平成アイドル史のターニングポイントを考える「アイドル冬の時代を終わらせたモーニング娘。」

エンタメNEXT / 2019年4月24日 8時0分

テレビ、雑誌、SNS、ライブなど様々な場所で多岐に渡って花開く2019年のアイドルカルチャー。しかし、平成が始まった30年前からそうだったわけではない。長年シーンを見てきた識者が大きなターニングポイントとなったブームを中心に平成アイドル史を振り返る。第1回目は清く正しく美しい正統派アイドルの概念をぶち壊す異端アイドルでありながら国民的アイドルに上り詰め、新たなアイドルの形を次々と作りだしたモーニング娘。が、いかに革新的だったかを、数多くのハロプロ記事を執筆するライターの小野田衛氏が分析する。
──最初にモーニング娘。登場までの平成アイドル史を振り返っていただけますでしょうか。

小野田 1985年にスタートしたバラエティ番組『夕やけニャンニャン』から生まれたおニャン子クラブが一世を風靡し、国民的なアイドルとなりましたが、僅か2年半で番組終了と共に解散します。その後も永作博美や三浦理恵子がいた乙女塾、菅野美穂や中谷美紀がいた桜っ子クラブさくら組などバラエティ番組発のアイドルグループは生まれましたが、おニャン子クラブのような国民的アイドルにはなれませんでした。

──平成が始まった1989年から90年代の半ばまでは、宮沢りえ、牧瀬里穂、観月ありさ、内田有紀のように歌手としても活動する女優がアイドル的な人気を獲得するようになりますよね。

小野田 いわゆる”アイドル冬の時代”ですね。ところが1997年9月、オーディション番組『ASAYAN』から誕生したモーニング娘。が、アイドル冬の時代に終止符を打ちます。番組内の「シャ乱Q女性ロックボーカリストオーディション」で、最終選考に落選した中澤裕子、石黒彩、飯田圭織、安倍なつみ、福田明日香の5人でモーニング娘。が結成された訳ですが、そもそも登場の仕方がアイドルとしては異端でした。今のモーニング娘。は女性ファンも多く、同性から憧れられる存在ですが、当初はイロモノ的な扱いだったんです。なので同じバラエティから生まれたアイドルグループでも、おニャン子クラブや乙女塾のような正統派とは違ったんですよね。強いて言えば野猿とか猿岩石に近い”非本格派”なイメージで。

──確かに初期メンバーはアイドルとしては異色ですよね。

小野田 まず中澤裕子が元OLで24歳という年齢でアイドルになった時点でイレギュラー感が満載ですし、石黒彩は鼻ピアス。福田明日香も垢抜けない佇まいで、いわゆる王道アイドル的なキラキラ感とは程遠かった気がするんです。

──『ASAYAN』自体が正統派アイドルを作るという意図はなかったでしょうしね。

小野田 そもそも『ASAYAN』の前身番組『浅草橋ヤング洋品店』は、今では絶対に不可能であろう過激な企画をウリにしたバラエティ。その延長戦で追っかけていた視聴者としては、アイドルを目指す女の子を応援するというよりは、過酷なミッションを体当たりで、ひたむきにクリアしていく姿を楽しんでいました。1998年5月に保田圭、矢口真里、市井紗耶香が2期メンバーとして加入しますが、この3人も異色でした。でも、これは意図的だったと思うんです。あえてパッとしないけど光るものを持っている原石を選んでいるんです。大体、プロデューサーのつんく♂さんがボーカルを務めるシャ乱Q自体が、洗練とは程遠いロックバンドでしたからね。ヒット曲も出していたし、大物ミュージシャンであったことは間違いないんですが、音楽好きからはどこか失笑されるような存在だった。メイクも曲調も水商売っぽく、その方向性は初期モーニング娘。にも受け継がれています。ただ日本人はヤンキー文化がDNAに組み込まれていますから、つんく♂さんはドメスティックなダサさに意識的で、あえてオシャレさから遠ざけたと思うんです。



──『サマーナイトタウン』や『抱いてHOLD ON ME!』など、初期モーニング娘。の楽曲は大ヒットしましたけど歌謡曲テイストが満載ですからね。

小野田 どちらかというと地味で暗いですよね。むしろアルバム曲の方が派手な印象で、後のハロー!プロジェクトが得意とするR&B色やポップ感はなかった。つんく♂さんの歌唱指導も癖が強くて、明らかにおかしいですしね(笑)。ただ最初は、それがウケたんです。『ASAYAN』自体もモーニング娘。の泥臭い部分を露悪的に見せていましたけど、当時の関係者に話を聞くと、台本はなかったらしいんです。大量のカメラを回して、恣意的にインパクトのあるシーンを使ってはいたんですけど、ヤラせはなかったと。ただ、つんく♂さんが、そういう泥臭い演出に導いていたらしいんです。関西出身でバラエティ好き、しかもアイドル好きのつんく♂さんによるサービス精神がハロプロイズムの根源にあるんですよね。

──初期モーニング娘。が国民的アイドルへと走りだすきっかけは何だったんでしょうか。

小野田 1999年7月14日に、モーニング娘。の『ふるさと』と、同じ『ASAYAN』出身だった鈴木あみの『BE TOGETHER』が同日発売ということで、直接対決だと『ASAYAN』で煽られたんです。『ふるさと』は実質的に安倍なつみのソロ曲ですが、結果から言えば鈴木あみが1位、モーニング娘。が5位と完敗でした。あと『抱いてHOLD ON ME!』はオリコンで首位を獲得して大ヒットしましたけど、その後のシングルは徐々に順位を落としていたんです。運命のいたずらですが、ここでモーニング娘。の方向性を変えざるを得なかった。そこに後藤真希という逸材が入って来て、そこからのカウンターで『LOVEマシーン』を世に送り出した訳です。

──いきなりのディスコサウンドは、後藤真希のスター性も相まって衝撃的でしたよね。

小野田 ただ『LOVEマシーン』自体はつんく♂さんが1993年にシャ乱Qのために作った没曲なんですよね。もともとはギター1本で作ったいなたい曲を、ダンス☆マンの編曲によってダンスチューンとして生まれ変わったんです。その後も『恋愛レボリューション21』や『ザ☆ピ~ス!』など、ダンス☆マン編曲でヒット曲を量産しますが、2002年の『そうだ! We’re ALIVE』で、このコンビは最後になります。



──いずれもヒットしていたので、なぜダンス☆マンを起用し続けないのか当時は疑問でした。

小野田 しかも、そのあたりから以前ほどのヒット曲を出せなくなったので、つんく♂さんではなく、アレンジャーがすごかったのではと揶揄する声もありました。ただ後にダンス☆マンさんに聞いた話だと、つんく♂さんは細かくアレンジの指示を出していたそうなんです。すでに曲の完成形が頭の中にあったみたいなんですね。曲のアレンジに限らず、衣装や振付に至るまで、つんく♂さんは細かく口を出していたみたいですけどね。だったら、なぜダンス☆マンを起用し続けなかったのか。その理由はつんく♂さんはアーティストだから、たとえ売れていても同じことをするのが嫌だったと思うんです。でも、そうして変わり続けたからこそモーニング娘。は今も続いているんですよね。

──メンバーの卒業と加入を繰り返すのもモーニング娘。から始まったことですよね。

小野田 1999年4月18日に東京厚生年金会館で行われた福田明日香の卒業コンサートで、中澤裕子が「これから7人になるけど、モーニング娘。は永久に8人です!」みたいなことを言ったんです。ところがその4カ月後に、あっさり後藤真希が加入(笑)。まぁそれも発明ですよね。当時はモーニング娘。が何年も続くなんて誰も思っていなかったはずなんです。なにせ、それまでのアイドルグループには前例のないことでしたから。

──破壊と再生を繰り返すことで、モーニング娘。は生き残った訳ですね。

小野田 あとモーニング娘。が国民的アイドルになったのはネット文化も大きかったと思うんです。ちょうどデビュー直後にWindows 98が発売されて、パソコンが家庭に普及していった。そして1999年に2ちゃんねるが開設されるんです。これがアイドルとの親和性が高かったんですよね。2ちゃんには多分にマイナスな要素もありますが、たとえば『ASAYAN』を観てメンバーの行間を読んでドラマを創作したり、ロッキンオン的なライブ評を書いたり、自分の意見や情報をオタクの間で共有するようになったんです。あとライブでファン有志がサイリウムを配って一斉に振るとか、同じコールをするなどのオタク文化も、ネットを通じて爆発的に広がったと思うんですよね。その延長線上でオフ会をやったり、クラブイベントを行ったり、運営と関わり合いのない場所でオタクがカルチャーを作っていくようになった。モーニング娘。が変えたのはアイドルのデザインだけではなく、応援するファンの形も多様化させたんですよね。


▽おのだ・まもる
1974年生まれ。出版社勤務を経て、フリーの編集者・ライターに。アイドル文化に造詣が深く、取材経験も豊富。いまだに『3rd -LOVEパラダイス-』を聴き続ける生粋のモーヲタ。

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