35年ぶりに再会した父と子、孤独な老後を過ごす父が息子に言った”あり得ない”一言
Finasee / 2023年11月30日 18時0分
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Finasee(フィナシー)
冷たく薄暗い部屋のなかには、暖かく柔らかい外の光がわずかに差し込んでいる。小山田昭一はその境界線に腰を下ろし、かすかに聞こえる音に耳を澄ませる。
近くの公園で遊ぶ子供たちの声。道路を走っていく車のエンジン音。少し前までは、時折吹く風が奏でていく葉擦れの音も聞こえていたはずだったが、今はもう聞こえなかった。
「なあ、芳美」
昭一は長年の喫煙ですっかりしゃがれた声を絞り、窓から部屋のなかへと視線を移す。しかし返ってくる声はなく、昭一の視線には遠い昔に別れた妻の写真が小さなちゃぶ台の上に置かれているだけだった。
ここのところ暮れるのが早くなった冬の西日だけは、慰めるように昭一の丸まった背中を温めている。
夢破れ、すべてを失った昭一はひとりだ。35年前に妻が息子を連れて出て行ってから、ずっとひとりだった。
いつも夢を見ていた。画家になりたくて美大に進んだが画家にはなれず、小さな絵画教室で、油彩と水彩の区別さえ曖昧な中年女性たちに絵を教えた。
そんなうだつの上がらない日々のなかで、昭一は芳美と出会い、息子の晃が生まれた。今振り返ればそれは昭一の人生の絶頂だった。だが昭一はそれに気づくことができなかった。
俺の人生はこんなもんじゃない。
そんな夢とも呪いとも分からなくなってしまった青い妄想に、昭一はのみ込まれていた。
描いた絵は認められず、酒を飲んで暴れた。芸術家と常識外れをはき違え、欲望のままに浮気を繰り返した。われながらろくでもない父親だと今になって思う。芳美たちが出て行ったのは当然だ。家の壁のあちこちに開いた穴からは、出来損ないの昭一を苛(さいな)む声がずっとささやいている。
芳美たちがいなくなり、家族がちっぽけな自分に残されたすべてだったことに気がついた。けれど一度、黒く塗ってしまった絵に取り返しがつかないように、壊した家族が元通りになることはなかった。
失ったものの大きさを知った昭一は、同時に絵も描けなくなった。
そのとき昭一は死んだ。死んでいながらに生きていた。
芸術ばかりをやってきた昭一には友達もいなければ、近所との付き合いもない。芳美の写真に話しかける以外、昭一が声を出すのはコンビニの店員にタバコの番号を伝えるくらいのものだった。
現世に取り残された幽霊のようだった。出来損ないの昭一には似合いなのかもしれない。
突然の来訪者いつの間にか眠り、うまく眠れずに夜明け前には目が覚める。すべきことはない。せんべい布団の上に座りながら、ただ時間が過ぎるのを待っている。
「なあ、芳美」
妻の写真に呼びかける。しかし呼びかけるだけでいつも次の言葉は出てこない。ほかでもない自分がないがしろにし、傷つけ続けた芳美に、一体どんな言葉を掛ければいいのかが分からない。
喉元でほどけて消えていく言葉の代わりにたばこをくわえた。親指にめいっぱいの力を込めて火をつける。肺のなかを紫煙で満たす。吐き出した煙は薄まりながら、天井へと上っていく。
窓から差し込む光の強さで、朝になったのだと分かる。
こんな生活でも腹は減る。昭一は机に手をついて立ち上がり、冷蔵庫の中身を確認する。少し前に買ってなんとなく食べる気をなくしていたコンビニ弁当が傾いたまま突っ込まれている。冷え切った弁当をレンジで温める。洗い忘れていた箸をそのまま使って、弁当を食べる。
弁当を食べたあといつの間にか眠ってしまった昭一が目を覚ましたのは、——ポーン、と家のなかで響いている音に気がついたからだった。
ピンポーン。
玄関のベルが鳴る。昭一のもとを訪ねてくるような人間に心当たりはなかった。けれどベルはまた鳴り、さらにもう一度鳴った。
これは出ないといつまでも鳴らされそうだと、昭一は仕方なく立ち上がる。外の寒さは堪えるからと床に放り出されていたジャンパーを羽織る。もう何年も掃除をしていないフローリングの上を歩いて、右足の靴下が脱げていることに気づいた。
鍵を開けて扉を開ける。黒い上着を着た、知らない男が立っている。歳は五十くらいだろうか。どちらさまですか、昭一は男に聞いた。男はため息を吐いた。
「まあ35年ぶりじゃ仕方ないか。俺だよ、オヤジ。晃だよ」
男はそう言って、白髪交じりの髪を上げる。右のこめかみにはくっきりと縫った痕があった。
落ち葉を巻いた冷たい風が、家のなかへと吹き込んでくる。
思ってもいない「言葉」「……何の用だ」
昭一は目を細める。ジャンパーのチャックを一番上まで上げた。
晃だと名乗る男は昭一を見下ろしていた。出て行ったときはまだ高校に上がったばかりで小柄だった息子とは似ても似つかなかったが、右のこめかみに残る縫い痕は、たしかに昭一の暴力がかつて息子に負わせたけがだった。
「寒いから入れてくれよ」
晃は昭一を押しのけるようにして家のなかへと入ってくる。昭一はされるがまま晃の侵入を許してしまう。
「ひどい臭いだな。掃除とかしてないだろ。大丈夫なの?」
「お前には関係ないだろう」
「まあそうだけどさ」
晃はつま先立ちで歩きながら、脱いだまま床に放置している洋服を足で脇へとどかしていった。「うっ」と小さくえずくような声を漏らしていた。昭一はだんだんと恥ずかしくなり、ゴムの伸びた寝間着の太もものあたりを強く握った。
「もしさ、あんたがいいなら、一緒に暮らさないか? 嫁も構わないって言ってくれてる。息子は京都の大学だし。あんたを養うくらいの蓄えはある。さすがにこんな生活、みじめだろう」
どうしてこの男は突然現れて、自分のことを辱めるのだろうか。
どうして顔も名前も知らない赤の他人の女から勝手に住むことを許されなければいけないのか。
どうして今の生活がみじめだと決めつけるのか。
どうして、どうして、どうして――。
「あいつが、芳美がいるだろう……」
「母さんは死んだよ」
座るところがないと諦めたらしい晃は、昭一のほうを見ることなく言った。昭一は喉の奥がひくりと音を立てたような気がした。
芳美が死んだ。判然としない頭のなかで、その事実を何度も繰り返してかみ砕こうとした。
「もう葬儀とかは終わってて、先週四十九日も終えたとこ。せめて報告くらいはしてやろうと思ってさ」
「なにを今更。あいつは……あれだ、もう35年前に死んだようなもんだろう。俺の家から出て行ったんだからな。どうでもいい」
混乱しているのに、言葉だけははっきりとこぼれた。一体自分のどこから、こんな思ってもいない言葉がこぼれたのか、昭一には分からなかった。
「それ、本気で言ってんの?」晃が目を細める。「やっぱろくでもねえ男だな、あんたは。失望したよ。こんなゴミためみたいなところで暮らして、人として終わってるよ」
晃は舌を打ち、やはり昭一を押しのけるようにして玄関へと向かっていく。肩と肩が交差する瞬間、「来なきゃよかったわ」と晃が吐き捨てた。
「じゃあな。もう二度と会うこともないだろうけど」
扉が勢いよく閉まる。入り込んだまま出口を見失っていた冬の冷気は、あっという間によどんだ空気にのみ込まれていった。
晃が立ち去ったあとも、昭一はしばらくその場に立ち尽くしていた。
羞恥心といら立ちが胸中でとぐろを巻き、芳美が死んだという事実がかろうじて保たれていた何かに亀裂を入れていく。
「あああああああっ!」
声を荒らげる。壁を殴りつける。しかしかつてのように穴は開かず、壁を打った拳だけがひたすらに痛んだ。心臓が脈打つ。皮膚が怒りにあわ立っている。
「——っ」
突如襲い掛かった痛みに、昭一は胸を押さえてうずくまった。息ができなかった。
必死に床をはい、ちゃぶ台の上の芳美の写真に手を伸ばす。
カーテンの隙間から差し込む光が、昭一の世界を穏やかな金色に染めていった。
●決別してしまった昭一と晃はふたたび分かり合う事ができるのか? 後編「ゴミまみれの部屋で孤独死をした父… 遺品整理で見つけた“意外な”モノ」にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
Finasee編集部
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