“終活”ブームの一方で、確実に存在する過酷な現実と、光

ダ・ヴィンチニュース / 2013年11月15日 12時10分

写真

『すばらしい日々』(よしもとばなな/幻冬舎)

 60代後半とおぼしき男性が、葉巻をくわえて、煙をくゆらせながら、満足そうな笑顔で座っている。フワフワと温かそうなセーターは、お気に入りの一着なのだろうか。華やかなオーラで輝く彼を、鮮やかな身のこなしのカメラマンが撮影していた。こぼれ落ちようとする笑顔を逃さまいとして、すかさずシャッターを押す。実はこれ、遺影を撮影している、写真館のスタジオの光景だ。

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 近頃、“終活ビジネス”が盛んである。以前まではタブーとされていた「死」と向き合い、そのときのために、最善の準備をしておく。専門家に依頼して遺影を撮影したり、葬儀屋と式の内容について打ち合わせをする。家族で楽しそうに想い出を振り返りながら、明るく笑い合う。世界の中でも高齢化社会の先端を歩む日本において、終活が定着する日も近いだろう。きっと、世界のスタンダードにもなっていくはずだ。

 一方で、死に直面する当人たちにとって、現実的なつらさも待ち構えている。「病院の階段をのぼるとき、いつも逃げ出したかった。全部悪い夢だと思いたかった。死にゆこうとしている父に会うのがこわかった」。文中に登場する父とは、思想家の吉本隆明氏である。これは、小説家よしもとばなな氏による新刊『すばらしい日々』(幻冬舎)の一文だ。主に震災直後から両親の闘病、そして別れまでの日々が綴られている。

 「でも、逃げちゃいけないと思った。本人は死から逃げられない。だから私が普通に会いにいき、逃げてないとこを見せなくてはと思った」。本人だけでなく、家族にとっても、強い覚悟のいること。それが闘病であり、高齢者を取り巻く周囲の方々の現実でもある。

 著者の母もまた、父と同様に病と闘っていた。「同じ家の中や同じ病院にいるのに、私の父と母は互いの部屋を自由に行き来できなくなっていた」。すぐ近くにいるのに、会いに行けない悲しみ。それを見守っている者の、つらさ。そこには一見、闇しか見えない。

 だが、生きようとする気持ちの強さや、誰かを守りたいと願う想いは、死が漂わせる暗さなんかよりも、はるかに輝きを放っている。「父も亡くなるまえはほとんど意識がなかったのに、私の手をぎゅっと握ってくれたことを思い出した。そんなに重い握手はない。すべてをたくされた握手だった」。握り合う手の温もりは、やがて一心同体となり、その瞬間に宇宙の息吹と呼応して、永遠の生命力が宿る。そうして「めそめそしている場合じゃないのだ」と、前を向く。

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