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山口小夜子も参加した“伝説の美少女軍団”「クレオパトラ党」、浅野忠信の母・順子さん(74)もメンバーだった!「ディスコでバチンバチンになることも…」

CREA WEB / 2025年1月25日 11時0分

 ドラマ「SHOGUN 将軍」でゴールデングローブ賞助演男優賞(テレビドラマ部門)を受賞し、国際派俳優として注目される浅野忠信(51)。長女のSUMIRE(29)、長男のHIMI(25)もモデルやシンガーソングライターとして活躍中。そんな一家の面々を陰で支えてきたのが、浅野忠信の母、浅野順子さん(74)だ。

 順子さんは、戦後、日本に駐留していたアメリカ人調理兵の父と元芸者の母の間に生まれ、1960年代、山口小夜子やキャシー中島も所属し、横浜・本牧のディスコで華やかに遊ぶことで知られていた美少女グループ「クレオパトラ党」の一員だった。さらに、60歳を過ぎて出会った恋人に才能を見出され、画家デビューしたという特異な経歴を持つ。

 彼女と同時代を生きてきた畏友、ミュージシャンの近田春夫さん(73)を聞き手に迎え、稀代の女傑の半生を彼女のアトリエで掘り下げる。(第2回/第1回から読む)


右から浅野順子さんと、聞き手の近田春夫さん。壁にかかるドローイングは順子さん自身の作品。順子さんは1950年、近田さんは1951年に誕生しているが、近田さんは早生まれのため、同学年に当たる。

ディスコで一触即発の雰囲気に…「クレオパトラ党」加入秘話

近田 順子さんは、10代の終わり、横浜で鳴らした遊び人の女の子のグループ、「クレオパトラ党」に参加したんだよね。

浅野 そう。私が仲間入りしたのは、18歳の時。まずは、前段として、「ナポレオン党」の説明が必要よね。

近田 60年代後半の横浜では、ナポレオン党という若い男性のグループが、外車を乗り回したり、ダンスパーティーを開いたりしていたんだよね。

浅野 そして、本牧や中華街を拠点としたナポレオン党の周辺にいた女の子たちが、クレオパトラ党を名乗ることになったのよね。


10代の頃の思い出をヴィヴィッドに語る浅野順子さん。

近田 クレオパトラ党には、山口小夜子やキャシー中島など、後に有名になるメンバーが集っていた。今や、知る人ぞ知る伝説的な存在と化しているらしいね。順子さんがクレオパトラ党に入ったきっかけって?

浅野 ある晩、私が女友達と一緒に元町にあった「ロマン」っていうディスコで踊ってたら、5~6人でつるんだ生意気な感じの女たちが入ってきたわけ。そのうちの一人が、「何、人の縄張りで踊ってんのよ」みたいな視線を向けてきて、バチンバチンな雰囲気になったけど、喧嘩にまでは発展しなかった。

近田 一触即発だったのね(笑)。

浅野 その翌日、私は、バンドマンだった当時の彼氏に連れられて、元町にあったレストラン「シェル・ブルー」に行ったのよ。

近田 はいはい。あのビルの地下には、人気のディスコ「アストロ」があったよね。

浅野 私の彼氏は、「俺のバンドのヴォーカルも、そいつの彼女を連れてくるから」と言う。いざ顔を合わせてみたら、そのヴォーカルの彼女というのが、前の晩にバチンバチンに張り合ったあの女だった。

近田 漫画みたいな展開だね(笑)。

浅野 それが、サリーだったのよ。

近田 はいはい、今、横浜の弁天通りで「サリーズ・バー」を切り盛りしてるサリーね。

浅野 そう。そのレストランで食事しながら話していたら、あっという間に意気投合して、その日から、二人で家にも帰らず遊び呆けることになった。


一見、ダメージジーンズのように見える順子さんの着ているつなぎだが、破れた穴のように見える部分も、ポケットも、実はすべてプリント。お洒落上級者である。

人数は? ナポレオン党との関係は?

近田 そこから、順子さんもクレオパトラ党の一員になったってわけね。クレオパトラ党って、総勢何人ぐらいだったの?

浅野 せいぜい6人ぐらい。ナポレオン党だって、せいぜい10人とかじゃない?

近田 あっ、そんなもんなんだ。もっと大所帯だったのかと思ってたよ。

浅野 よく勘違いされるんだけど、クレオパトラ党のメンバーは、別にナポレオン党の男どもの彼女ってことでもなかったのよ。一緒にドライブしたりはするものの、ただ単に友達。だって、N党の面々は、わざわざ私たちと付き合わなくても、よその女の子を引っかけて上手いことやってたから(笑)。


順子さんは、知人から譲られたというコーンスネークをアトリエで飼っている。名前は「さゆり」。ここに来た時の体長は約10cmだったが、現在は約130cmにまで成長した。

近田 ナポレオン党もクレオパトラ党も、世間では不良と呼ばれていたけど、後年登場する暴走族とかヤンキーみたいに下世話でドメスティックな集団とはニュアンスが違ったよね。

浅野 そうそう。美学があったし、スマートに遊んでましたよ。ナポレオン党は、車を持ってるぐらいだから、ちょっとした小金持ちの息子が多かったしね。

近田 昔は、バンドにしたってそうだったよ。ある程度の経済力に恵まれた家の子じゃないと、高価な楽器を買えないし、今みたいに貸しスタジオもなかったから、家が広くないと練習場所も確保できなかった。

浅野 まあ、女の子の方は、いい車持ってる男をつかまえればいいだけのこと。でも、クレオパトラ党もさ、言葉は悪いけど、いわゆるズベ公とは違ったのよ。


コーンスネークは、何度も脱皮を繰り返す。財布に入れておけば金運を招くとされるその抜け殻を、彼女は取材班全員に贈りものとして分けてくれた。

近田 今で言う反社、つまり暴力団みたいな組織とのつながりもなかったんでしょ。

浅野 そう。ナポレオン党は、言ってみれば、ただ車と女の子と音楽が好きなだけの若者の集団だった。横浜マリンタワーの下にあったハンバーガーショップに集合して、車で本牧の「イタリアンガーデン」「ゴールデンカップ」といった生バンドが演奏する店に繰り出したり、箱根や湘南の方まで遠出したり。そういや、あの頃はまだ、今は歩行者天国になっている伊勢佐木町の通りも、車が走れたのよね。


小さな木の椅子は、順子さんによるハンドメイド。

クレオパトラ党の「3つのルール」とは

近田 1996年に刊行された『キャシー中島の落ちこんでなんかいられない!』(扶桑社)によれば、クレオパトラ党には以下の3つのルールがあったとか。「一、お酒もケンカもOKだが、タバコはすってはいけない。/一、どんな店であろうと、いったん踊りはじめたら、その店で踊っている誰よりもカッコよくステップを踏まなければならない。/一、一度でも男とセックスしたら、メンバーから出ていくこと」。これって、厳しく守られてたの?

浅野 ……いや、セックスぐらいしてたわよ(笑)。まあ、キャシーは私より2歳下だから、ちょっと厳しめのルールが課されていたのかも。しかし、改めてこうして振り返ってみると、クレオパトラ党っていう名前、ちょっと気恥ずかしいわよね。

近田 そういう気持ち、やっぱりあったんだ。確かに、自称しづらいよね(笑)。誰がつけたの?

浅野 分からない、自分たちで言い始めたんだったか、周りに言われたんだったか……当時は、何かっていうとグループ名をつけたがる風潮があったのよ。


「クレオパトラ党」メンバーだった山口小夜子さん ©文藝春秋

近田 山口小夜子は、後にパリコレなどで活躍する世界的なモデルに成長するわけだけど、クレオパトラ党っぽさは希薄だよね。

浅野 そうね。私たちとは違って、至って普通のかわいらしいお嬢さんだったからね。ちょっと例外的な存在だったかも。

音楽グループ「ゴールデン・ハーフ」に誘われていた

近田 小夜子と俺、昔は渋谷から東横線で一緒に帰ったもんだよ。俺は等々力だったから、自由が丘で乗り換えて別れたんだよね。ところで、クレオパトラ党のメンバーの中で、ハーフだったのは、キャシーと順子さんだけ?


「クレオパトラ党」メンバーだったキャシー中島さん ©文藝春秋

浅野 そうね。でも、あの頃はハーフのモデルが多かったわよね。杉本エマとか、流行ってたもんね。

近田 順子さんには、芸能関係からのアプローチはなかったの?

浅野 実は、ゴールデン・ハーフに入らないかという誘いがあったのよ。

近田 「黄色いサクランボ」を歌ってたゴールデン・ハーフ? 確かに、彼女たちは全員がハーフだという触れ込みだったよね。実際は違ったらしいけど(笑)。

浅野 芸能界って時間厳守じゃない? 私には無理だと思ってすぐに断ったわよ。ちなみに、私の代わりに入ったのが、マリアっていうメンバー。


ゴールデン・ハーフは、1970年に「黄色いサクランボ」でデビューしたグループ。「チョット・マッテ・クダサイ」「ゴールデン・ハーフの太陽の彼方」など、洋楽カバーでも知られる。写真は、ファーストアルバム『ゴールデン・ハーフでーす』。

近田 当時、順子さんはいろいろな女友達の家を転々としてたわけだよね。彼女たちとは、どこで知り合うの?

浅野 遊びに行った先で、気が合ったら友達になるのよ。普通の会社員もいたけど、デザイナーや美容師の卵とか、ファッション関係の子なんかも多かったわね。知り合ったついでに「じゃあ今日泊めてね」って頼むの(笑)。

近田 カジュアルだねえ(笑)。

浅野 なかでも、九品仏は思い出深いなあ。私の友達がいわゆる二号さんをやってて、その相手の男の人にマンションを借りてもらって住んでたのよ。


アトリエの壁や天井、家具などは、自分好みに塗り替えている。

近田 順子さんの友達ってことは、二号さんといっても、まだ若かったんでしょ。

浅野 そう。まだ10代だった。

近田 すごいなあ。

浅野 「順子、いつでも遊びに来ていいよ」って言うから、お言葉に甘えてすっかり住み着いちゃった。挙句の果てに、ナポレオン党の面々まで入り浸るようになって、そこに遊びに来る女の子を口説いたりしちゃってさ。

近田 俺、さっきも言ったように実家は等々力なんだけど、2駅隣の九品仏に、そんな場所があったなんて。

浅野 まあ、女の子たちも、満更じゃない様子だったけどね(笑)。

近田 クレオパトラ党時代、危ない目に遭うことはなかったの?

浅野 あの頃の横浜にはいろんな不良グループが入り乱れていたから、それなりに物騒なこともあったけど、ナポレオン党が守ってくれたからね。振り返ってみれば、よく生き残ってこれたもんですよ(笑)。

近田 ここまでいろいろと順子さんの若い頃の話を聞いてきたものの、中身が濃厚すぎて、実はまだ20歳にも到達していない(笑)。次回は、ゴーゴーガールやモデルとしての活躍についてお聞きします。

〈続きを読む〉高校中退後、ゴーゴーガールに…浅野忠信の母・順子さん(74)が語る、怒涛の青春時代《月収30万円でオーディション制、忘れられないモデル仕事も…》

浅野順子(あさの・じゅんこ)

1950年横浜市出身。ゴーゴーダンサー、モデルなどを経て結婚し、ミュージシャンのKUJUN、俳優の浅野忠信の2児を儲ける。ブティックやバーの経営に携わった後、独学で絵画を描き始め、2013年、63歳にして初の個展を開催。その後、画家として創作を続ける。ファッションアイコンとしても注目を浴び、現在は、さまざまなブランドのモデルとしても再び活動を繰り広げている。

近田春夫(ちかだ・はるお)

1951年東京都世田谷区出身。慶應義塾大学文学部中退。75年に近田春夫&ハルヲフォンとしてデビュー。その後、ロック、ヒップホップ、トランスなど、最先端のジャンルで創作を続ける。文筆家としては、「週刊文春」誌上でJポップ時評「考えるヒット」を24年にわたって連載した。著書に、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア)、『グループサウンズ』(文春新書)などがある。最新刊は、宮台真司との共著『聖と俗 対話による宮台真司クロニクル』(KKベストセラーズ)。

文=下井草 秀
撮影=佐藤 亘

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