「この子はこんなふうに笑うんだった」お受験ママが“タワマン脱出”を決意した理由
Finasee / 2023年10月27日 11時0分
Finasee(フィナシー)
<前編のあらすじ>
元キャビンアテンダントの瀧口咲は、タワーマンションという特別な環境にふさわしい存在であるべく、娘の幼稚園受験の準備に奔走していた。
●前編:【タワマンの「特別感」に心酔した元CA女性…ママ友についた“最初の嘘”】
*夏の終わり、愛梨ちゃんママから突然引っ越しをすると告げられた。意外だった。愛梨ちゃんパパは高層階の部屋のオーナーだからだ。
開業医をしている愛梨ちゃんパパのお父様の体調がすぐれないので、同居してクリニックでの診療をサポートするらしい。マンションの部屋を手放すわけではなく、「とりあえず賃貸に出して、いずれは戻ってくるつもり」という。
愛梨ちゃんも幼稚園受験の準備をしていたが、急遽、引っ越し先の公立に通うことになった。
「愛梨ちゃんと会えなくなって寂しいね」
キッズルームで葵ちゃんママに話を振ると、葵ちゃんママは意味ありげな笑いを浮かべ、こんな話をした。
「愛梨ちゃんのおうち、借金を抱えて火の車だったんですって。なのに愛梨ちゃんママときたら、ド派手なネイルをしてブランド三昧でしょ。大丈夫かしらと思ってた。お部屋、オーバーローンで売るに売れないみたいよ。夜逃げみたいなものだから、もうここには戻ってこられないんじゃないの」
※過去記事:【「軽い気持ちで…」巨額の負債を抱えた外科医を追い詰めた“後妻の秘密”】
葵ちゃんママは幼児教室が一緒の地権者ママと親しく、そこから情報を仕入れてきたようだ。手のひらを返したような辛辣で冷酷な物言いに、葵ちゃんママの別の顔を見たような気がして怖くなった。
やがてマンションの前のイチョウ並木が黄金色に色づく季節になり、莉子の幼稚園受験の考査や面接が始まった。10を超える園の説明会や体験入園に足を運び、うち3校に願書を提出していた。
結果は芳しくなかった。莉子は相変わらず遊戯が上手くできず、そんな自分にいらいらして感情を爆発させる。マイペースで協調性など微塵もない。何のために幼児教室に通わせたのかと頭を抱えた。
絶不調の莉子に対し、葵ちゃんは超のつく有名幼稚園2校から合格を勝ち取った。葵ちゃんは普段は物静かだが、いち早く大人の顔色を読み、自分に求められている振る舞いができる。2歳にして末恐ろしいと思ったことが何度かあった。今の時代、これくらい賢くないと熾烈なお受験戦争を勝ち抜いていけないのだろう。
莉子のお受験をめぐっては、家の中でも火種がくすぶっている。夫は私がお受験に前のめりなことを快く思っていない。受験全滅が確定した週末、珍しく家にいた夫と口論になった。
「莉子が受けた幼稚園、3つとも初年度の納付金が150万円近いんだろ? 3年で400万円か。系列の小学校に行ったら授業料だけでまた年間100万円くらいかかる。ネットで見たら『大学までオール私立で3000万円』と書いてあったけど、とてもそれじゃあ収まらないぞ」
「何言っているの? 莉子の将来を考えたら、それくらいの投資は当たり前じゃない。幼児教育の重要性は科学的にも証明されてる。学齢期前の教育が人格や学習意欲を決定づけるの。小学生になってからじゃ遅いのよ」
「それで莉子が医学部にでも入ってくれるのならいいけれど、幼稚園受験からつまずいてるようじゃ先は知れてる。幼児教室だって通うの嫌がってたじゃないか。今から多大な期待を背負わせるのはかわいそうだよ」
多摩の教育者の家庭で育った夫は、良くも悪くもリベラルだ。「子供の自主性を重んじ、のびのび育てるべき」などという昭和の教育論を恥ずかしげもなく振りかざす。しかも、お受験の準備に奔走する私の苦労も知らず、自分の娘を「先が知れてる」と断じる鈍感さ。父親がこのありさまだから、莉子のお受験が上手くいかないのはある意味当然かもしれない。
しかし、諦めるつもりはなかった。「2年保育でいいんじゃないか」という夫の反対を振り切り、家から少し遠いからと受験を見送っていた幼稚園の二次募集に応募した。莉子が愛らしく上品そうに見えるライトブルーのワンピースを新調し、面接に臨んだ。
合格発表当日、ウェブサイトで発表された合格者の中に莉子の受験番号はなかった。前の3回よりは手ごたえを感じていただけにショックは大きかった。その日は気晴らしに莉子を連れて都内のサンリオピューロランドまで足を延ばした。近場にしなかったのは、マンションのママ友と遭遇するのが嫌だったからだ。
ハローキティが大好きな莉子はアトラクションやショーを楽しんでいるようだった。顔をくしゃくしゃにした莉子の笑顔を久しぶりに見て、ああ、この子はこんなふうに笑うんだったと思い出した。
夕方最寄り駅で下車し、莉子の手を引いてマンションのエントランスに向かっている時、いきなり大型犬が莉子に飛びかかってきた。組み伏せられ、火が着いたように泣き出す莉子。とっさのことに足がすくんで動けなかった。
その時、横から「No!」「Lie down!」という穏やかだが力強い声がした。犬はすぐに莉子から離れ、伏せのポーズを取った。「大丈夫? このワンちゃんはきちんとしつけられているから怖くないわ。きっと、お嬢ちゃんとじゃれ合っているつもりだったのよ」
莉子を抱き起こしてケガがないかを確認した後、私たちを安心させるように笑顔を向けたのは50代くらいの女性だった。確かこの人とは、中層階向けのエレベーターの中で何度か顔を合わせたことがある。
すぐに飼い主の若いカップルが走り寄って来た。「申し訳ありません! 散歩中にリードが外れてしまって。お嬢さん、ケガはありませんか?」
幸い、莉子は腕を少し擦りむいた程度で済んだ。カップルは連絡先を書いたメモを渡してくれ、何度も頭を下げて去っていった。
「ありがとうございました。母親のくせに何もできなくて」。女性に礼を言うと、女性は優しく莉子の頭をなでながらこう答えた。「無事で本当に良かったわ。私、前に犬を飼っていたの。だから、すぐに対応ができただけ。気にしないで」
その時、一連の騒動を遠巻きに眺めている人たちがいることに気が付いた。中には葵ちゃんママと地権者ママの姿もあった。意味ありげな目配せを交わす二人に嫌悪感を覚えた。このところ葵ちゃんママにLINEを送っても既読スルーされている。出来の悪い娘を持つ私は、愛梨ちゃんママ同様、葵ちゃんママのママ友リストから抹消されたのだろう。
その年末、夫に大阪への転勤の辞令が出たのは、私にとっては渡りに舟だった。家族帯同で赴任し、莉子は大阪で2年保育の私立幼稚園入園を目指すことになった。これが1年前だったら、私は莉子のお受験を理由にテコでもここから動こうとしなかったはずだ。
夫は単身赴任を覚悟していたらしく、私が大阪に行くと言い出したことに驚いていた。
新居は夫の勤務先が市内のマンションを用意してくれた。専有面積は80㎡と広いが、8階建てだ。窓から見える景色も今とはだいぶ違ったものになるだろう。
結局、私や莉子はこのマンションにふさわしい人間にはなり切れなかったのだと思う。挫折感が全くないと言えば嘘になるが、一方で、人間の欲や毒が蔦のように絡まったこのおぞましい空中楼閣から脱出できることに安堵している自分もいる。
※この連載はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
森田 聡子/金融ライター/編集者
日経ホーム出版社、日経BP社にて『日経おとなのOFF』編集長、『日経マネー』副編集長、『日経ビジネス』副編集長などを歴任。2019年に独立後は雑誌やウェブサイトなどで、幅広い年代層のマネー初心者に、投資・税金・保険などの話をやさしく、分かりやすく伝えることをモットーに活動している。
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