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自損事故がきっかけで認知症を発症… 父と息子の“限界田舎”の介護生活

Finasee / 2023年12月25日 18時0分

自損事故がきっかけで認知症を発症… 父と息子の“限界田舎”の介護生活

Finasee(フィナシー)

いつの間にかテーブルに突っ伏して眠っていたらしい。康太が渇いた口を開けて深く息を吸いこむと、カビ臭さが感じられる。どこから漂う臭いなのかは分からない。痛みを訴える頭が重かった。

うっすらと埃(ほこり)の積もったダイニングテーブルの上には痛みの原因――発泡酒の空き缶と睡眠導入剤のシートが散乱している。

仕事に行かなくては――。

昨日から着たままの皺(しわ)だらけになったワイシャツからは汗の臭いが漂っている。ワインをこぼしたのか、曲がった襟には薄赤のシミがついている。

康太はワイシャツを脱ぎ捨てシャワーを浴びに向かう。ジェルで固めた髪は浜辺に打ち上げられた海藻のように脂ぎった額に張り付いている。足しげくジムに通って鍛えていた身体は、ここ最近の不摂生であっという間にたるんでしまった。右の乳輪から、太く縮れた毛が1本伸びている。

出来心でしてしまった不倫のせいで妻に別れを告げられてから二カ月がたっていた。

品行方正を絵にかいたような女で、曲がったことが嫌いだった。その真っすぐさには多少の息苦しさを感じてはいたものの、自分には出来すぎた妻だと分かっていた。

それなのに、つい魔が差してしまった。康太は41歳にもなって取引先で知り合った28歳の女に甘えられたことで、いい気になっていたのだろう。酒の勢いもあって1度だけ肉体関係を持ってしまったが、それはすでに取り返しのつかない過ちだった。

クレジットカードの明細からホテルの利用がばれ、芋づる式に1度きりの不貞がばれた。

その翌日、仕事に行った妻は帰ってこなかった。リビングにはハンコの押された離婚届だけが置いてあった。半年間の調停の末、康太は離婚届に判を押す。妻は事を荒立てたくないと慰謝料などは請求してこなかった。それは妻のほうが給料がいいという事実の当てつけかもしれなかったが、康太にできるのは謝罪だけだった。

全てが終わって、大きすぎる後悔と広くなったこの部屋が残った。

病院からの電話

着替えを終えて出社する。ワイシャツは洗ってあるものがなかったから、洗濯かごのなかから比較的きれいなものを選んで着た。少しにおう気がしたから、置いてあったファブリーズをふりかけた。目に入ったせいで、右目だけが充血している。

夜、眠れないせいで昼過ぎになるとどうしたってまぶたが重くなる。どうしようもないときはトイレの個室で仮眠をとった。サボっていたところで誰も何も言ってこない。康太のことなんて気にもとめていない。取引先社員との不倫と離婚はもっぱらうわさになっていて、むしろ康太は腫れ物扱いされていた。

帰り際、知らない番号から電話がかかってきているのに気づく。離婚調停以来、方々から電話がかかってくることも少なくなかったので、心当たりのない市外局番だったが康太は電話に応じた。

「——私、七ヶ台市立病院の笠井と申します。柳田康太さまでお間違いないでしょうか」

七ヶ台は康太の生まれ育った東北地方の地元の近くだった。笠井と名乗った看護師は父の重治が事故に遭ったと教えてくれた。幸い大事ではないものの、足の骨を折り、腰を痛めてしまって入院しているとのことだった。

康太は病院との通話を終えるとすぐに重治へと電話を掛けなおした。病室では電話に出ることはできない重治からすぐに〈なんだ〉とメッセージが返ってくる。聞いてみれば、車を運転している際にアクセルとブレーキを踏み間違えて電信柱に追突してしまったらしい。康太は頭を抱えた。

母は幼いころに亡くなっていて、重治は1人田舎で酒屋を営んでいる。父の老後や介護をどうしていくのかは、康太がずっと先送りにしてきた問題だった。

不倫がバレて以来、何もかもがうまくいかなくなっていた。

心機一転やり直そう。

三カ月後、康太は疲れ切った心身を引きずって、実家へ帰ることにした。

父の異変

足腰を悪くした70過ぎの父が酒屋を続けることは困難だったため、店は康太が継ぐことになった。

会社では経理部だったこともあり、小さな酒屋の金勘定は苦ではない。経営自体はいくつかの飲食店と地元住民の来客で安定しているので、売り上げが大きく跳ねることもなかったが大きく沈むこともないのは安心材料の一つだ。

とはいえ、介護のほうは慣れないことが多かった。足腰の悪い父を支えて風呂に入れるのは重労働だったし、そもそも家事を全くやってこなかった康太にとって、2人分の料理をすることも洗濯や掃除をすることも大変だった。

1日が終わるころにはくたくたになっている。ようやく手に入れた1人の時間、康太は離婚以来手放せなくなった酒をあおる。実家が酒屋なのは幸いだ。いざとなれば飲む酒には困らない。

物音に反応して振り返ると重治が起きてきていた。父はもう家の中であっても歩行器がないと歩けない。田舎の平屋だから廊下が広いことが幸いし不便はないが、自分の足で存分に歩くことすらままならない父を見るのはまだ慣れなくて少しつらかった。

「どうしたの? 寝られない?」

父は黙ったまま立っている。康太はビールを喉に流し込んで沈黙を埋める。父の視線が泳いでいた。

「……どちらさまでしょうか?」

康太には一瞬意味が分からなかった。

「は? 何ふざけてんだよ」

康太は半笑いで言ったが、父は困惑して眉をひそめていた。

「おいおい、マジかよ」

康太は天を仰いだ。

●父が認知症に。康太は父の介護、家事、家業の酒屋を両立していけるのか……。 後編「親の介護でつぶされちゃった人」にならないために…  “恍惚の父”を介護する息子の決心】にて、詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

梅田 衛基/ライター/編集者

株式会社STSデジタル所属の編集者・ライター。マネー、グルメ、ファッション、ライフスタイルなど、ジャンルを問わない取材記事の執筆、小説編集などに従事している。

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