「一人息子のために…」中年夫婦にタワマン購入を決意させた“一方通行な愛情”
Finasee / 2023年11月24日 11時0分
Finasee(フィナシー)
マンションの前のイチョウ並木は落葉が進み、道路には黄金色のじゅうたんが広がっている。乾いた葉っぱを踏みしめながら、駅の近くのリカーショップへ急ぐ。
うっかり主人の好きな日本酒を切らしていた。普段は穏やかで人当たりのいい主人だが、夕餉(ゆうげ)にこれがないと目に見えて不機嫌になる。
とりわけ今日は、地権者の増岡さんのお孫さんの勉強を見てあげる日だ。さぞや気を遣い、疲れ切って帰ってくるに違いない。
急ぎ足で歩いていると、ふと前方からマンションに向かってくる母子(※)に目が留まった。母親に手を引かれた幼児の色白でクリっとした目や風に舞う茶色がかった髪が、息子の劉成の子供の頃にそっくりだったからだ。
※母子の詳細:【タワマンの「特別感」に心酔した元CA女性…ママ友についた“最初の嘘”】
黄色いダッフルコートにグレーのスパッツ。ハローキティのポーチを斜めがけにしているから、この子は女の子だろう。愛らしい姿に見とれていると、あろうことか、公園の方から猛スピードで駆けてきたシベリアンハスキーが幼児の上にのしかかった。
急な出来事に、母親は足がすくんで動けないようだ。あわてて駆け寄り、コマンドを口にした。「No!」「Lie down!」ダメよ、伏せなさい!
犬はびくっとして幼児から離れ、伏せのポーズを取った。
「大丈夫? このワンちゃんはきちんとしつけられているから怖くないわ。きっと、お嬢ちゃんとじゃれ合っているつもりだったのよ」
怯えて泣きじゃくる幼児を抱き寄せてけががないか確認する。どうやら、かすり傷程度で済んだようだ。間もなく、飼い主らしい若い男女も駆けつけてきた。
「ありがとうございました。母親のくせに何もできなくて」。恐縮する母親の顔には見覚えがあった。確か、いつも25階からエレベーターに乗ってくる人だ。
「無事で本当に良かったわ。私、前に犬を飼っていたの。だから、すぐに対応ができただけ。気にしないで」
まだ泣きやまない幼児の頭をそっとなでると、リカーショップへの道を急いだ。
このマンションに越してくる前、国立市の家にはオスのラブラドールレトリバーがいた。劉成の幼稚園の友達にブリーダーの息子さんがいて、年中遊びに行っていた劉成が「うちも犬がほしい」と言い出して聞かず、飼うことにしたのだ。
「できる限り自分でお世話をするから」と言うので、小学校に上がったタイミングで生後2カ月の子犬を譲り受けた。「フレディ」という名前も劉成がつけた。
家に来た頃は成猫ほどの大きさだったフレディは1年ほどでみるみる大きくなった。劉成が2年生になる頃には、劉成だけではフレディを制御できなくなっていた。
それでも、一人っ子の劉成にとってフレディは兄弟であり、一番身近な親友だった。
小学校の低学年の頃は、劉成の姿が見えず探し回るとフレディの小屋の中で一緒に寝ていたことが何度もあった。しかし、5年生から中学受験の塾通いが始まると、劉成がフレディと過ごす時間は半減した。中学からはサッカー部に入ったため朝練や夕練で時間が取れず、フレディの散歩は私の役目となった。
数学の教師だった主人に似たのか、劉成は成績優秀だった。進学した私立中学でも成績は常にトップクラスをキープしていて、担任の先生からは都心の有名私立高校受験を勧められた。「劉成君なら将来東大も狙えます」と言われれば、親としては悪い気はしない。
もっとも、劉成自身はまだまだ子供で、どんな職業に就きたいといった具体的な将来像を描いているわけではなさそうだった。
フレディの8歳の誕生日を祝った直後、劉成は第一志望の有名私立高校に入学した。都心にある高校までは、自宅から片道2時間近くかかる。高校でもサッカー部員となったので、7時の朝練開始に合わせて毎朝5時過ぎには家を出る必要があった。塾を終えると帰宅は22時過ぎだ。
劉成の体調を案じる私たちに今のマンションの購入を勧めたのが、不動産会社の部長職にあった主人の弟だった。
「劉成は東大を受験するんだろう? この新しいタワーマンションなら今の高校も東大もすぐ近くだ。それに、年を取るとこれだけの一軒家を維持していくのはなかなか大変だよ。その点、タワマンならゴミ捨ても楽だし、コンビニやクリニックも入っているから今よりずっと生活もしやすいと思う」
設備の充実したタワマンは市場価格も維持されやすく、一軒家と比べて相続税も大きく抑えられると聞いて、主人も真剣に考え始めたようだった。主人は常々、将来、一人息子の劉成に自分たちの介護や相続のことで負担をかけたくないと話していた。その点は私も全く同感だった。
唯一の気がかりがフレディのことだった。マンション内でのペットの飼育が禁止されていたため、フレディを連れていくことはできない。しかし、ママ友でもあった購入先のブリーダーに相談したところ、「そういう事情なら、フレディはうちで引き取る」と言ってくれた。
劉成には事後報告になってしまったが、ひと言、「分かった」と口にしただけだった。
翌年の夏、10歳になっていたフレディを残し、私たち家族は新しいマンションへと移った。
引っ越しの日、別れを察したフレディは劉成のそばを離れようとしなかった。岩のように動かないフレディをやっとのことで引き離し、私たちに促されるようにして車の後部座席に座った劉成は、フレディの姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。
●一人息子への相続を考えてタワーマンションへ引っ越し。しかし想定外の事実が発覚する。後編【息子の“まさかの告白”に絶句…タワマン住人の「相続計画」が打ち砕かれた瞬間】で詳説します。
※この連載はフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません。
森田 聡子/金融ライター/編集者
日経ホーム出版社、日経BP社にて『日経おとなのOFF』編集長、『日経マネー』副編集長、『日経ビジネス』副編集長などを歴任。2019年に独立後は雑誌やウェブサイトなどで、幅広い年代層のマネー初心者に、投資・税金・保険などの話をやさしく、分かりやすく伝えることをモットーに活動している。
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