夫の浮気で離婚、実家へ戻った「子供部屋おばさん」をATMにした“沼”の正体
Finasee / 2023年11月22日 17時0分
Finasee(フィナシー)
高橋智美はスーツケースを下ろして、腰に手を当てた。まだまだ元気だと思っていたけれど今年で44歳になる体はしっかりと老いをため込んでいるらしい。
「疲れたでしょう。降りてきて少し休憩でもしたらどう?」
「大丈夫。ちょっと荷物整理したらにする」
階段のところから呼びかけてくる母に返事をする。母が少しよそよそしい調子なのは、たぶん智美の傷心を気遣っているからだろう。
結婚生活の終わり智美は先月、23年の結婚生活に終止符を打った。原因は夫の浮気。もともと潔癖なところがある智美は謝ってくる夫の謝罪なんて受け入れることができなかった。汚らわしい。声を聴くのだってうんざりだった智美は2人のあいだに子どもがいなかったことも幸いし、早々に離婚届を突きつけて実家に戻ってきた。
名残惜しいと言えば、導線の使い勝手やデザインにこだわって作ったキッチンだ。夫はほとんど料理ができない人だから、きっとあのキッチンは埃(ほこり)をかぶってさびつき、コンビニ弁当の空容器をため込む場所になるのだろう。そう思うとほんの少し後ろ髪を引かれるような思いもあった。
「よし」
深く息を吐きだし、年末年始にしか帰ってこなかったのに掃除の行き届いている自室を見渡す。勉強机や本棚は昔のまま。智美が帰ってくる今日に合わせて母が洗って用意してくれたベッドからはまだ少し太陽のにおいがする。
またここから始めるのだ。智美はスーツケースを開ける。
突然の“出逢い”海斗と運命的な出会いをしたのは、徐々に実家での生活にも慣れ始めたころだった。
智美は深夜の居間でひとり、履歴書を書いていた。もう何枚目か分からない。もはや目をつむっていたって学歴欄を埋められるような気さえする。
短大を卒業してほどなく結婚し、ずっと専業主婦だった智美には働いた経験というものがほとんどなかったこともあって、就職活動は難航していた。加えてもともと社交的でもない智美は、面接では言いたいことの半分も話すことができなかった。
「はぁ……」
ため息をこぼし、髪をかきむしる。志望動機なんてお金を稼がないといけないとか、生活のためとかじゃダメなんだろうか。どうせみんなそうじゃないんだろうか。上手にうそをつける人間が選ばれるなんておかしいと、みんなは思わないのだろうか。
手元にはスマホを置き、イヤホンを通してYouTubeを聞き流す。学生時代の懐かしいバンドのMVが流れていたはずが、志望動機をあぁでもないこうでもないと書き直しているあいだに全く知らない音楽に切り替わっていた。もとに戻そうとして手を止める。智美はスマホの小さな画面に映る5人組の男の子たちに目を奪われていた。
まるで絵本から飛び出してきた王子様のようだった。それぞれに決められた色があるのか、赤、青、緑、黄、オレンジとカラフルなジャケットには金色の装飾が施され、彼らが舞い踊るたびに楽しげに揺れる。音楽とぴたりと調和したダンスと歌は素人目に見ても完成度が高く、どんな研さんを積めばこんなことができるようになるのか智美には想像ができない。
——暗い夜におびえないで。僕が君の朝陽になるから。
——手をつないで歩いていこう。I pray for you.
青い衣装を着た男の子がアップで抜かれる。智美に向けて右手を伸ばしてくる。ソロで最後の一節を歌い上げると同時に音楽もフェードアウトし、男の子がほほ笑む。頰にはえくぼが浮かび、ほころんだ唇の隙間から八重歯がのぞいた。
稲妻に打たれたことはないけれど、きっとそれくらいの衝撃だった。
いつの間にか履歴書にボールペンを押し付けていた。インクがにじみ、志望動機欄に穴が開いていた。
きらめく生活と督促状彼ら〈Candy Beats〉——通称〈キャンビ〉はデビューからまだ2年と間もないながら、高いクオリティーの歌とダンスに加え、バラエティーにも対応するトーク力やモデル顔負けのビジュアルで今最も注目を集めているアイドルグループの一つだ。
中でも智美がハマったのは如月海斗という「メンバーカラー:青色」の、えくぼと八重歯の男の子だった。
YouTubeで見ることができる動画は全て繰り返し視聴した。ファンクラブにもすぐに加入し、ファンクラブ限定のメンバーブログは過去のものまで全て読み込んだ。夫から支払われている月々の慰謝料でCDやライブDVDや生写真を買った。
誕生日は7月22日で23歳。東京都八王子市の生まれだけど父の転勤で小学2年から中学3年の秋までは福岡で暮らしていた。しし座で辰年。星座&干支バトルなら俺が最強だよねと真顔で言うのがファーストツアーの名古屋公演からの鉄板ネタで、好きな食べ物はケチャップのオムライス。だけどグリーンピースが食べられない。握手会ではそっけない態度を取っているけれど、実はメンバーやファンのことを人一倍大切に思っていて、ファンの顔と名前を覚えるのはメンバーのなかで一番早いし、ライブの途中ではよく手を振りながら泣きそうになっている。チャームポイントだと言われている八重歯は実はコンプレックスだと、デビューシングルのメイキングインタビューで照れながら話していた。
智美はそうやって、推しの全てをひもとこうとした。推しの全てを知り、受け入れようとした。推しを愛でることは生活のきらめきであり癒やしだった。
たとえ面接で失敗して就職活動がうまくいかなくても、スマホを開けば推しの笑顔があり、家に帰れば歌声で智美を慰めてくれた。母が風呂場で転んで膝を痛めても、時折夫から長文の謝罪メールが届いても、そういう現実のつらいことや面倒なことはすべて推しが忘れさせてくれた。生きていていいんだと教えてくれた。むしろ俺のために生きてくれとすら言われているような気がした。世界は推しを中心に回っていた。推しは智美の神だった。
息子でもおかしくない年の男の子に何を入れあげているんだと思わないわけではない。けれど推しを推すことはもはや生活に欠かせないものだった。食事をするように、風呂に入るように、智美は推しを推した。
「ともちゃん、これ、届いてたけど、大丈夫なのかい?」
居間で食事をしていると、母が封筒を渡してくる。カード会社からの督促だった。
「ああ、ちょっと払い忘れてただけ。大丈夫」
「お仕事は決まりそうかい? 慰謝料があるって言ったって、いつまでもそれで暮らしていけるわけじゃないんだろう?」
「分かってるよ。うるさいな。ちゃんとやってるよ」
智美は食事を途中で切り上げ、二階の自室へと向かった。ベッドで丸くなりながら、生写真を収めたファイルを抱える。
——暗い夜に怯えないで。僕が君の朝陽になるから。
自分のことを分かってくれるのは推しだけだ。
●「推し活」に没頭したいけれど無職の智美。お金のやりくりは大丈夫でしょうか? 後編「介護も手につかず母のお漏らしを放置… 『推しの炎上』で気づいた“痛すぎる”事実」にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
Finasee編集部
金融事情・現場に精通するスタッフ陣が、目に見えない「金融」を見える化し、わかりやすく伝える記事を発信します。
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