「集団創作は、快楽を伴う若い才能の搾取だった」脚本家・井上淳一が語る“巨人”若松孝二の功罪

日刊サイゾー / 2018年10月10日 17時0分

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 そこはまさに“夢の砦”だった。ピンク映画『甘い罠』(65)で映画界に殴り込んだ若松孝二監督のもとに、鈴木清順監督のブレーンだった日活の大和屋竺、すでに学生映画界で鳴らしていた足立正生、足立の盟友で『まんが日本昔ばなし』(TBS系)のシナリオ1,230本を手掛けることになる沖島勲といった多士済々たる顔ぶれが集まった。さらにビートたけしが“山の民”を演じた『ほしをつぐもの』(90)を撮るガイラこと小水一男、無印良品をプロデュースする秋山道男、『Wの悲劇』(84)などの脚本や「映画芸術」の編集長として知られる荒井晴彦らが加わった。

 映画界のトキワ荘、いや映画界の梁山泊と化した「若松プロ」を舞台にした実録青春映画『止められるか、俺たちを』が10月13日(土)より劇場公開される。前回の白石和彌監督に続き(参照記事)、『止め俺』の脚本を担当した井上淳一氏をインタビュー。「若松さんとは師弟以上、親子未満の関係だった」と振り返る井上氏に、インディーズ映画界の“巨人”若松孝二の光と影の両面について語ってもらった。

──脚本家としてのキャリアが長い井上さんですが、もともとは「若松プロ」で助監督をしていたそうですね。まず若松監督との出逢いからお聞きできますか?

井上 若松さんと初めて逢ったのは、僕が名古屋で大学浪人していた頃です。高1のときに若松さんが撮った『水のないプール』(82)を観て、高2で『若松孝二・俺は手を汚す』(ダゲレオ出版)を読み、すっかり若松さんに心酔していました。上京して「若松プロ」に入りたい一心で、日大藝術学部を受験したんですが不合格。高校時代から付き合っていた彼女にも振られ、勉強に身が入らず、それで予備校をサボって1983年に名古屋にできた映画館シネマスコーレに通っていたんです。当時は地方の映画館に映画監督が来ることなんてなかったんですが、シネマスコーレには若松さんが現われた。シネマスコーレは若松さんがオーナーでしたから。それで若松さんに「弟子にしてください!」と頼み込み、若松さんが乗車した東京行きの新幹線に僕も飛び乗ったんです。

──初対面の若松さんを追って、東京まで行った?

井上 はい。そのまますぐ助監督になれるとは思ってはいませんでしたが、新幹線で帰る監督を駅で見送るだけのその他大勢にはなりたくないという気持ちでした。若松さんが素晴しいのは、初めて逢った僕のような人間に対しても、ちゃんと向き合ってくれたこと。「うちは給料は払わないが、とりあえず大学に入れば親の金で4年間は自由に過ごせる。だいたいのヤツは4年くらいで監督になれる」と話してくれたんです。東京駅に着き、若松さんは事前に用意していた入場券で改札を出ていきました。仕方ないので僕は自分で精算して改札を出て、知り合いの先輩のアパートにその晩は泊めてもらったんです。出逢った初日から、若松さんのお金に対するシビアさを見せつけられました(笑)。

■助監督たちが「若松プロ」を離れた本当の理由

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