東京(前篇)
CREA WEB / 2025年2月4日 17時0分
16歳までの人生を横浜で過ごした伊藤さんは、大学受験を機に上京。以来、自分の中の世界の基準が東京になったのは、”東京に毒されている”から? 「東京」をめぐる思いと、大学時代に出会ったある友人との思い出を綴ります。
「私は絶対、一生都会で暮らしてやるんだから。田舎に引っ込むなんてありえないわ。ヨボヨボになっても東京のど真ん中で生きて、肺いっぱい排気ガス吸い込みながら死んでやる!」
隣のテーブルから聞こえてきたマダムの声に、私は思わず声を出して「そうだそうだ」と言いながら大きく頷いた。マダムはまるで、店にいる全員に向けて宣言するような大きな声でそう言い切ったあと、満足げに傍らのワイングラスを口へと運ぶ。私があのマダムと同じくらいの年齢になってもあんなふうに言えるかどうかはわからないが、ともかく今はその主張に大賛成だ。
私は横浜の港町で生まれ、小学校に入ってからは、その少し奥の急坂に囲まれた静かな町で育った。どちらも横浜にしては田舎っぽいところだったが、少しバスか電車に乗りさえすれば、子どもだけでも気軽にみなとみらいに行くこともできた。映画館も、大きなショッピングモールも、観覧車もある私たちの遊び場。東京というところがあるのはなんとなく知っていたけれど、わざわざ行きたいともその頃は思っていなかったように思う。自宅から1時間以内の場所で16歳までの人生を過ごして、きっとこれから先も、ずっとここで生活をしていくのだろうな、と私は考えていた。
高校3年生になったとき、母は私の座っている床に何冊かのパンフレットを並べた。どれも表紙には大きな建物の写真が印刷されていて、どれにも大きく書いてある漢字の羅列の最後には「大学」という文字がついていた。大学。私が?
「受験料は1校分しか出せない。このあたりなら推薦でいけるかも。ダメだったら働いて」
母はパンフレットのひとつを開きながらそう言った。うちの家族には大学に行った人間がいない。家族どころか、親戚全員の顔を思い浮かべても、だれひとりとして大学を出た者がいなかった。大学って、一体なにをする場所なんだ? その当時、声優かバンドマンになるつもりだった私は、母からの「大学進学」という提案に全く乗り気ではなかった。「大学? そんなよくわからないところで貴重な時間を潰している場合じゃないんだ。私は一刻も早く日本工学院のミュージックアーティスト科に入って、スターにならなければならないのに」。ギターに指一本触れたこともないくせに、私はそんなことを思っていた。しかし、そんな気恥ずかしい夢を皮肉屋の母に言えるはずもなく、とりあえず言われるがまま、東京の大学のオープンキャンパスというものに行くことになった。
「受かるとも、受からないとも言い難い」
京浜東北線に乗って、横浜駅でゾロゾロと人が降りていくのを見送り、多摩川を越えて、東京に足を踏み入れる。品川で山手線に乗り換えると、テレビで聞いたことのある駅名のアナウンスが次々と耳に入ってきた。目黒、恵比寿、渋谷……。一駅停まるごとに「ここがあの!」と気持ちが高鳴り、ドアの向こうのホームの風景を、首を左右に振って見回した。こんなに長く電車に乗ったのは初めてだった。もし大学に行くことになったら、毎日こんなに長い時間をかけて通わなければならないのかと少し不安になったが、そのときはそれよりも新しい土地への高揚感が上回っていた。
30分ほど乗って、目白駅で電車を降りた。通ってきた駅と比べると騒がしさはなく、降りる人もまばらである。こぢんまりとした駅舎を出て身体を右に向けると、短い横断歩道の先にはレンガ造りの古風な門があり、その奥には大きな木が何本も茂っていた。ここが学習院か。厳かな門と、その脇に立っている守衛のおかげか、高校生の私の目には、その門を潜っていく人々がもれなく高貴な人のように映った。今思えば、私はたったそれだけの理由で「この大学に入りたい」と思ったのかもしれない。それから他の大学もいくつか見て回ったが、学習院のあの門と、少し古めかしい校舎より惹かれる大学はなかった。他の私立大学よりも学生数が少ないという点も、なんだか特別なイメージがして魅力的だ。私は公募推薦入試を受けることに決め、ときどき自宅で気まぐれに小論文の参考書を開いてはボーッとキャンパスライフを夢見て過ごした。思い返すと、本当に受かる気があったのか疑わしい不真面目さだったが、家族のなかに「正しい勉強の姿勢」を知るものはだれひとりおらず、私含め全員がなんとなく「受かるとも、受からないとも言い難い」という空気のなかで数か月間生活をしていたような気がする。
危機感も自信もないまま受験当日を迎え、小論文の試験を受けた。テーマは「日本人はなぜ無宗教を自称しているのに、神社にお参りに行ったりクリスマスを祝ったりするのか」というものだった。そんなの知るか、と思いながら、思いつくままに大きな空白を文字で埋めていく。なんども消しゴムで消しては書き直し、終わるころには解答用紙がクシャクシャになっていた。書いてはみたが、自分でもなにを書いているかよくわからない。いける、とも落ちた、とも思わなかった。回収のときチラリと見えた他の受験生たちの答案より自分の書いた量が少ないように見えて、少しだけ不安になった。それから数週間後、高校の体育館でスマホから見た合格者番号のページには、仰々しくもなく、ただひとつの情報として、私の受験番号がちょこんと載っていたのだった。
伊藤亜和(いとう・あわ)
文筆家・モデル。1996年、神奈川県生まれ。noteに掲載した「パパと私」がXでジェーン・スーさんや糸井重里さんらに拡散され、瞬く間に注目を集める存在に。デビュー作『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)は、多くの著名人からも高く評価された。最新刊は『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)。
文=伊藤亜和
イラスト=丹野杏香
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