衷だねえ。

浅野 弘明寺の映画館もお洒落だった。アメリカにあるような造りで、内装は薄いブルーだったりピンクの色合いだったりしてね。ロビーには、ヴィヴィアン・リーだとか、当時の映画スターの大きな写真が張ってあって、私は、飽きもせず眺めてた。

「ファミリーヒストリー」で知った、連絡の途絶えた父の“その後”

近田 お父さんとお母さんは、ずっと連絡を取り合ってたの?

浅野 いや、いつの間にか、連絡は途絶えちゃった。

近田 となると、その後の消息は不明だったのね。

浅野 ずっとそうだったんだけど、2011年に放送されたNHKの「ファミリーヒストリー」の取材で、いろいろなことが明らかになったのよ。

近田 ああ、著名人の家系を遡る番組だよね。

浅野 あの番組、本当にすごいのよ。1年以上の時間とものすごい手間をかけて、詳細にリサーチを進めるんだから。

近田 その結果、どんなことが分かったの?


近田さんの父も、浅野さんの母同様、戦時中は満洲で暮らしていた。現地では、NHKから出向する形で、満洲電信電話という会社で放送業務に従事。同社のアナウンサーを務めた森繁久彌とは同僚であった。

浅野 実のところ、父と別れた後の母は、ほとんど父のことを話すことがなかったんだけど、一度、「父にはインディアンの血が入っている」と教えてくれたことがあるのよ。

近田 その話、浅野忠信に関するトリビアとして、俺も耳にしたことがあるよ。なるほど、言われてみればネイティブアメリカンっぽい顔だよなあと思ってた。

浅野 でも、調べてみたら、そうじゃなかったのよ。父の両親は、それぞれ、オランダとノルウェーからの移民だった。先祖にネイティブアメリカンはいない。

近田 そうなんだ。今日の順子さんの三つ編みのおさげを見ると、ネイティブアメリカン説に一票を投じたくなるけどね(笑)。

“兄弟”に手渡された、一枚のボロボロの写真

浅野 さらに、帰国から4年後、父は地元で知り合った女性と再婚していたという事実が分かったの。その女性には、連れ子である二人の息子がいた。

近田 人に歴史ありだね。

浅野 「ファミリーヒストリー」は、忠信と私の二人が、忠信が映画のロケで滞在していたロンドンのホテルの一室で調査映像を観るという体裁だったんだけど、最後、その現場に父の継子二人がわざわざアメリカから会いに来るというサプライズが用意されていたのよ。

近田 ……泣いちゃうよね。

浅野 そりゃあ、忠信ともども、号泣しながらハグしましたよ(笑)。その場で手渡されたのが、ボロボロのウォレットだったの。その中には、一枚の写真が入っていた(と、その現物を示す)。


父・ウィラードさんがウォレットに忍ばせ、終生その身に携えていた順子さんの写真。

近田 うわっ、これ、小さい頃の順子さん?

浅野 そうよ。父は、この写真を肌身離さず死ぬまで持ち歩いていたんですって。その時、彼が1992年に65歳で亡くなっていたことを知りました。

近田 どれだけ愛されていたかが分かるよ。しかし、20年近く経ってから、実の父の没年を知ったわけだね。

浅野 そして、葬儀の際、父の棺を覆ったというアメリカ国旗も送られてきたの(と星条旗を広げる)。

近田 これは貴重なものだね。


順子さんの父、ウィラードさんの葬儀で使用された国旗。アメリカでは、退役軍人の葬儀において、棺を星条旗で包むという習わしがある。

浅野 もしも、あの番組がなければ、父の後半生について、私はずっと知らないままだったかもしれない。

近田 よかったよかった。俺のとこにも、「ファミリーヒストリー」の出演依頼が回ってこないかな。何か知られざる事実が判明するかもしれない(笑)。

浅野 おすすめします(笑)。

近田 お父さんと音信が途絶えた後、浅野母子はどんな風に暮らしていたの?

親戚筋を頼って移った土地で遭ったイジメ

浅野 しばらくは、神戸とか津とか、親戚筋を頼って、いろいろな土地を転々とすることになりました。

近田 相当な苦労を重ねたんだろうね。

浅野 母の弟、つまり私にとっての叔父が、津の一身田というところでクリーニング屋を営んでたから、母はその手伝いをしてたの。ただ、就学前で幼かった私は、1年ほど、神戸の六甲の近くに住んでいた伯母に預けられた。

近田 そんなに小さい子と二人っきりじゃ、働きには出られないもんね。

浅野 母は、「ちょっと買い物に行ってくるね。順ちゃん待っててね」と言って神戸の伯母の家を後にし、津に行ったっきり一度も帰ってこなかった。それがショックで、毎日泣いてご飯も食べられなくて。「これじゃ順ちゃん死んじゃうよ」と気の毒がった伯母が母に連絡して、津で一緒に暮らすことになったの。


アトリエには、順子さんの手がけた多種多様なオブジェが所狭しと並ぶ。

近田 それが何歳ぐらいのこと?

浅野 小学1年だったかなあ。津では、遊郭の跡みたいな建物の中の部屋を借りて住んでました。当時の私は、髪の色も明るかったし、田舎にしてはハイカラな格好してたから、妙に目立っちゃって、地元の子にはいじめられましたよ。

近田 ハーフという存在は珍しかったでしょう。

浅野 でも、私も、一方的にいじめられるだけじゃない。石を投げられたら、その石を拾って相手に投げ返してましたから(笑)。

近田 心が強いねえ。今の順子さんの片鱗がうかがえるよ(笑)。

家庭内で何度も起きた、“修羅場”の数々

浅野 私が津で通った一身田小学校では、校長先生が、めいめいの児童に与えられた番傘に、筆で名前を書いてくれるのよ。雨が降ると、その傘を差して帰ったことを覚えてる。

近田 番傘! ずいぶんと時代を感じさせるエピソードだねえ(笑)。

浅野 そんな中、母はとある同業者のクリーニング屋の男性と知り合い、彼の優しさに惹かれて恋愛に発展したのよ。でも、ややこしいことに、その人は妻子持ちだった。その関係を面倒がった母は、私を連れて横浜に戻ってきたの。そしたら、その男の人が追いかけてきちゃってさ。

近田 ええっ、津に家庭があるのに?

浅野 そう。奥さんが、私たちの家の玄関先で「夫を返してください」と言ってたのを覚えてる。返すも何も、ちょうだいなんて頼んでないわよと思ったけど(笑)。

近田 修羅場だねえ。


絵具やクレヨン、筆などを自在に駆使し、浅野順子独自の世界が生み出される。

浅野 結局、私たち母子はその男性と一緒に暮らすことになった。でも、やっぱり、優しい人っていうのは曲者でさ。誰に対しても優しいのよ。また、母とは違う子持ちの女の人と付き合い始めちゃった。すったもんだの末、元の鞘に収まったんだけどね。

近田 懲りない人だなあ。順子さんは、横浜ではどの学校に通ってたの?

浅野 中学校は、横浜市立南が丘中。高校は、京浜女子高校(現・横浜創英高校)に入ったけど、私は何しろ学校が嫌いだったから、途中でやめちゃった。

近田 その後はどうしてたわけ?

浅野 すでに中学の頃からそうだったんだけど、自宅には帰らず、いろんな友達の家を転々としてた。横浜だけじゃなく、船橋にも友達がいたし、小岩にもいたし。その頃、家に電話をしたら母が出た。でも、「ウウウウ……」と唸るばかりで、しゃべれないのよ。私を案ずるあまり、心労がたたって口がきけなくなってしまったらしい。

近田 心因性の失声症というやつだね。

浅野 そんな中、久しぶりに家に帰ったら、その二番目の父に、初めてバシーッと頬を叩かれた。「何てことするんだ!」って。

近田 そのお父さんの気持ちも分かるよ。そして、ハイティーンを迎え、ハマに名を馳せる浅野順子の伝説が幕を開けるわけだよね。この続きが楽しみだよ!

〈次回に続く〉

浅野順子(あさの・じゅんこ)

1950年横浜市出身。ゴーゴーダンサー、モデルなどを経て結婚し、ミュージシャンのKUJUN、俳優の浅野忠信の2児を儲ける。ブティックやバーの経営に携わった後、独学で絵画を描き始め、2013年、63歳にして初の個展を開催。その後、画家として創作を続ける。ファッションアイコンとしても注目を浴び、現在は、さまざまなブランドのモデルとしても再び活動を繰り広げている。

近田春夫(ちかだ・はるお)

1951年東京都世田谷区出身。慶應義塾大学文学部中退。75年に近田春夫&ハルヲフォンとしてデビュー。その後、ロック、ヒップホップ、トランスなど、最先端のジャンルで創作を続ける。文筆家としては、「週刊文春」誌上でJポップ時評「考えるヒット」を24年にわたって連載した。著書に、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア)、『グループサウンズ』(文春新書)などがある。最新刊は、宮台真司との共著『聖と俗 対話による宮台真司クロニクル』(KKベストセラーズ)。

文=下井草 秀
撮影=平松市聖

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