【プロ野球】《センバツトリビアPart 2》アメリカに行きたいか!? センバツ史に名を刻んだ伝説のチームたち

デイリーニュースオンライン / 2017年3月27日 17時5分

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 近年稀に見る打高投低といわれる第89回センバツ。この熱戦を制して、球史に名を残す偉大なチームたちと肩を並べるのはどの高校か? そこで本稿では、センバツ史にさまざまな形で名を刻んだ伝説のチームにまつわるトリビアについて振り返りたい。

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■プロでも活躍! 1000・2000試合目のメモリアルな一戦を戦った男たち

 今大会注目校のひとつ、といえば、21世紀枠で40年ぶり2度目の出場を果たした高知県立中村高校だろう。40年前の大会では、のちに阪急で最多勝にも輝くエース・山沖之彦を擁し、部員12人で準優勝。「二十四の瞳」として話題を集めた。

 奇しくも今大会、中村の4選手がインフルエンザに感染してしまい、12人で開会式に参加。「二十四の瞳、再び」として脚光を集めてしまった。

 そんな中村。実はもうひとつ、センバツ史に大きな足跡を残している。40年前の第49回大会(1977年)の準々決勝・対天理戦が、センバツ通算1000試合のメモリアルゲームだった、ということだ。

 ちなみに、大会通算2000試合のメモリアルゲームを戦ったのは、第81回大会の2回戦。花巻東対明豊の一戦。この試合、花巻東には西武で活躍する菊池雄星がいて、明豊にはソフトバンクの今宮健太がいた。プロでも結果を残す男たちは、高校時代から目立つ舞台を引き寄せていた、というわけだ

■優勝の瞬間はラジオ独占。テレビ中継されなかった決勝戦

 WBCの余波で、例年に比べるとどうしても注目度が下がってしまった感も否めない今年のセンバツ。目立ちたがり屋の球児がいたとすれば、試合結果以上に悔しい気持ちを抱いているかもしれない。

 だが、過去にはもっと目立てなかった例がある。それが1959年4月10日に行われた第31回大会の決勝戦だ。岐阜商(現・県岐阜商)対中京商(現・中京大中京)の一戦は3対2で中京商が勝利し、3度目の優勝を飾った。

 ところがこの1959年4月10日は、皇太子殿下(現・天皇陛下)と正田美智子さん(現・皇后陛下)の御成婚式。NHKのカメラやスタッフのほとんどが国民的一大イベントに駆り出され、決勝戦のテレビ中継がなくなってしまったのだ。

 本来、この大会の決勝戦は4月8日に行われるはずだった。だが、雨天順延のため2日延びてしまい、御成婚式とバッティング。テレビ中継はされず、NHKラジオでのみの中継に。優勝したのに決勝戦がテレビ中継されないという、悲運の高校となってしまった。

■いろんなセンバツ「最短」記録

 WBCといえば、手に汗握る展開もさることながら、「とにかく試合時間が長かった」というのは誰しも思ったこと。その対局にあるのが高校野球だ。センバツのテンポのよさは実に心地いい。大会3目、東海大市原望洋(千葉) 対滋賀学園(滋賀)の一戦は、延長14回までかかったにもかかわらず、試合時間は3時間で済んでしまった。

 そんな“アップテンポ”な高校野球のなかでも、群を抜いて「短かった」試合が1932年の第9回大会。京都師範(現・京都教育大付)対海草中(現・向陽)の一戦だ。試合時間はわずか1時間15分。両チームあわせてヒットがたった3本という投手戦を制し、2対0で京都師範が勝利した。

 ちなみに、最少投球数での勝利投手は、2007年第79回大会での関西・川辺郁也投手。2回戦の創造学園大付(現・創造学園)戦で「77球完封勝利」をおさめている。この川辺投手、背番号は5。本来のエースがケガのため登板できず、試合当日に急遽先発が決定。準備もままならない中でみせた快投だった。

 なお、負け投手も含めると、1960年の第32回大会で秋田商・今川敬三投手が「74球」完投。ただし、このときは8回完投(先攻めのため)での記録だった。

 試合時間以外の「最短記録」も見ていくと、創部1年目でセンバツ出場を果たしたのが2011年、第83回大会での創志学園。前年4月に創部したばかりの1年生軍団が秋の中国大会で準優勝し、超異例のスピード記録を達成した。

 また、優勝までの最短記録は2004年第76回大会での済美。創部わずか3年目での初出場でも偉業なのに、初出場初優勝を成し遂げてしまった。

■優勝の副賞でアメリカ旅行をした学校があった

 1927(昭和2)年の第4回センバツ大会での出来事。大正天皇崩御の喪に服し、大会日程を3日間に短縮し、出場校を8校に絞って行われたこの大会。優勝したのは、のちに野球殿堂入りを果たす左腕・小川正太郎を擁する和歌山中(現・桐蔭)だった。

 そしてこの大会には、なんと今の高校野球では考えられない「副賞」が用意されていた。その副賞がアメリカ旅行。エース・小川は「優勝に加えてアメリカに行けるという喜びで、チームのみんなが泣いた」というコメントを残している。

 このアメリカ旅行には後日談がある。旅行の日程が、夏の予選が始まる直前の7月6日から9月3日までの約2カ月間。つまり、夏の甲子園には出られないのだ。それでも、海外旅行など夢のまた夢だった時代。和歌山中のメンバーは夏の甲子園よりもアメリカ旅行を選択。夏の大会には「補欠メンバー」が出場することになった。

 和歌山中がすごいのは、優勝メンバーがいない補欠メンバーだけで地方大会を勝ち抜き、甲子園出場を決めてしまったことだ。当時の和歌山中の選手層の厚さ、チームの強さを物語るエピソードといえるだろう。

 もちろん、現代の優勝チームにアメリカ旅行は用意されていない。だが、のちにアメリカに渡り、MLBやWBCで活躍する選手がいる可能性は高い。未来のアメリカ行きを目指して奮闘を期待したい。

文=オグマナオト

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