息子の“まさかの告白”に絶句…タワマン住人の「相続計画」が打ち砕かれた瞬間
Finasee / 2023年11月24日 11時0分
Finasee(フィナシー)
<前編のあらすじ>
成績優秀な息子の通学、大学進学を見据えてタワーマンションへ引っ越してきた佐伯智子。波風立てず暮らしていたが、息子から驚きの事実を告げられる。
●前編:【「一人息子のために…」中年夫婦にタワマン購入を決意させた“一方通行な愛情”】
*家族三人でこのマンションに越してきた8年前の記憶をたどると、広く取った窓からぼんやりと新宿の高層ビル群の方向を見つめていた息子・劉成の姿が像を結ぶ。高層ビルのずっと先には、愛犬のフレディと共に暮らした国立の家がある。
昭和の時代に建てた一軒家で暮らしていた私たちにとって、このマンションの最新設備は驚きの連続だった。主人の弟が言った通り、ゴミ捨ては楽だし、買い物や通院、外食といった大抵の用事は1階のテナントで済む。極めつけが、晴れた日の都心を見渡す素晴らしい眺望だ。
とはいえ、お上りさん気分で新生活を楽しめたのは最初の数カ月に過ぎなかった。大らかな雰囲気だった国立の自治会と違い、マンションの住民には厳然たるヒエラルキーが存在した。中層階のオーナーである私たち夫婦はさしずめ「中の中」といったところか。
「上の上」の地権者の増岡夫人とお近づきになると、ホームパーティやマンション内の行事などに駆り出されるようになった。料理や裁縫、フラワーアレンジメントなどひと通りこなす私は、使い勝手がいいと思われたのかもしれない。
相手が相手だけに無下に断るわけにはいかない。そうすると今度は、現役校長だった主人に孫の勉強を見てほしいと言い出した。
頭のいい主人はマンション内の空気を薄々察していたのだろう。二つ返事で週末、増岡さんのお孫さんの家庭教師を引き受けた。当時高校1年生だった上のお孫さんは第一志望の大学に合格し、今は高校生になった下のお孫さんの相手をしている。
いずれは劉成に引き継ぐこのマンションで、波風立てずに暮らしていく。私たち夫婦の望みはそれだけだった。しかし、引っ越しから1年も経たないうちに、そんなささやかな望みを打ち砕くような出来事が起きる。
劉成が北海道大学の獣医学部を受験すると言い出したのだ。
これには言葉を失った。勉強とサッカーを両立させてきた劉成は進学先の有名私立高校でも成績を維持し、東京大学の理科三類はギリギリだが理科一類なら合格圏内と言われていた。それなのに、なぜ?
主人は「劉成の人生だ。自分の決めた道を歩むといい」と突き放した。それでも私は納得できず、劉成に何度も再考を促した。
結局、劉成は意志を貫いて北大を受験し合格。翌年の桜の季節には私たちの下から旅立った。そして、以降は春や夏、年末年始といった大学の休暇期間中も一度として我が家の敷居をまたぐことはなかった。
その劉成から久しぶりに「家に帰る」という連絡が入ったのは今年の春。帰宅した劉成は大学の同級生だという小柄な女性を伴っていた。
「この人と所帯を持とうと思って」
平成生まれなのに随分古めかしい言葉遣いをするのだなと思った。
劉成は大学を卒業し、獣医師国家試験に合格したばかりだった。彼女の父親が釧路で動物病院を経営していて、今後はそこで働くつもりだという。
「分かった。劉成の好きにすればいい」。主人の口調は、劉成が北大を受験すると言い出した時と全く同じだった。
私は「二人ともまだ若いんだし、急ぐことはないんじゃない」と返した。それが精一杯だった。
6月に釧路で執り行われた結婚式には、私たち夫婦も参列した。初めてお会いした新婦のご両親はいかにも道産子といった朴訥(ぼくとつ)な方々で、陽気なお父さん先生と劉成の間には、既に実の親子のような信頼関係が構築されているのがうかがえ、少しばかり嫉妬した。
披露宴の席で「お久しぶりです」とビール瓶を手に寄ってきたのは、劉成の幼なじみのブリーダーの息子さんだった。
「すっかりご無沙汰しちゃってすみません。お二人にお話ししなければならないことがあって」と切り出したのは、あのフレディの話だった。
フレディが2年前にラブラドールレトリバーとしては長い15年の生涯を終えたこと、老衰だったこと……。衝撃だったのは、亡くなる前の1週間、劉成が国立駅の近くのホテルに泊まりこんでフレディの最期を看取っていたことだった。
「ご両親にも連絡した方がいいんじゃないかって劉成に言ったんですけど、『いや、いい』って」
「あいつ、北海道に行ってからも時々フレディの様子を見に見てたんですよ。彼女さんと一緒だったこともあったな」
何だか遠い世界のことのようで、話の内容が頭の中に落ちてこない。劉成が帰宅しないのは、獣医学部の実験や実習が忙しいからだとばかり思っていたが、違った。劉成にとっての我が家は、フレディのいる国立だったのだ。
「僕らももっとフレディに会いに行ってやれば良かったな」。主人が低い声でつぶやいた。
帰郷してしばらくすると、主人が遺言を作成すると言い出した。「還暦を過ぎたばかりなのに、早過ぎない?」と茶化すと、「こういうことは早い方がいいんだ」と語気を強めた。その表情からは、強い覚悟が感じられた。
国立時代から懇意にしてきた弁護士事務所に我が家の財産管理を任せ、私たちの死後は残った財産を慈善団体に死因贈与するという。
「何をバカなことを言っているの? そもそも劉成への相続を考えてこのマンションに越してきたんじゃなかったの?」
しかし、主人の決意は固く、9月に私たちは自分たちの意向を記した公正証書遺言を作成した。正本のコピーを釧路に送ったが、劉成からは何の反応もない。
窓辺に立つと、サッシがかたかた音を立てた。早いもので、今年も木枯らしの季節がやって来たようだ。
「風立ちぬ 、いざ生きめやも」。何十年も前、女学生時代に愛読した小説の中の一節がふと口をついた。
劉成やフレディと過ごした日々にはもう戻れない。あとどれほどの寿命が残されているのか知らないが、私たちは、この摩天楼で生きていかなければならない。
※この連載はフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません。
森田 聡子/金融ライター/編集者
日経ホーム出版社、日経BP社にて『日経おとなのOFF』編集長、『日経マネー』副編集長、『日経ビジネス』副編集長などを歴任。2019年に独立後は雑誌やウェブサイトなどで、幅広い年代層のマネー初心者に、投資・税金・保険などの話をやさしく、分かりやすく伝えることをモットーに活動している。
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